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人魚  作者: 七海椎奈
2/6

ひとつ ふたつ

 わたしは横になって倒れている。

 体の下はゴツゴツとして硬い。

 寒い。

 濡れている。

 肺が痛い。

 目の前に月が見える。

 満月だ。

 月明かりとはこんなに明るいものだったのか。

 と、感動すると同時、今が夜だと気づく。


 夜。

 夜。


 わたしが学校から帰ってきた時は、まだ陽が高かった。

 海沿いのバス停に着いたのは、いつもより少し早い時間。

 満ち潮が打ち付ける波音が気持ち良くて、堤防の上を歩いた。


 親に見つかれば危ないと言われるだろうが、歩道もない車道の端を歩くよりよっぽど安全だ。

 人気のない田舎だけど時々は車が来るし、車の方もどうせ人がいないと思って酷く飛ばす。

 車に轢かれるより、海に落ちた方がマシだ。

 泳ぎは得意。

 制服で落ちたって安全なところまで泳げる自信がある。


 慌てなければ。


 それが一番厄介なことだと、今のわたしは知っている。

 スピードを出したトラックに煽られて足を滑らせた。

 自分で飛び込むんじゃなくて、急に落ちたら……息を吸う時間すらなく、水を飲んでまた慌てる。


 悪循環ってこういうことだ。

 落ち着いて体の力を抜けば浮けると分かっているのに、もがいてもがいてスカートは足に絡まり、ブレザーはずれるのに脱げず腕を縛る。

 息を吸おうと慌てて水を飲む。

 それを何度も繰り返してわたしは沈んでいく。

 穏やかな波の下に。

 下に。

 下に。


 指一本動かすこともできず、瞬きすらもできない。

流れていく景色だけが見える。


私の髪と、小さな泡。

ゆっくりゆっくり暗くなっていくのは、光が来なくなっているのか……私が壊れかけているのか。


青いような黒いような、ぼやけた世界は真っ赤に染まって、終わった。



 ひとぉつ ひーとが眠るころ

 ふたぁつ 双子の月の夢


 歌が聞こえる。

 伸びる声。

 不思議と響く。


「げはっ、ごほっ!」

 せき込みしょっぱい水を吐き出した。

 肺が熱く痛む。


 それでも体に血が巡り、ぼんやりとしていた脳がはっきりしてきた。


 わたし、生きてる。

 胸はむかむかするし、喉も肺も痛い。

 体がだるいし痛い。

 寒い。

 濡れてる。

それでも生きてる。


 ここはどこ?

 目を凝らす。

 月明かりに照らされて周りが見える。

 洞窟?

 ぽっかりと空いた洞窟の中から、わたしは月を見ている?


「ゴホッ」


 咳き込む。

 胸は痛いけど、もう水は吐かない。

 ゆっくりと大きく息をして、わたしは起き上がる。

 起き上がろうとした。


「目が覚めた?」

「!?」


 後ろから声がした。

 小さくか細い声。

あの歌の声。


「だいじょうぶ?」


 貧血みたいにクラクラする。

 それでもわたしは振り向いた。


「気分はどう?」


 女の人がいた。

 はかない、という言葉がこれほど似合う人もいないだろう。


 神棚のようなところに灯された日本の蝋燭の炎と、月明かりに照らされた彼女の顔はひどく青白く見えた。

 目も伏せたように細く、長い睫毛が濃い影を落としている。

 薄い唇はきゅっと引き結ばれて、喋る時もあまり口を開かない。

 黒髪は濡れたように艶やかで長く、卵形の顔の両端を覆い隠して落ちる。


 フリルのついた立襟のブラウスの上から、薄紅色の着物を羽織っていた。

 着物の裾は長く広がり、殺風景なこの場所を華やかに彩る。


 わたしの上にもくすんだ緑色の着物が掛けられてた。

 それはわたしの濡れた服の水分が移ったのか、じっとりと重い。


「わたっゲホッ、どうしっ」


 聞きたいことはたくさんあるのにうまく喋れない。


「あなた、溺れたの」

「貴方が助けてくれた?」

「いいえ。わたしは、助けてないわ」

「え?」


 それじゃあ、だれが?


「ここは、人魚の住処」

「えぇ?」

「人魚の住処よ。貴さあなたは人魚に連れてこられた」

「にん、ぎょ?」


 違うと訂正されることを期待したのに、彼女は無言で頷いた。


「人魚? あの、人と魚が半分ずつみたいな、人魚?」

「そう、わたしも、人魚に連れてこられた」

「え?」

「おなじね」


 人魚って、そんなばかな。

 人魚なんているはずがない。

 この人、おかしいんだろうか?

 格好だって変だし、こんなところにいるのだって変だ!


 急にこの人が怖くなってわたしはじりじりと距離を取る。

 彼女はその場に座ったまま動こうとしない。


 とにかくここから出よう、早く家に帰りたい。

 洞窟の入り口から顔を出す。


「………」


 何もなかった。


 海と月しかそこにはなかった。

 ここは切り立った崖のような場所に空いた横穴で、ツルツルした岩は登ることなど出来なさそうだ。

 下を見れば直ぐに海面があり、夜に染められた黒い海水が揺れていた。


 ここはどこ?


 近くにこんな場所があっただろうか?

 知らない。

 こんな色の岩も知らない。


 遠くまで流された?

 どうすれば帰れる?


 今日は大潮だし、まだ水面が高い時間のはず。

 潮がひいたら案外歩いて行けたりして?


 暗い海面からその下を見ようと目を凝らした。


 ざばっ!

「ひっ!」


 突然、目の前に何かが飛び出してきた。


 びしゃり。


 波に切り取られた洞窟の縁に何かが落ちた。


 違う。


 手だ。

 洞窟の縁に手がかけられていた。


 ぱしゃ。


 対になる手がもうひとつ。

 そして、その手を支えにして、

 ざばり。

 何かが海の中から這い出してきた。


 これは、何?


 最初に見えたのは、目だ。 

 濡れた安いぬいぐるみみたいな、丸くて感情のない目。


 ひゅっ、と息を吸うと潮と微かな生臭さ。

 その匂いが記憶をこじ開ける。


 修学旅行で行った市場の、店先に置かれていたマグロの頭。

 まん丸でうつろな、さかなの目。


 それが人の顔の中に収まっていた。

 まん丸に見開いたまぶた の中に。

 ゼリーのような表面がぬらりと光る。


 わたしを見て数回瞬き。

 目の表面にあった海水が涙のように頬を伝う。


 ざばっ!

「ひっ!」


 突然、目の前に何かが飛び出してきた。


 びしゃり。


 波に切り取られた洞窟の縁に何かが落ちた。


 違う。


 手だ。

 洞窟の縁に手がかけられていた。


 ぱしゃ。


 対になる手がもうひとつ。

 そして、その手を支えにして、

 ざばり。

 何かが海の中から頭を出した。


 これは、何?


 最初に見えたのは、目だ。 

 濡れた安いぬいぐるみみたいな、丸くて感情のない目。


 ひゅっ、と息を吸うと潮と微かな生臭さ。

 その匂いが記憶をこじ開ける。


 修学旅行で行った市場の、店先に置かれていたマグロの頭。

 まん丸でうつろな、さかなの目。


 それが人の顔の中に収まっていた。

 まん丸に見開いたまぶた の中に。

 ゼリーのような表面がぬらりと光る。


 わたしを見て数回瞬き。

 目の表面にあった海水が涙のように頬を伝う。


「あ、ああ……」


 顔に切り込みを入れたような、唇のほぼない口が開く。

 口内には、鋭く尖った小さな歯がぞろりと並ぶ。


「ああ、あぁ、そうか……」

「ひぁっ」


 わたしは必死で這ってそれから離れる。

 なのにそれは海から這い出してわたしに手を伸ばす。


 白すぎる肌、細い首、裸の胸に、長い黒髪がひび割れのように張り付いている。

 小さな乳房は髪以外何もまとわず、乳首の淡い色が浮かび上がる。

 だが、それより目立つものがあった。


 柔らかに隆起する乳房のすぐ下に赤いものがあった。

 胸の下から脇に向けて細く長い線が数本走っている。


 それはただの線ではなく、肌に食い込む穴だ。

 海水がそこからだらだらと流れ出る。


 いやだ。

 いやだ。

 気持ち悪い。


 人の形をして、人じゃないもの。

 人を模しているからこそ、人じゃないことが際立つ。


 これは、なに!?


「そうなのか」


 延ばされた手が、細い指が、わたしの頬に触れる。


「………!」


 冷たく、濡れた指。

 ねっとりと張り付く、人の肌ではないそれ。


 さかなの目が、瞬きする。

 ゼリー状の目の表面が擦られて水が落ちる。

 ごぼりと音を立てて、胸の下の切り込みから泡立った水がこぼれる。

 唇のない口の両端を吊り上げて、そいつは身を引いた。


「そうか」


 もう一度言って、それは水に戻った。


 丸い目がわたしを見たまま波に沈み、次の瞬間大きな魚の尾が海水を跳ね上げる。

 冷たい月の光に水滴が散り、青い鱗がキラキラと輝く。


「な、なにあれ。なにあれ!?」

 わたしは薄紅の着物を着た女に向かって叫んだ。

 少し前までこの女の人も怖かったけど、今はあれの方がよっぽど怖い。


「人魚よ」

「まさか……本当に?」


 女の人は頷く。


「わたしは、人魚に連れてこられたの?」

「そう」

「……あなた、も?」

「そう」


 安心して、やっと体が震え出した。

 不安で怖くて、なにもわからなくて、頼れるのは自分だけで。

 けれど、この人もおなじ境遇なら……仲間だ。


 仲間がいる。

 その安心感が、震えて恐れる余裕をくれた。


「眠りなさい。それしか出来ない」

「うん」


 わたしは彼女の隣に座り、緑の着物を体に巻きつけた。

 服は濡れて不快だが、これで少しは暖かい気がする。


 月は角度を変え、もう洞窟の中に月明かりは差し込まない。

 ただ、神棚に灯された二本の蝋燭の光だけが、ぼんやりと辺りを照らしている。


「目を閉じるのが怖い」

「わたしがいるから、眠りなさい」

「うん」


 わたしは、目を閉じた。

 体がどろりと重く、直ぐに眠りに落ちてしまいそうだ。


「あなた、名前は何ていうの?」

「ゆい、よ。結ぶと書いてゆい」

「わたしはかえで。そのまんま、植物の楓」

「いい名前ね」

「そうかな?」


 会話に意味はない、ただ目を閉じても結さんがそこにいることを確認しておきたかっただけだ。


「ひとぉつ」


 結さんが小さく歌を口ずさむ。


「ひぃとが眠るころ。ふたぁつ、双子の月の夢」


 素朴な響きの数え唄だ。

 聞いた覚えがある。


 わたしが目覚める前にも、彼女は歌ってくれていた?


「みぃつ……」


 ああ、彼女はそこにいてくれる。

 わたしは安心して意識を手放した。



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