おにいさんって何者ですか?
ふわっと、ここ最近で嗅ぎ慣れた匂いが鼻腔をくすぐる。ほっと息を吐いてしまうような、落ち着いた匂いのなかに感じられる、少しだけ甘い香り。この香の持ち主は、私を安心させるようにもはや慣れた手つきで、優しく頭を撫でて。
「俺の許嫁に、何か用でも?」
そっと見上げるとそこには予想通り、朱羅がいた。助けてほしいと願って、でも朱羅が都合よく現れることなんてないと思っていた。だけど、朱羅は来てくれた。そのことが嬉しくて。口元が弛んでしまいそうになって、くちびるを小さく噛んで誤魔化す。
「い、いいなずけ?」
利市さんが驚いたように言葉をおうむ返しする。目線は私と朱羅との間を行ったり来たりしていて。明らかに動揺しているとわかる。私も許嫁と言われて動揺したけれど、朱羅が目で話を合わせてくれと語りかけてくるので、小さくこくりと頷いた。それが利市さんには、許嫁であるという質問に対して頷いたように見えたらしく。
「なっ…!だったら先に言っておけよクソアマ!気のあるフリしやがって!!!時間の無駄だったじゃねえか!」
朱羅の登場に気圧されていた利市さんは、突如として怒りに顔を歪ませて。自分の言いたいことだけ言って、強く睨んでくるけれど。
「私、最初から貴方に気のあるそぶりなんてしてないです。世間話の一環から外れた行動をしていたのは、利市さんの方では?」
朱羅という絶対的な味方がいることで気が緩んだのか、反論が口を衝く。利市さんは、まさか言い返されるとは思っていなかったのか一瞬怯んで。この際だから言いたいことを全部言ってやろうと言葉を重ねた。
「そもそも!貴方が私に言い寄ってきたのであって、私から話しかけたことないですよね。私は貴方と必要以上に仲良くする気もないし、これからもそれは変わらないです」
キッパリと言い放つと、利市さんは沈黙して悔しそうに歯噛みして。その様子に満足しつつ、朱羅を見上げるとひとつ頷きを返された。これで二度と絡まれることもないだろうと思っていると、朱羅が利市さんの方に近づいて。
「――――」
「なっ…?!お前それどこで!!!」
何かを耳打ちすると、ザッと利市さんの顔が青褪める。どうやら朱羅がしてくれた頷きは、私を良くやったと仕草で褒めるものではなかったらしい。私が見上げて目を見つめたのを、追い討ちをかけてくれと受け取ったようで。それに対する返答の仕草だった。
「そういうことで、よろしく頼むぜ?」
利市さんから距離を取った朱羅は、そう言って口端を片方だけクイっと持ち上げた。それが嫌味なくらい様になっているなあと思っていると、利市さんは肩を怒らせながら私達の反対方向へと歩いていった。
「ねえ、朱羅」
「なんだ?」
「最後、なんて耳打ちしたの?」
「さて、なんだったか忘れたな」
しれっと嘘を吐いた朱羅が、肩をそっと抱き寄せて歩き出す。別に見せつける相手ももういないのに。けれど、助けてくれたのだからまあいいかと思い直して、朱羅の好きにさせることにした。
「あれ、そういえば許嫁って何?」
「許嫁がわからないのか?」
「いや、意味はわかるけれども」
「ああいう手合いには、こういう言葉が一番効くんだよ。あいつの父親も、もう問題の尻拭いなんかしたくないだろ」
「ふーん?……じゃあもし次があったら、今度からは許嫁がいるって言った方がいい?」
「そうしてくれ」
そういうものなのかと納得していると、設定を詰めると朱羅に言われて。朱羅が次々に設定を決めていくのを必死で覚えていく。そのせいで私は、朱羅の言葉に一瞬覚えた違和感を、そのまま流してしまった。
*
その日の夜のこと。
朱羅とした村での一幕がヨネさんの耳に入ったのか、寝る前に、いつかのように話をヨネさんから振られて。
「華ちゃん、許嫁がおるって嘘じゃろ」
「ヨネさんなら知ってると思うけど、いないよ」
ヨネさんは私を拾ってくれたのだから、どうやって今日まで来ているのかをよく知っている。だから、隠す必要もないかと正直に返すと、じゃろうて、とひとつ頷きを返される。
「なら、華ちゃんと一緒にいた美丈夫は誰なんじゃ?村の人間は、口を揃えてあんな若者見たことないと言うんじゃ。このババも利市に歳が近い美丈夫の話なんて聞いたことない」
「えっと、それは……」
言い淀んで、自分の出身とかを聞かれたらこう答えてくれ、と言われた朱羅の言葉を脳内で辿る。
「――黄炎村の朱羅」
「……っ!?」
ハッとヨネさんが息を呑む音が、2人しかいない空間ではやけに響いて。その驚きようがあまりにも異常で首を傾げる。ヨネさんは自分を落ち着かせるように大きく息を吐き出すと、苦々しい口調で言葉をぽつりと落とす。
「華ちゃん、もうその男とは会わんほうがええ」
今度は私が息を呑む番だった。
朱羅は私を助けてくれたのにどうして?
ヨネさんは朱羅を知っているの?
黄炎村っていうところも知っている?
いろんな疑問が頭を駆け巡って、でもそれらはうまく言葉にできなくて。
パチリ、炎に炙られた木が爆ぜる音がした。




