【三】《21》
どうにか飛び石移動に慣れた静生は、終電で帰るより三十分も早く自宅に辿り着いた。玄関を開けて中に入ると、家中の明かりは当然消えていて家族の気配もない。忍び足で二階に上がり、寝室として使っている和室の襖を少しだけ開けてみた。ついさっきまでエアコンがついていたのだろう。心地好い冷気が隙間から漏れ出てきて、まだ汗が浮いている静生の額をひやりと撫でた。
寝室には普段と変わらず布団が川の字に敷かれている。真ん中で大の字になっている隆雄と、隣でタオルケットに包まっている美姫。
彼女の枕元に置かれた携帯電話の画面がいまだに光っており、そのほのかな明かりが寝顔をぼんやりと照らし出している。イヤホンを着けたまま寝ているということは、好きな音楽でも聴きながら眠りについたのだろう。静生が夜遅く帰ると、美姫はよくそうやって先に眠っていた。
ようやく現実に戻ることができたような気がして、思わず深い溜め息が漏れた。今日は非日常に打ちのめされてばかりで、夢でも見ているかのような一日だった。しかし自宅に一歩足を踏み入れればどんな波乱も水泡のように消え去り、いつもの穏やかな日常に戻ることができる。そのありがたさは高志製薬で働いていた頃から日々痛感していた。どれほど疲弊していたとしても、家族が待つ家に帰って休めば次の日の気力が湧いてくる。人間とはつくづく不思議な生き物だ。
風呂を済ませて寝室に入り、隆雄を真ん中にして寝床に就いた。それを待ち構えていたかのように、寝返りを打った隆雄の踵が静生の鳩尾を直撃する。あまりの痛さに呻き声が漏れたが、こんなことは日常茶飯事だ。それに、先日のように寝ている眉間に踵を叩き込まれるよりはずっといい。
隆雄の無邪気な寝顔の向こうに、美姫の優しい微笑みが浮かんでいる。少し吊り目できつい印象の顔立ちが、寝ている今はすっかり棘を引っ込めて無垢な少女のようだ。胸中ではまだ今夜の興奮がくすぶっていてちっとも眠くない。横になったまま、美姫の寝顔をぼんやりと眺め続けた。
ささやかな幸せに浸っていたはずの静生は、急に下唇を嚙んで目を閉じた。思い出さなくてもいいことが、不意に心の奥底から漏れ出てきたからだ。もしアマテラスとの出会いがなく蘇生されなかったとしたら、彼女は夫の死を悲しんでくれただろうか。
美姫は今、どこの馬の骨とも知れない男と浮気をしている。浮気相手と張り合ったところで、若さにしても、人間的魅力にしても、外見にしても、収入にしても、静生に勝てる要素は一つもないだろう。近い将来家庭が崩壊してしまうのなら、いっそ救われずあの世に行っていたほうが幸せだったのかもしれない。
悪い癖だということはわかっているものの、今夜もまた暗い思考に搦め捕られ、なす術もなく気分が沈んでいく。途端に空気が薄くなったような息苦しさに襲われ、静かだった寝室は虚しい深呼吸の声に支配された。不安と焦燥がしきりに行動を迫るが、どうすればこの窮地を脱することができるのか見当もつかない。自ら家族との間に溝を作っておきながら、今さらその溝の深さに戦慄するなんて身勝手にもほどがある。
そうこうしているうちに、無数の光の粒が静生の辺りを取り巻き始めた。胸の火照りが全身に周り、夥しい汗が全身をべたつかせる。まずいと思ったときにはもう遅かった。身体が眩い光に包まれたかと思うと、着ていたパジャマはたちどころに消え去り、代わりに銀色に輝く金属装甲が全身を覆っていた。
慌ててタオルケットを頭から被る。こんな姿を美姫に見られた日には、午前様の言い訳どころでは済まなくなってしまう。上手くやれば隆雄は喜んでくれるかもしれないが、美姫はそうはいかない。日常生活の中に現れたメタルヒーローなんて、大人が見れば不審者以外の何者でもない。しかもこの不審者、こともあろうか枕を並べて一緒に寝ようとしている。不謹慎な話だが、これなら目的を理解できる泥棒のほうがまだ恐怖は少ないだろう。
目が覚めると、カーテンの隙間から朝日が射し込んでいた。どうやら布団での変身後、不覚にも寝入ってしまったらしい。幸い変身は解けている。美姫や隆雄が騒いでいないところを見ると、家族に目撃される前に解けてくれたのだろう。
美姫と隆雄は先に起きたようだ。今日は土曜日なのでまだ寝ていてもいいが、会社勤めの習慣が染みついているせいか朝寝はどうにも落ち着かない。
布団を出ようと身体を起こすと腰に激痛が走った。思わず天を仰ぐ。続けて肩と膝。どうやら腰だけではなく、どこもかしこもひどく疼いてとても立ち上がれそうにない。
『おはようございます。気分はどうですか?』
『──痛みが引いてないんだけど。治してくれるんじゃなかったっけ?』
『そのつもりでしたが、昨晩はかなりうなされていたので放っておきました。治している間に動かれると手が滑ってしまいますからね。今夜こそは安らかに眠ってください』
『何だか縁起でもない言葉に聞こえるんだけど……』
その後どれだけ治療を催促しても、アマテラスはうんともすんとも言ってくれなかった。身体の痛みは夜の熟睡している間でなければ治せないらしい。この痛みを抱えて一日過ごすなんて願い下げだったが、他ならぬ神の都合なのでどうしようもない。必ず治すことだけは約束してくれたので、取りあえずはそれで手を打つしかなかった。
痛む身体を庇いながら、昨晩駅まで歩いたときのようにじりじりとリビングを目指す。五分ほどかけてようやく辿り着くと、美姫と隆雄がちょうど朝食を済ませたところだった。壁の時計はすでに午前九時を回っている。
新聞やネットをひと通り眺めたが、昨夜の爆発を大々的に扱っているメディアは一つもなかった。誰もいない海上での出来事だったので、どこにも被害はなく目撃者もそれほど多くはなかったようだ。
爆発後の黒煙の映像はSNSでちらほら取り上げられていたが、原因を説明できる者などいるはずもなく、どの投稿も謎の現象として軽く触れる程度だった。テロを疑う報道や言説がまったく見当たらないのは、どのメディアもパニックを恐れて口を噤んでいるのか、それともテロなど起こるはずがないと高を括っているのか──。
大ニュースになっていると思っていただけに、ほとんど無視に近いメディアの反応はむしろありがたかった。大きく騒がれれば、当然原因を徹底的に探られることになる。もしかすると静生の存在に辿り着く者が現れるかもしれない。そうなってもらっては非常に困る。注目されることには慣れていないし、追求をかわそうにも人前で話すのは大の苦手だ。子供が見たら喜ぶと思ってあの恰好を選んだものの、できれば誰にも見られたくないというのが正直なところだった。
美姫と隆雄は、地域の児童遊戯施設で行われる水遊びに参加するらしい。美姫は静生に留守番を頼むと、隆雄の手を引いて慌ただしく出かけていった。もしかして避けられているのではとも思ったが、この身体では一緒に行こうという気も起きない。いい機会なので、今日は自宅に籠ってのんびり静養するのもいいだろう。
三十分ほどソファでぼんやりとしていたが、その間も頭の中は昨晩のことで一杯だった。人間離れした身のこなし、パワー、そして黒衣の下から現れた金属装甲──。意を決して携帯電話を手に取り、画面の上でしばらく指を迷わせる。こんな話をしたら笑われるだろうか。苦笑しながらも思い切って発信ボタンをタップすると、休日にもかかわらず相手はすぐに電話に出た。
「ご無沙汰しています、静さん」
電話の相手は、元同僚で最も有能な部下だった秦裕一郎だ。
「うん、久し振り。休日なのに悪いね。あれから仕事はどう?」
「どうもこうもないですよ。静さんがいなくなって苦労しています。今日は出張から戻ったばかりで、久し振りの休暇なんですよ。電話を頂くにはいいタイミングでした。そうそう、静さんの忘れ形見になってしまった抗ストレス薬なんですが、実は完成が先延ばしになっているんです。僕はあれで充分だと言ったんですけどね」
裕一郎にしては珍しく興奮しているようだ。ひと月ぶりの会話を喜んでくれているのだとしたら、これほど嬉しいことはない。
「そうか、まだまだ伸びしろのある薬だからね。あの社長のことだから、海外の会社と連携してさらに効能を高めようとしているのかな。でも、あれ以上やると副作用がね」
「そうなんです。現時点ではあの副作用を抑える技術はありませんからね。今のままでも充分実用的なのに……。静さん、早く戻ってきてくださいよ」
裕一郎は少し戯けた口調でせがむと、いつものように明るい笑い声を上げた。まさか本当に復職を期待しているわけではないだろうが、それでも悪い気はしない。お世辞でも何でも、人に頼られるのは嬉しいものだ。
「そういえば、辞められたあとは何をされているんですか?」
「僕? えっと、警備員かな」
さすがに正義のヒーロー、アクセリオンとは言えない。それに、正直に無職と言うと裕一郎に気を遣わせてしまう恐れがある。望んでもいない復職の根回しをされても辞退に苦慮するだけだ。
「意外ですね。てっきり他の製薬会社に行かれたのかと。そうなると困ったことに、静さんとはライバル関係になってしまうんですよね」
まだ朧げではあったが、再就職先はまた製薬会社になるだろうと考えていただけに、裕一郎の何気ないひと言にどきりとせずにはいられなかった。できれば裕一郎と争うような立場にはなりたくない。
「心配しなくてもいいよ。当分は警備員を続けるつもりだし、その後のことはまったく白紙なんだ。製薬会社より相応しい職に巡り合う可能性だってあるし」
裕一郎は名残惜しそうに、それでいて湿っぽさを感じさせない相槌を打った。彼は出来の悪い元上司にも配慮を怠らない、本当に有能で器用な男だ。そんな彼とライバル関係になるくらいなら、やはり前職になどこだわらず別の生き方を模索するほうがいいのかもしれない。