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3話  胸の空白と、


 次の朝、つまり今日の朝。酔いの余韻が残る中、気持ちは変わらず空っぽで。それがどうにも居心地悪くて、私はベッドを抜け出した。台風に遭ったみたいな形で寝ぐせのついた髪のまま、買っておいた朝食を摂る。

 サンドイッチのレタスを噛みしめながら、彼のことを思おうとする。けれど胸の内は空っぽで、あったはずの思い出も空っぽで、何一つ思い出せない。本当のところ、思い出そうとするのも面倒に感じた。


 ただ。気になるのは、胸の空っぽ。心の中に何もない、そうなのだけれどそうではなくて、『空っぽ』が胸いっぱいに居座っている、そんな感じ。

 彼のことを思おうとして、また他のことを考えようとして。ただ空白だけが頭の内で膨らみ、胸を圧迫する。


 じっと目をつむり、しばらくそのままでいてから、鼻で深く息をついた。立ち上がり、顔を洗い、髪を整える。旅行バッグを出してベッドの上に放り、適当に荷物を詰めた。

 行こうと思った、彼の故郷に。行ったことはないが、その島のことは彼から何度か聞いていた。帰ってそこで暮らすという話も、別れる前辺りに聞いた。


 考えてみれば、携帯が未だにつながったということは、彼は死んで間もないのだろう。家族がまだ解約していないぐらい、充電がまだ切れないくらい――彼の携帯はやたら長持ちするのだが、ほとんど誰からもかかってこないせいで――。


 きっと彼は、その島で死んだ。なぜ、どのようになって死んだとか、そういうことが知りたいのではなかった。胸の空っぽが邪魔だった。そこへ行けば、空白が何かで埋まる気がした。悲しい、でも、どうでもいい、でも、他の何かでもいい。何かしらの答えで、言葉で埋まるのなら。


 クローゼットから着ていく服と持って行く服を取る。黒は選ばなかった。

 荷物を車――おもちゃみたいに角ばった形の、海外の古い小型車――の助手席に載せて出る。少し高速を走り、午前中のうちに港から車でフェリーに乗る。


 甲板に出れば海風が気持ちよいのだろうけれど、電車みたいに椅子の並んだ船室で缶コーヒーを飲んだ。休日だからか、思ったよりは人がいて、椅子の半分近くは埋まっていた。長椅子に寝そべって一人で占領する人たちを含めれば。南国のリゾートでもあるまいし、瀬戸内海の島に行く人なんていくらもいないと思っていたけれど。家族連れや年配のグループのざわめきは、いくらか気を紛らわせてくれた。

 飲み終えた缶を捨て、甲板に出てみる。潮の匂いがする風に、髪とコートの裾がなぶられる。青みがかった灰色をした雲の塊がいくつも空に浮かび、けれどその隙間から差す光は強かった。青緑色をした海は穏やかで、人は住まないだろう小さな島々が、そこかしこにばらまいたように浮かんでいた。


 髪を手で押さえながら、もう少し厚手のコートを持ってきてもよかったと思った。そう考えてから、別に来なくてもよかったのではないか、と今さら思った。





 ――島について彼はあまり多くを語らなかった。

「何があるいうてそりゃ、大きい(おっきょい)スーパーが一つに大きめのスーパーが三つ、コンビニが四つにファミレスが一つ、映画館はずっと昔に潰れてしもた。フェリーの出る港が五つで……」

「そういうんじゃなくて。観光地とか」

「ええ? 小春島(こはるしま)に? なんぞあったっけ……ああ、山の紅葉、とか? 讃賀渓(さんがけい)っていう、ロープウェーのある山。あとオリーブ園と。天使の降りる小道っちゅうのもあったのぅ」

「何それ」

「引き潮のときだけ地面が現れて、近くの小島とつながる道になるいう海岸。別に行ったことないけど」


 そのとき私は苦笑したものだった。

「天使って。また、誰がつけたんだろねそんな名前。降りてくる、なんて。天使がいるの前提みたいなさ」

 キリスト教圏ならまだしも、日本でそうした名前をつけられても説得力があるとは思えなかった。


 すると彼は目を丸く見開いて言ったものだ。

「え? 玖美サン、天使見たことないの(ないんな)?」

 黙っていると、得意げな顔で言ってくる。

「おれはあるよ、たとえば今目の前――」

「そういう冗談は正直引く」

 すぐに彼は目をそらす。

「ま、まあそれは冗談としての――」

 私はわずかに眉根を寄せる。実際に冗談だと言われると、気分よくはない。

「――天使なんてもんはそこらじゅうにおるもんや、見ようとすればの」


 私が息をついて苦笑すると、彼は、しっ! と声を上げて口の前に人差し指を立てた。耳打ちするように言う。

「そういうんは(わろ)たらいかん。あいつらぁ、信じん人間の前には絶対出てこんから(けに)

 私が何も言えずにいると彼は続けて喋った。

「気ぃつけないかん。『奇蹟を信じとらんと、奇蹟の方で自分を信じんようなる』けんのぅ」


 本当に。こんな役に立たないことを言うときだけ、彼の目は鋭く、美しかった。まともに見ていられないくらいに――。



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