【三】《22》
「それはそうと、今日は裕に訊きたいことがあるんだ。常識では考えられないほどの筋力を得られる薬。そんなものがこの世に存在するかな」
昨夜の黒ずくめが脳裡にちらつく。静生の知識と経験だけでは、あの人間離れした能力を説明することができない。だが、優秀な頭脳を持つ裕一郎ならあるいは──。
「それはスポーツや格闘技の世界で見られるドーピングみたいな話ですか? 筋肉増強剤には明るくありませんけど、ステロイド系の進歩は日進月歩ですからね。国策として開発している国もあるようですし、公表されていない強力な薬物は少なからず存在していると思います。ただ、常識では考えられないというのはどの程度のことを言っているんですか」
「例えば、片側三車線の道路を飛び越えるとか」
裕一郎はしばらく沈黙していたかと思うと、急に吹き出して呆れた声を出した。
「静さんらしくない冗談ですね。どんな薬を使ったって、人間にそんな芸当はできませんよ。それって走り幅跳びだと世界記録の二倍以上、二十メートルくらい跳ぶってことですよ。それに、もしそんな力を出せたとしても人間の骨格が耐えられない。軽自動車に大きいエンジンを積んでも速く走れないのと同じです」
そんなことはわかっている。しかし、実際にこの目で見たのだから仕方がない。これ以上話を続けるには、昨晩の体験を伝えた上で事実と信じてもらう必要があるだろう。とても電話で語り尽くせるような内容ではないので、日を改めたほうがよさそうだ。
「そうだよね、変なことを訊いてごめん。仕事が落ち着いたら食事にでも行こう」
「ええ、ぜひ行きましょう。こっちはもうしばらく忙しい日が続きますけど、じきに落ち着くと思います」
「うん、あまり根を詰めすぎないように。それじゃ、また連絡するよ」
そう言って電話を切ろうとした矢先だった。
「──一つ、訊いてもいいですか」
裕一郎にしてはずいぶん暗い声だ。
「いいよ、どうしたの」
「そんな薬、なぜ探しているんですか」
「あー、えっと、ほら、僕は身体が貧弱だからさ。一度でいいからアスリートみたいになってみたくて」
「それで、一流アスリートも顔負けの二十メートル幅跳びができる身体になりたいと?」
下手に言い訳をするより沈黙してしまったほうがよさそうだ。昨晩のことも、神から超人的な力を与えられたことも、別に隠すつもりはない。だが電話で伝えるにはあまりに複雑で突飛な話だ。
「まあ、願望は自由ですからね。変な薬に手を出して身体を壊さないようにしてくださいよ。静さんには釈迦に説法ですけど、強力な薬ほど副作用も強いですから」
裕一郎との電話は歯切れの悪い幕切れとなったが、おかげで大きな収穫を得られた。超人になれる薬などこの世に存在しない、という裕一郎のお墨付きだ。彼がそう判断したのだから、黒ずくめの身体能力は薬によるものではないと見てまず間違いない。では、どうやってあのような能力を手に入れたのか。静生を悩ませていた疑問は結局煮詰まっただけで、すっきり灰汁が抜けるどころか以前にも増して香ばしい匂いを立ち上らせることになった。
電話を終えると、世界から取り残されたような静寂が待っていた。結婚前は映画を観に行ったり、風景写真の撮影にのめり込んだりと、独りの時間も結構楽しんでいたが、家庭の賑やかさを知った今はこの静けさが心細くてたまらない。一度この寂しさに気づいてしまうと、一人で趣味に没頭する気になどとてもなれなかった。
全身の痛みを押して立ち上がり、携帯電話をポケットに突っ込んで外に出た。特に用事はないので、近所の住宅街をのんびり気任せに歩いていく。ずっと激務が続いていただけに、単身気楽に出歩くのはずいぶん久し振りのことだった。
毎朝、出社するふりをして家を出てはいるが、服装は堅苦しいネクタイに革靴だ。家を出た後は夕方まで適当に暇を潰しているわけだが、それも無職という罪悪感のせいで心安らかというわけにはいかない。しかし、だからといってすぐに新しい職を探す気にもなれなかった。大して自覚はないが、おそらく過労によって疲弊した心身が緊張や心労を伴う環境を拒んでいるのだろう。
今朝は真夏の青空が広がっており、外に出るとすぐに汗が滲み始めた。ゆっくり歩いているだけなのに、気がつくと思いのほか息が切れている。目についたコンビニに逃げ込んで、朝食がてら菓子パン二つと飲み物を買った。まるで学生時代に戻ったようで、たったそれだけのことが無性に胸を躍らせた。
喉を潤しながら漫ろ歩きを進めていると、いつの間にか蝉の鳴き声がやたらと賑やかになっていた。原因は、視線の先に見えるこんもりとした森だ。思わず頰が強張った。あの森には、転げ落ちて命を落とした石段と神社がある。しばらく立ちすくんでいると、そのうち足が勝手に神社へ向かい始めた。取り立てて用はないのだが、少しだけ気になることがある。境内にいた子犬たちは今も元気にしているだろうか。
薄暗い石段を何とか登り切り、アブラゼミのがらがら声が喧しい境内に出た。境内は鎮守の森に覆われているため季節を忘れてしまうほど涼しく、居心地も案外悪くない。
ひと月前はあまり気に留めなかった、寂れた本殿に歩み寄った。至るところにヒビが入っている色褪せた柱、掃除の跡が見られない煤けた床板、蜘蛛の巣だらけの軒先など、どこを見ても古ぼけていてひどくみすぼらしい。
『君はここに住んでいるの?』
心の声で問いかけると、アマテラスはいかにも気のない調子で、
『そうですね。ここは別荘みたいなものです』
と答えた。どうやらあまり触れてほしくないようだ。神様とはいえ、惨めな住まいを見られるのは恥ずかしいものなのかもしれない。
『それよりも、小さな生命の気配を感じます』
すかさず周りの茂みに目を向けた。小さな生き物といえば、あの子たちに違いない。案の定、目前の茂みの根元が揺れたかと思うと、そこから痩せた子犬が姿を現した。一匹、また一匹、そしてもう一匹。這い出てきた三匹の子犬たちは静生の足元まで来ると、皆一斉にぺたりと座り込んで潤んだ瞳を向けてきた。
無垢な眼差しに腰が砕け、思わずその場にへたり込む。すると子犬たちは静生が手に下げているコンビニの袋に群がり、しきりに匂いを嗅ぎ始めた。どうやら慕われているわけではないらしい。苦笑しつつも菓子パンを一つ取り出し、それを三つにちぎって分け与えた。
茶色の子犬はその場でパンをがっつき、黒と白と薄茶の混ざった子犬は少し離れたところまでくわえて行って少しずつ食べている。そして真っ白い子犬はというと、足元に置かれたパンをじっと見詰めていたかと思うと、まるで何かを問いかけるようにくりくりとした瞳を静生に向けた。
「それは君にあげたんだよ。遠慮しないでお食べ」
優しく話しかけると、白い子犬は安心したのか少しずつパンの端を齧り始めた。こいつはちょっと変わっている。人に飼われたことはないはずなのに、すぐにがっついたりせず、こちらが促すまで健気に待っていた。単にのんびりしているだけか、それとも何か意図があったのかはわからないが、白い子犬は他の兄弟よりとても律儀で賢く見えた。
子犬たちの食事風景は微笑ましく長閑だったが、その様子を見ていると徐々にやるせない気持ちになってきた。ひと月前、子犬は五匹いたはずだ。しかし残りの二匹はどこにも見当たらない。いない理由が悲しいものだとは限らないが、現代の住宅地が野良犬にとって生きやすい環境かといえば、残念ながらそうではないだろう。目の前で暢気にパンを食べる三匹も、今後の見通しが明るいとはとても言えない。
そのとき、静生は鋭利な視線を感じて反射的に立ち上がった。境内を隈なく見回すが、視線の主はどこにも見当たらない。
『人ではありません。石段のほうをご覧なさい』