第14話 『 無為為(むいな)すところ 』
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ワタルリは緩やかな河の流れに流されるままに、沈んでしまうこともなくて力なく流されている。
川下の方へと流されながら、もうメメンは消えてしまったんだと思うとだんだん力が抜けていくようになり、流れるままにただ浮いていると手足を泳がせる必要もなかった。
メメンの姿が川に溶けてすぐ、ワタルリは川の中に何度も潜って子猫の姿を求めたのだ。
潜って目を見開いて見える、透き通った水の奥の深く暗い遥か遠くまで見渡しても━━━水草の豊に茂る浅瀬の水の中を探してみても━━━━残酷なまでに美しい水生世界がどこまでも広がっている。それだけで、人影は無かった。無いと見とめる度に顔色が絶望で歪んだ。
嘘だと思いたかった。
必死でメメンを探すうちに、あいつは人間ではない眷属だとか、命が何個あるとか、そんなことが頭をよぎって大丈夫だと思いたがった。メメンという魂は姿が消えただけで死んだ訳ではないと。
だけどメメンの姿が消えてなくなっていくのをワタルリはしっかりと見ているのだ。体や着物が溶けるように崩れる中で、ワタルリへと小さな手を伸ばしながら消えていったメメンの姿を。
溺れる中でメメンはワタルリを追うように見ていた。
その顔が、目が、どういう感情なのか全くの無表情に見えてワタルリの脳裏に焼き付いている。
死に瀕した子供の形相━━━あんな顔をさせてしまって、あの子供を自分が殺してしまったなんて━━━━━全部嘘であって欲しかった。
『━━━━━…』
小舟がぶつかった巨大な船が今は遠く小さく見える。
助けを呼ぶ声を上げる気力は無い。
ワタルリは流される間にいくつかの船の近くを流れたが、どの船の人々も不思議そうにワタルリを見送るばかりで船を寄せるという事はなく、助けに来ることはなかった。
仰向けに半身を浮かせて流れるワタルリは様々な川辺の風景をどこまでも流れた。
玉砂利の広がる明るい河原。
柔らかい草の茂る涼しげな中洲。
巨岩ばかりが重なり犇く暗い岸辺。
色々な河原を通り過ぎた気がする。
それらの景色をいちいち見るのも億劫でワタルリは気に留めなかったが、顔に影が差したので辺りを見回すと、いつの間にか周囲は背の高い葦の生茂る川辺の風景である。
我に返ると、メメンから最後にもらった白い折文をいつまでも手に持ったままでいるのがダルくなってきた。
『…メメン、ごめん。…俺が━━━━━』
自分が殺してしまったのだと思った方が、もう、むしろ心の落ち着きが良い。自分は猫人の少年の命を奪った最悪な人間なのだと。
”眷属”というのが死者なのか生者なのか何なのか分からないけど、あれはもうワタルリが馬鹿な事をしたせいで川に落ちて死んだのだ。過失致死と言っていいだろう。その責任はワタルリにある。
ワタルリは本当に犯罪者になってしまった。
葦原の影が伸びて、世界は黄色く染まる黄昏の空。
幽界の岸辺に時間なんてものがあるのかどうかワタルリには知るべくもないが、夕暮れのように紅くも黄色い景色に深い影が落ちて、いつの間にか川の水も冷たい。
ワタルリは気味が悪くなって河に入っておれず、少し泳いですぐ近くの葦束を掴むと身を起こして陸へ上がった。
立って見たが、夕雲の棚引く幽界の空がどこまでも遠く哀しく続いて見える他は、伸び茂る葦原に隠れて何も見えない。
田舎育ちのワタルリでもこういった侘びしい風景の中に立つのは多少の感傷を覚えた。
景色の色や光陰が時折見せる独特な雰囲気というものは、人の心の穴をごく自然に埋めようとして傷に触れるのだ。メメンのことを思うとそれは尚更そういうものに思えた。
とはいえワタルリは風景に見るべきものもなくて、手に持っている白い折文を広げて見るしかない。
河に浸かったというのに折文はちっとも濡れていないが、それはワタルリ自身も同じというか、全身濡れたのがいつの間にかもう乾いていた。
『━━━…?………』
白紙である。折文を綴らに広げ、裏返し、また表を見たが、何も書かれていない。
メメンが「証券手形」とか言って大事そうに持っていた紙なのに、何も一言も書かれていない紙切れだ。
『━━━━━そんな………』
長く細く、空気が抜けるような溜息が半開きの口から漏れた。
でもワタルリはその紙を打ち捨てようとして、それもやめた。
白紙の書面というのはかえって意味深である。
何も書かれていないくせにちゃんとした書簡の形を為しているというのは、何かそれだけで意味がある気がしないでもない。
もう一度その白紙を広げてジッと見ているうちに、ふと、ワタルリは懐かしい記憶を思い出した。
元の世界で祖父が元気だった頃に時代劇を一緒に見ていたことがある。その劇中のとあるシーンの印象的な光景━━━白紙であるかに見える書面に紙食い虫を這わせると、虫が食わぬ部分が残り、それが文字だったりする密書。
そういう、一見何でもないかのような物に何かをすると情報が読み取れる仕掛けがあるという事は有り得るんじゃないか。そうでなくても偏光レンズ越しに見れば見える文字とかあるかもしれないし、電子デバイスとかならもっと色々あるだろう。考えてみればそんな仕掛けはいくらでもある気がしてきた。判る人にだけ判る情報というのはワタルリの元いた世界の人間社会には沢山あった気がする。それがここは異世界なんだから魔法か何かでもっと何でもありだろう。
そう思い至るとやはりこの白紙は捨てられなくて、ワタルリは学生服の上着の内ポケットに大事に仕舞った。
━━━ここはどこなんだろう
と顔を上げたワタルリはギョッとした。葦ばかりの風景に黒っぽい人影がある。
黄昏時の影の濃い人影は面立ちもわからないが、ほんの5mほど向こうの川縁に立って横を向いているそれを見てワタルリは目を逸せない。どう見てもその横顔は、スラッと足の伸びて尻と胸の突き出た女性的な人影は━━━━━イオラなのだ。
『━━━…イオラさん…?イオラさんっ!!あ…━━━』
イオラらしい人影はそろそろと葦草を掻き分けると草深いその中に入って行ってしまった。
ワタルリは慌ててその後を追って葦草のか細い隙間に見えるイオラの影を見失うまいと葦を掻き分け掻き分け足を突っ込んで歩こうとするのだが、これがどうにも進みづらくてみるみる人影は遠くへ行ってしまう。
『ちょっと待ってよ!イオラ!イオラさん!?くっそ!!何でだよ!!!』
何度も何度もイオラの名を読んだが、ワタルリの方を無視するかのようで全く返り見なかった。
人違いということもあるかもしれないが、あんな、何というか作業服を大胆にカットして作った小さいビキニみたいなのを着ているエロジャングル探検家みたいな人はゲームキャラかグラビア撮影でもなければそうそう居るまいとワタルリは思うのだ。とはいっても異世界を何ほども知らないワタルリだから、実際に異世界に転生して見ると冒険者の女性とかは意外とあんなのが居るのかもしれなかったが。
ともかく、どう早く進もうにも葦が邪魔で裸地が開かずイライラしたワタルリは足を止めて、耳を澄ました。追うためには、人影の進んだ方角だけでも判れば━━━━━。
そうして気づいた意外な気配が、ワタルリの身動きを完全に止めさせた。
自分に向けて葦草を掻き分ける音が葦原の奥から近づいてくるのだ。それも四方八方から。
『………ッ!』
ワタルリが息を呑んでその場から動かずにいると、それらの葦音も止まった。その挙動はワタルリを探しているとしか思えないだろう。
(追われているのは自分━━━)
どうする、と思うと同時にどうしようもないとも思えてそのまま動かない。追われるという恐怖は生物的な本能に危険を訴えかけるものなのか、走ってもないのに全身から吹き出る汗と乱れる呼吸がワタルリの精神を焦らせた。
どうもこうも、何も知らなさすぎるワタルリにできることなんて何もない。逃げたって追われるのだ。
何者か分からないそれらに対して、ワタルリはせめて、敵対的な害意のないことを示すためにジッとしている他ないだろう。
(━━そうだ。何者か知らないけど、見つかったときにどうなるか分からないけど、とにかく自分の意思だけははっきりさせる。俺はとにかく元の世界に帰りたいし、そんでこの白紙の折文を持ってて、転生することになってる。俺が密航者なんだとしても俺自身は悪気なんてないから。とにかく「俺は悪い異世界人じゃないよ、プルプル!」ってところを見せてやんないと━━━━━)
━━━メメンを殺した犯罪者だろう
悪人。
子供を殺した犯罪者。
自分の罪を思うと腹の中がガタガタ震えて足の力が抜けてしまった。ワタルリは土下座みたいに突っ伏して葦の根の生え際に頭を埋めている。
メメンを死なせた自分を誰かが追って来ている。
眷属とかそういうのがちゃんと犯人を捕まえに来る。
自分は殺人犯だから捕まって罰を受ける。
それが当然のことなのだと思うとワタルリは涙は出なかった。
ただ、メメンから託された転生企画の証券手形━━━その意味を自分は汲まなければならないという言い訳みたいな志が胸の内に湧いて、白い折文を取り出すと祈るみたいに額に押し付けている。
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また、このことを忘れていた。
”それら”に気づいたワタルリは草の根を散らして顔を上げた。
死霊であるワタルリは他の魂達の内心の声が、どういう塩梅かは分からないが距離的に近づくと伝わってきて分かる時がある。その存在へ意識を向ければ、さらに分かる━━━。
━━━前方から来るのは哀しい気持ち。暗い心。縋るような考え。興味。
それらが同類を求めるような感じだろうか。どこかそれらが集まるところへとワタルリを導くためにこちらへ近づいてくる気がする。ワタルリはそんな気はないし余計なお世話だ。
━━━右手からくるのは…わからない。これは軽快に葦草を踏み分ける音だけで、小柄な何かや数名が駆け寄ってくる。
━━━左手からくる魂からは、懐かしい人を求める気持ちが窺える。
男女数人の感情で、おそらくは人間の魂4人。
懐かしさなんてものを抱かれるほどの知り合いがワタルリにはいないのだが、何者だろう。
━━━後方からも数人で葦草を掻き分ける荒々しい音がする。そこから思考や感情は伝わってこない。
その他にも色々伝わってきて、心象風景が分かるのは全方位の幾つかだけなのだがどんどん数が増えてきて混乱してきた。感知する情報量が多いとワタルリは精神的にパンクしそうになってきて読み捌けない。
そして━━━━━
『━━何をしてもダメ。何をやらなくてもダメ。世界の全てと全てと全ては最悪なのです』
『あらお若い方ですね…お辛いでしょうが、ご自身と向き合う時間はいくらでもあります。ここで来世の縁組が出来るまで…あら、案内の方は?どなたが…あらあら』
『あっすいません!いきなりですけどあの、因果の交換をお願いできませんか?俺はもう、いつまでもここに居るわけには…役所までついて来てくださ…い……?』
『お一人でこられたんですね。どんな罪で…あ、霊界を案内しましょうか?一度霊団に合流したほうが…あっちに眺めのいい丘があるのでってうわ、なになに人多…こんなのって…』
『わぅ、投票箱はこちら!魔王選挙に投票できるワン!』
『どうもー、えー私、魔界から出張で来ている者でして、魔王選挙の投票を受け付けておりまして、…こちらの投票用紙に次期魔王候補者魔公爵の御記名を。わからない場合はいずれかの魔王の名前でも結構です。どうか汚き一票、憎き一票をよろしくお願いします〜』
『あー…わかんないな。この感じは異常因子の侵入か。君、正体言えないでしょ?領界侵犯ね。地獄界行こっか。ハイハイ、一回川まで戻って』
『異常事態だな。応援を呼ぶ』
『はーいここは霊界眷属界が対応しますんでー、皆さんはそのまま待機してください。ちょっとあのー人霊界に居てはいけない人が多すぎますね!界界区分の法律わかってます?皆さんにも事情聴取させてもらいますんでー』
『にゃ〜なんか、メメンの匂いするにゃ〜?』
『━━おっ…ん?あれ?』
『ナヌーシカ…?いない…っていうか…なんだこれ?』
『…?違う…おかしいな、確かに彼女が……でも、なんだなんだこの状況?どういう…』
『いや、さっきは…ぅえ!?死神…さん…なんでここに』
『む!?うぬらぁ…どこの人霊じゃ?ここぁ人霊界の、どの辺りかい?』
『ちゃちゃちゃ…混雑しとるのう』
『━━こいつぁ…』
『おぅ姉さん、こんなぁさっき黒箱に詰めたんと違うんけぇ?』
『━━━━━━━━━━━━━━━!!』
ものすごくゴチャゴチャしている。
八方から一斉に葦草を分けて現れた彼らは現れすぎてゴチャゴチャで、情報量が多すぎてワタルリはグルグル首を巡らせて見知った顔ぶれを二度見して目を見開いた。
『━━!ッお手前様は…どうして…』
後方から現れた一団の一番奥から葦草を踏み踏みやってくる、目深に被った暗いフードから溢れる長い黒髪、朽ちた半顔に美しい半顔、キレのある腰つきを支える太ももの薄紫で艶やかな肌。小柄な美女の死神姉さん━━━━━その腰から突き出る脇差のボロボロの柄にかけられた細指が、ワタルリの脳裏に一筋の記憶を蘇らせた。
あの中洲で、俺を殺したのはこの人だ。




