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2話  彼の想い出と、


 つい昨日のことだ。何もなくて何もなくて、自分の誕生日なのにあまりに何もなくて。仕事の後に独りで飲もうと思った。

 仕事はただのいつもどおりで、(せわ)しさだけが三割増しで、マシなことなど何もなくて。モニターを見るのに疲れた目を揉みしだきながら、私は夜に会社を出た。人の行き交う街の中を、誰より速く大股に歩いた。うんざりするほど疲れていて、憤るほど予定がなかった。もうさすがに、誕生日を素直に喜べる歳は過ぎていたけれども。


 甘いケーキが欲しいわけじゃなかった。憤りごと流し込める、強い酒が欲しかった。甘いカクテルは好きじゃなかった。強いウォッカで、わけが分からなくなって眠ってしまいたかった。幸い、明日から二日は休みだった。


 コンビニに入り、酒類の棚からウォッカを探していたとき。ふと、バーボンの瓶が目についた。そして不意に思い出す。二年ほど前に別れて、もうずっと考えることもなかった彼のことを。





 ――昔々のつきあい始め、二人でバーに行ったとき。そこは私の好きな店で、床も壁も木造のシックな店だった。カンテラの灯りを思わせるような薄暗い灯りの下、古い樽や蓄音機が装飾に置かれているような所だった。

テーブルに着くと、彼は落ち着かなさげに辺りを見回しながら言ったものだ、もっさりとした長髪の頭をかきながら。


「うお……格好(かっけ)ぇのぅここ、なんちゅうか、ファンタジーもんに出てくる酒場? 海賊船の中? (ちゃ)うのぅ、そう……そうそうそう、そうや、西部劇の酒場(サルーン)みたい! すっご、面白(おもっしょ)っ!」


 そうして笑って、興味深げにまた辺りを見回す。まるで、カウンターの奥に並ぶ瓶の本数、床の木目の形すらも頭に入れようとしているみたいに。

 恭平(きょうへい)は瀬戸内海の島の生まれで、なかなかの田舎者で。しかも趣味に小説を書くような、それとテレビゲームとに休日を丸々つぎ込んで平気というような、おかしな人間だったので。そういうファンタジーな脳が理解できなくて、私はただ苦笑した。


 私はブラッディ・マリー――ウォッカとトマトジュースのカクテル――を注文した。あまり強い酒を頼むのは女らしくない気がしたし、このカクテルは甘くなくて好きだった。

彼が注文したのはバーボンだった。

「この……ワイルドターキー・八年をストレートで、ダブル」


セルフレームの黒縁眼鏡を指で押し上げ、妙に力の入った顔でそう言った。まるでゲームの中の主人公だとか、西部劇のガンマンにでもなっているみたいに。

運ばれてきたバーボンを口にして、彼は思いっきりむせた。口を拭った後で私の方に身を寄せる。口元に手を添え、耳打ちするように小声で言ってきた。


「ちょ、何これヤバいで玖美(くみ)サン! 焼ける! 舌焼けるよこれ! とんでもない(がいな)のぅ、西部……」

私は黙ってカクテルを彼に押しやり、バーボンのグラスを取った。ちびりと口に含む。五十度数もあるウィスキーは、ちりり、と舌を焼いたが、嫌いな味ではない。


恭平は口を丸く開け、それから笑った。

すごい(がいな)のぅ、玖美サンは。羨ましいわ、いつ西部劇の世界行っても大丈夫やんか」

 彼のその、子供のように夢見た物言いと犬みたいな邪気のない笑顔は、時折私をイラつかせるものではあったが。そのときはまだ、愛おしかった。――




 少し迷って、バーボンの瓶は取らなかった。ウォッカとつまみと明日の朝食を買い、部屋へ帰る。

 冷凍庫から氷を出してロックで飲み、したたかに飲み、なんとも楽しい脳になってきたところで。彼のことを思い出した。歳取った大型犬みたいにのんびりとした彼、そのくせときどき、足元にまとわりつく小型犬みたいにうっとうしい彼。どうにもかみ合わず私の方から別れた。そうした頃は、飼い犬を捨てるみたいな後ろめたさと嗜虐的な暗い甘味とが、胸の中で混じっていた。

 ふ、と口で息をつく。久々に相手をしてやってもいいさ、それぐらいに私は思った。誕生日なのに誰もいないから、なんて思いたくなかった。


 携帯を取り、彼に電話をかける。単調なコール音が響く。それが五回鳴った辺りで、心臓の座りが悪くなった。出なければいいと思い、きっと出ないだろうと思い、なのに電話を切りたくなかった。

 音が響く、八回、九回。十回で出なければ切ろうと思い、その十回目が過ぎ、あと五回待つことに決め直した。


 出ないと安心した十四回目。突然電話が取られて、しかも向こうは無言だった。

 何を話すか考えていなかったことを思い出し、ぎこちなく私は口を開いた。


「あたしです。お久しぶり」

 少し間が空く。


 犬みたいに彼は笑うかと思ったけれど。聞こえてきたのは知らない女性の声だった、私の母親くらいの。

「あの……恭平の、お友だちの方?」

 彼の母親だろうか。ええ、まあ、知り合いで、と私は答えを濁した。

「あの……」

 母親は再びそう言い、それきり黙った。


 沈黙が続いて、重くなって、私はウォッカを一口飲んだ。ご不在でしたら結構ですので、そう言いかけたとき。

「亡くなりました」

 そう聞こえた。声は続く。

「ええ、あの子はもう……はい、おらんようなって……ええそう、死んでしもうてからに……」


 湿り気を帯びていく母親の声を聞きながら、私は何も言えなかった。細くなりながら続く声はきっと、いつ頃どうして死んだといったことを語っていたのだろうが、私には聞こえなかった。聞きたくはなかった。


 そして知りたくはなかった、自分について――いくらとっくに別れたとはいえ、こんなに彼の死について、何の気持ちも湧かないなんて。

そして、彼の死でなくそちらのこと、自分が何も感じないことの方に、衝撃を受けるような人間だなんて。


 だからもしかしたら、彼の母親の言葉は聞こえなかったのではなく。単に聞いてもしょうがないと、そう感じただけの話だったのかもしれない。

 母親の声が途切れたのに気づくと、私は黙って電話を切った。黙ったままで、ウォッカをあおった。



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