おにいさん、なんだか遠くに感じます
「行ってあげてください。呼んでるんでしょう?」
そう言った私の言葉を聞いたヨネさんは、しばらくの間逡巡していた。何か言おうとしては口を閉ざして、言葉を探すように目を泳がせてを繰り返す。
けれどしばらくしてから、ようやく重々しく口を開いて。
「わしの返事は、娘夫婦がこっちに来るまで待ってくれるそうじゃ。だから華ちゃん、もう少しだけ考えさせとくれ」
そう、蚊の鳴くような声でぽつりと言葉を落とした。
それに頷いて肯定の意を返したところで、ヨネさんは仕切り直すように手を叩いて。
「さぁさぁ、こんなおいぼれのために暗い雰囲気にするわけにゃいかんからの。今夜は豪勢に玄米を食べる予定だったんじゃ。なおさら、暗くするわけにはいかんじゃろ!さ、華ちゃんも手伝っとくれ!」
そう言われたので2人して厨に立つ。渡されたのは糠床から取り出された野菜で。知らないうちにつけておいてあったらしい。ぷんとどこか独特の匂いが鼻をつく。それを私が指示されたように切っていく傍らで、ヨネさんが中身の入った釜をどこからか取り出すと、竈に置いた。
「抜かりなく一刻以上つけてあるからの。美味しくできるはずじゃ」
鍋の中では、置かれた衝撃で表面が波立っていて、玄米が水の中をゆらゆらと漂っているのが見える。それを隠すように蓋をしたヨネさんは、どことなくやる気に満ち溢れていて。
「あとは火の番だけさね。久しぶりに腕が鳴るわい。完璧な玄米ご飯を食べさせてやろうねえ」
私に向かってそう宣言すると、グツグツと微かに音のする釜をジッと見つめて動かなくなってしまった。
「……えと、ヨネさん、他にやることある?」
「ないよ。それより耳を澄ませるんだ!この玄米の声、聞こえるだろ?わしらはこの声を聞いて調理するんだ」
微動だにしない姿に恐る恐る声をかけると、振り向きもしないまま一蹴されて。玄米の声、とかいろいろと言われてたじろいでしまう。ヨネさんの何かのスイッチが入ってしまったんだなぁと、邪魔にならないようにいつも使っているぺらぺらのわら座布団のところに座った。
――パチパチ、ぐらぐら
薪の爆ぜる音、玄米が炊かれる音が響く空間に、窓から風が吹き込んでくる。その風は既に初夏の終わりを告げるように、じめじめとした湿気を含んだ土の香りがした。
*
手紙には、ヨネさんの娘さん夫婦がこの村にやって来るのは文月の終わりだ、と書いてあったらしい。ヨネさんがその日の夜、玄米ご飯と糠漬けを食べながらそう教えてくれた。ご飯を食べる手の合間に、そこそこ重要な話が挟まれるのは新鮮な体験ではあったけれども。
「ねえ、朱羅」
「なんだ?」
「私があのお家から出ていくことになったら、どうしたらいいと思う?」
それから既に時は流れて。
手紙にあった文月の終わりがそろそろ目前に迫ってきていた。そのせいか、ヨネさんはここ最近毎日気もそぞろで、うっかりすることもかなり多い。洗濯物を忘れて洗い場に行ったときには、私が慌てて持って行ったくらいだし。
ヨネさんがそれだけ楽しみにしているとなると、ますます私が引き止めたくないなというきもちが強くなる。
「俺の家に来るか?華にとっちゃ辺鄙な場所にあるから、入ったら出られんかもしれんが」
胡座をかいた膝の上に肘をついた朱羅が、どこか悪戯っぽく微笑して。肘をついている手と反対の手で、そっと私の落ちかけている髪を耳にかけ直した。その仕草が優しさに溢れていて、気恥ずかしさに緩みそうになる口元をきゅっと引き結んだ。
「どうしても困ったらそうしようかな……」
「出られんかもしれんと言ったのに、いいのか?」
自分から言い出したくせに、どこか不安げな朱羅の声に笑って頷く。それに朱羅ならそう言っていても、私がわがままを言えば出してくれるのだろうという、確かな信頼のようなものが私の中にはあった。
「眩しいな、華は」
「え?」
「お前のようなやつは、俺には眩しすぎる」
ぽつりとその言葉を口にした朱羅は、本当に何か眩しいものを見ているかのように、目を細めて私を見ていて。それがなんだか寂しくて、朱羅の手を握った。
「そう?私には朱羅が眩しくて、なんだか遠くにいるように感じるけど。でも、いま手を取れる距離にいるのは確かでしょう?だから、私はこの時間を大切にしたいなって思ってるよ」
朱羅の顔は私がいた世界でも類を見ないほど整っているし、声も落ち着いていて聞いていてうっとりしそうな美声をしている。身長だってすごく高い。
それに性格だって女の子なら誰でも夢想するような、男前な性格で。
朱羅は外見も中身も完璧なのだ。
――私の世界にいたら、私なんてきっと見向きもされないだろうと思うくらいには。
きっと、本当に眩しいのは朱羅で、私はその朱羅の光を反射している月みたいなものなんだと思う。それか、異世界フィルター的なのもあるかもしれない。
「眩しい?俺がか?」
「そうだよ。私にとってはきんきらに輝いてるんだから!」
そう言って、何かに気がつきそうな心に封をするように、そっと目を伏せた。




