此岸と彼岸の間、黒い影
冴え渡る冷え冷えとした月が湖面を照らしている。
あたりを見回してみても、湖と木しかない。けれど、どことなく見覚えのあるような景色が広がっていて。
「?」
そのことについて深く考えるよりも前に、どこからか視線を感じた。なんとなくこっちかな、という感覚に従って、その方向を目を凝らして見る。すると、闇夜に溶けそうな黒い人影のようなものがぽつねんと立っているのが見えた。それがすごく気になって、歩いて近づいていく。近づくにつれて、その影が異様であることに気がついた。
それは月明かりに照らされてなお、影なのだ。足元の影のように、真っ黒く塗りつぶされていて、顔も服装も何もわからない。まさしく、黒い影としか呼べないようなもの。その影から、ノイズで乱れたような、無機質な声がして。
「カエレ、ツキノナカニ」
その言葉はひどく聞き取りずらくて、意味を理解するのに時間が必要だった。影は同じ言葉を繰り返す。月の中に帰れ、と。どういう意味なのかわからなくて、首を傾げると、スッと黒い影がある方向を指差した。
「……私?」
その指の先では、この世界に来たときと同じ服装の私が岸の淵に立っていた。その姿は、どこか疲れ切っていて。
「おかあさん、待っててね」
虚な表情でそう言葉を紡いだかと思うと、制服姿の私は池へと向かって身を投げた。思わず手を伸ばした私の向こうでは、夜の湖が湖面を揺らして彼女を受け止めて。不思議と派手な水音も、飛沫もなく、とぷんとその姿は月を溶かし込んだ湖に消えていく。
「カエレ」
帰れ、としきりに黒い影は言う。なぜだかわからないけれど、満月の日の夜、湖に映った月に飛び込めば帰れる、というのが嘘ではないことは不思議とわかって。
「どうして帰りかたを教えてくれたの?」
朱羅を好きになるまえだったら喜んで帰っていたのに、今になってどうして。その気持ちが少しもなかったとは言わない。なぜなら、声音にはそれが滲んでしまっていたから。けれど黒い影にはそれがわからなかったのだろう。
「カエレ、カエレ」
その言葉を壊れたテープのように繰り返すだけ。なぜか黒い影に対して怖いきもちが持てないせいで、下手なホラー映画の演出みたいだなあと、小さくため息を吐き出す。とりあえず黒い影のことは置いておくとして。このさきどうしようかと考えようとして、ふと違和感を覚えた。
私、いつ外に出たんだろう。家に閉じこもったんじゃなかったっけ?
そのことに気がついた途端、芋づる式にすべてを思い出して。これは夢で、現実の私は意識を失ってしまったのだと理解する。理解してしまったせいで、夢の中にいるのに、現実の感覚を持ってきてしまったみたいに急激に体が冷えてきて寒くなる。体が震えて、立っているのも辛くなってしゃがみこんでしまった。
とにかく落ち着こう、そう思って深呼吸をしようと息を吸い込んだ。けれど、その空気すらいつのまにか冷たくなっていて。その冷たさは内側から針のような痛みとなって私を襲う。
――いたい、さむい
ガタガタと震える指先と寒さだけが感じられて、現実で気を失ってしまった私は死ぬのだろうかと恐ろしくなる。古来よりこういうときは寝ちゃダメだと、よく書いてあるのに。私が危ない目に遭いそうになる度に助けてくれている朱羅は、今回は帰ってくるのがいつになるのかもわからない。
諦めから目をつむると、ふいにくちびるが何かに優しく押されたような感覚があった。それを疑問に思うと、今度はやわらかな何かがふわりと触れては離れていく。嫌ではないけれど、不思議な感覚に戸惑っていると、ふうっと胸の奥が暖かくなって。思わず胸元を握りしめると、その暖かさが消える頃に、また新しく暖かな何かが吹き込まれて。それのおかげで震えがゆるやかに止まっていく。何かを吹き込まれる度に感じる暖かさが気持ち良い。ほうっと恍惚の息を吐いて、うっとりと目を閉じていると、黒い影がまた言葉を紡いだ。
「帰れ、人間であるうちに」
黒い影の流暢な言葉に驚いて。反射のように黒い影の方へ振り向こうとして、目の前が真っ暗になった。




