大王と絵師
さすがに今回の一件は一言言わずにはいられない気持ちでいっぱいであった。
いや、一言ですむはずはない。
二言?! 三言?! いやいや、数時間はぶちまけたいほど溜まりにたまっている。
実際、大王はまれにみる温厚な性格なので、たとえ臣下の失態とはいえ、一度や二度で叱責したりする人物ではない。
しかし、さすがに今回は三度目である。
それも三日連続……。
……いや、三夜連続か?!
とにかく、後宮において、三夜連続不完全燃焼で終わったのであった。
……特に昨夜に至っては……。
「陛下! 李向が参りました。いずれにお通しいたしましょう?」
「ああ。いつものように、余の私室に呼んでくれ! そして、いつものように誰も部屋に入れないように。余は向と二人きりで話がしたい」
「大王陛下! わたくしめに何か御用でございましょうか?」
「余とお前とは、王と臣下という立場であると同時に、親友という間柄でもある。二人きりの時は、余の名の協で呼んで構わない。そのために、余は人払いをした上で、お前を余の私室に通したのだ」
「……いつもながらの陛下のご配慮には痛み入ります。それでは、お許しをいただきましたので、協様とお呼びいたします。ところで、火急の要件とお伺いいたしましたが、どのようなことでございましょうか?」
「向! これを見よ!」
そう言うと、大王は一枚の紙を李向の前に示した。
その紙は、今のA4サイズほどの大きさの紙で、そこに墨で一人の女性が描かれていた。
一見するだけで息を飲むほどの美人であった。
「これは、お前が描いた絵で間違いないな?」
「はい、協様。これは私が描きました。おそらくは、孟様であったと思われますが……」
「さすがは、天才絵師! 描いた三千人の後宮の女、全てを把握しているとはな……。その通りだ。ところで、向! 余はお前の描いたこの孟の絵が気に入って、昨晩の伽に指名した! しかし……」
「何か不都合でもございましたか?」
温厚な性格の協王は、後に名君の一人として歴史にその名を刻まれるが、その王が、今の李向の落ち着いた発言には少しカチンときた。
「孟には、娘でもいるのか!」
「……何をおっしゃいます? 協様。後宮に入る女子は全て処女であるのが、絶対条件でございます。そのご冗談は、普段の聡明な王を知る者からしても、お戯れが過ぎるのではございませんか?」
「じゃあ、この絵は何だ?! どう見ても孟本人の十代の頃の絵にしか見えないではないか?」
「いや、ですから孟様は十五とお伺いいたしておりますので、何ら間違いは……」
「あれが、十五?! いくら暗がりとはいえ、五十代にしか見えなかったぞ! 最初は孟にお付きの老女かと思い、孟はどこにいるかと尋ねたら、自分がそうであると言っていたぞ! どんな手違いが起こればそうなるのだ!! お前は、本当に本人を見て描いているのか?!」
「はい! 私は、描く対象の方を真剣に己が心のまなこで拝見して描いております。ゆえに私の絵には、その方の心根が宿ります。それは、協様がよくご存知ではございませんか! 元々、十二年前に協様とお会いしたのも、そう言った縁からではございませんでしたか?」
「うむ。確か余が十八の時、父王と共に初めて国内一の舞姫の舞を見て虜になりかけた時のことだな」
「はい。あの時、協様は舞姫様をご覧になられて、夢見心地のご様子でいらっしゃいました」
「そうだ。余は舞姫の美しさに心を震えたのを覚えている。この世の中にこれほど麗しき者がおるのかと……。舞姫が、天からの使者かと思ったぐらいだ。実際に父も舞姫を余の妻にするつもりで、余に舞姫の舞をお見せになられたらしい」
「そして、協様はその夢見心地のまま、隣でその舞姫様を描いていた私の絵を拝見されたのですよね?」
「ああ。向、お前の絵を見て、一瞬余は奈落の底に突き落とされた気持ちになったぞ。そこに描かれた舞姫を見て……」
「どうお感じになりました?」
「目の前の舞姫とは似ても似つかない羅刹の姿をそこに見た! 目は吊り上がり、口角もきつく跳ね上がったその絵は、確かに舞姫を描いてはいるが、全くの別人であった」
「あの時も協様は、何故そのような酷い描き方をするのかと憤慨されておりましたね。そして思わず、私に声をかけたと……、その時の私の言葉を覚えておられますか?」
「むろんだ。『私は、描く方の表面的なものを描いているのではありません。己が心の眼で見たままを描いております』と……。余はさすがにその場ではその言葉を信じられなかったので、すぐに確かめてみた」
「そこが協様の聡明なところでございます。また、その実行力も名君と言われるゆえんでございましょう」
「世辞はいい! とにかく、次の日に余は舞姫ご用達の衣装を作る商人に頼み込み、商人の一団の一人に扮して、舞姫の元を訪れた。そして、そこはまさに修羅場だったのを覚えている。
舞姫は、商人の衣装をぼろくそにけなし、無理難題を言い連ね、衣装の料金を安く値切ったうえ、次の衣装の採寸をした余に対して――少し舞姫の身体に触れたことを理由に――、激しく叱責し、はては足で土下座をしている余の頭を踏みにじった。
その時の、余を見下している舞姫の顔。特にその目や口は、向の描いた舞姫そのものだったのだ。衝撃的ではあったが、余が、お前を友人として遇し、後宮の絵師にと、父に口利きをするきっかけとなったのだから忘れるわけがない」
「そうでした。それで、お話を元に戻しますが、孟様はおいくつでございましたか?」
「本人には何度確認しても、十五と言い張る。結局、らちがあかなくて……」
大王は、ボソッと呟いた。
「そしてどうされました? 孟様を罵倒して追い払いましたか?」
「それは、さすがに気が引けた。しかし、抱く気持ちにもなれないので、余が急な腹痛を訴えて、その場から退室した」
「さすがは協様。私は、そこまでお人のことを慮れる王を今まで拝察したことがございません。昨日はかなりお疲れで、ありもしないものをご覧になったのでしょう。あるいは、魔の者の影響かしれませんが、後日改めて孟様にお会いになれば、絵のとおりということがお分かりになると思います」
絵師は自信満々であった。
「しかし、昨日の孟だけではない。ここ三日間、お前の絵の中で最も気に入った三人を指名したが、いずれも絵と違い過ぎる。一日目の亮は、確かにお前の絵の通りに綺麗ではあったが、目鼻立ちがきつ過ぎて、品性に欠けた印象を受けた。最後まで抱いたが、言葉遣いや仕草が下品であった。二日目の満は、部屋がほとんど真っ暗な状態で会ったのだが……。確か満は全身を描かれていたが……」
「その通りでございます。満様の魅力はあの細身の身体でございます。私はそれを十二分に表現いたしました次第です」
「いや、満の形は違った!」
協王は憮然と言い放った。
「どういうことでございますか?」
「いくら真っ暗とは言え、身体を触れば分かる。あれは、細身ではない! 細身で両の手であまるほどの贅肉がつかめるか! 間違いなく、本人は、絵より二倍の体積を感じた! 結局、二日目は触れただけで、それ以上はしなかった! 最も三日目は、触れもしなかったが……」
「協様は理想が高いのでいらっしゃいます!」
「何?!」
絵師の言葉に王は意外そうな顔をした。
「協様は、大帝国の王でいらっしゃいます。その後宮の女と言えば、国内は言うに及ばず属国の女の中から厳選された最上級の方々でございます。そして、今回協様が選ばれました亮様、満様そして孟様は、私の目から見ましても、最近召し抱えられた方々のうちの五指に入るレベルでございます。それらの方がお気に召されないということは、協様の理想が限りなく高すぎるということでしょう。
もしかしたら、協様のお相手は地上にはいらっしゃらないのかもしれません。しかし、後宮には三千人の宮女がおられます。何人かは協様のお目にかなうのではありませんか。まあ、ご多忙な協様が三千人全てとお目通りはかないません。そのための絵師でございます。協様の代わりに、私が全員を拝察して、描きましょう。
私の絵は、私の心の目で見たものを絵として表現いたします。故に第一印象と若干異なる感覚になるかもしれませんが……。まあ、ゆるゆるとお気に召す方をお探し下さればよろしいと思います。……それで、他にご用事はございますか? 協様」
「……いや特には……。呼び立てて済まなかった」
これで王と絵師の会見は終わった。
王からしてみれば、怒りをうまく逸らされた気持ちで、いたたまれなくなり、このまま馬を駆りに馬場へと向かった。
その後何人か、絵師の絵の中で気に入った宮女を抱いたが、やはり絵と自分の目で見た宮女のギャップを感じずにはいられなかった。それも全て絵よりも劣っているという印象をである。
しかし、元々政治なども精力的に取り組む協王は、多忙の中にしばしば深夜まで書を読みふけることもあり、いつしか後宮には週に一度程度しか通わなくなっていた。
さて、協王の支配する國は大帝国であり、その帝国の周りには多くの国々が存在していた。
協王とその父王の二代に渡る精力的な軍事及び外交政策が功を奏し、帝国の力は他国を凌駕するものとなり、周辺国は競って帝国の機嫌を伺い、あるいは属国となっていった。
その協の時代より百年程度遡る時代、帝国の北方に騎馬民族の国家が存在しており、帝国にとって大いなる脅威であった。
この騎馬民族国家は、しばしば帝国の国境を侵し、最盛期には帝国の帝都に肉薄するほどの力を有していた。
しかしそれも過去の話。
もともと騎馬民族国家の国力は、帝国の国力の十分の一程度であり、それを騎馬民族の圧倒的な戦闘力が補っていたのであるが、今では、その騎馬戦法や騎馬の集団運用なども帝国に研究され、ほぼ軍事力に差は無くなっていた。
そこに、協王による卓越した表の外交と裏の調略のいわゆる『軍隊を用いない戦争』が功を奏し、騎馬民族国家は三人の兄弟で、國を三分して相争う事態へと発展したのであった。
この騎馬民族国家のうち、末の三男が帝国と手を組み、一番国力を有していた長男の國を滅ぼした。
長男は先王が正式な後継者に選んだ者であり、当然三男の行為への國内外の非難は無視できないものとなり、さらに長男の國を滅ぼしたとはいえ、三男自身の國も自国の兵の大半を失い、一気に国力を落とした。
そして、まだ長男は滅ぼしたとはいえ、次男の國が残っている。
騎馬民族国家の三男は、帝国とのさらなる強固な同盟を望まざるを得ない状態であった。
事実上の帝国への属国化である。
この筋書きはほぼ帝国の協王が描いたとおりであり、北方の騎馬民族国家全ての併呑も数年の後には完了する状況にまでなっていた。
そのような時、騎馬民族の三男の王が、帝国の協王との会談を申し出、実現した。
その会談の中で騎馬の三男の王は、協王と義兄弟の契りを結びたいと申し出たのであった。
衰退する事実の前で少しでも自らの存在を誇示したい三男の足掻きともとれるこの申し入れに、協王は二つ返事で快諾した。
協王からすれば、そのような契約などいつでも一方的に破棄できるものであるし、むしろ義兄弟という関係を結べば、そのまま騎馬民族国家の併呑の理屈も立ちやすい。
むろん協王が兄で、騎馬の三男が弟である。
そして、その義兄弟の契りを結んだ会談の席で、騎馬の三男王は、帝国の王族を妃に迎えたい旨を申し出た。
この三男王の厚顔ぶりには、さすがの協王も鼻白んだが、三千人の後宮の宮女を一人下賜すれば事足りると思い至り、これも笑顔で快諾した。
その会談の夜。協王は数名の重臣と図った上で、宮女の中で一番の醜女を三男王に下賜することと決定した。
身の程をわきまえない三男王への意趣返しもあるが、その協王の行為に対して、三男王が不平や不満をもらしたり、その醜女を粗略に扱ったりしたら、それを理由に三男王を攻める大義名分が成り立つ。
もしかしたら、明日その場で宮女の下賜を拒むかもしれない。そうなったら、騎馬国家の併呑は少なくとも二年は早まる。そのような協王の深慮遠謀を含めての決定事項であった。
重臣とこれらを決めたのち、協王はその後夜を徹して、三千人の宮女の絵を吟味した。
絵が完成した折に一見したきり、一度も見ていない最もランクが低い三百の絵を、協王は再びこの夜見たのであった。
それは、セレクトされた宮女たちとはいえ、見るに堪えないものばかりであった。
協王からすれば、なぜそのような女たちを宮女として召し抱えているかは、理解しがたいものであったが、召し抱える家臣の美の価値観は多様であるし、容姿より何らかの秀でた能力があるものも選んでいるのであろうと、無理やり自分に思い込ませ、その三百の絵を吟味していった。
しかしそれはそれほどの時間を要さなかった。
三百の中に一人だけ抜きに出るぐらいの醜い女がいたからである。
名前は弁。
宮女として迎え入れられた時が十三で、既に十年が経過している。
とにかく、その場で家臣に命じ、明日、弁を三男王に下賜する旨を伝え、協王は眠りについた。
それからの三日間、三男王は帝都に滞在していたが、協王は最初の会談以来、三男王には会っていなかった。
三男王の相手は、既に家臣に任せっきりにしていたのである。
王とはいえ、既にそれが今の三男王への扱いとして妥当であった。
そして、明日、三男王が本国に帰還するという前日、三男王が協王への目通りを所望してきたのである。
そのくらいの義理は果たそうと考えた協王は、その会見に応じた。
「兄王! このたびの身に余る扱いに、この愚弟これ以上の喜びはございません! 今後とも固い繋がりを末永く持ち続けていきたいと思っております。この愚弟の力、微弱ではございますが、兄王のお役に少しでも立てればと思っております」
三男王は、協王との会見で満面の笑みでこのように述べた。
「喜んでいただけて余も嬉しい。帝都は満喫できましたか?」
「はい! さすが帝都は全てが素晴らしい。田舎の我が國とはなにもかもが比べものになりません。特に女性のレベルは、比べるのもおこがましい程。兄から賜りました弁様の美しさは、我が国の女ども全て集めても対抗できるものではございません! そのような麗しい方を選んでいただけたことで、兄王の愚弟への信頼の証が本物であることを確信いたしました! この御恩は一生忘れるものではございません!」
“宮女一の醜女にそれほど喜ぶとは、騎馬国家はそんなに女の質が悪いのか……、それとも、この王は常人には受け入れ難い美的感覚の持ち主なのであろうか?……”
そこまで思った協王は、一度その弁なる醜女を直接見てみたい衝動に駆られた。
興味本位以外の何ものでもないが…… 。
「それは余も嬉しい。明日は別件があり、弟殿のお送りすることは叶わないが、できれば弟殿の弁殿と最後の挨拶がしたいのだが……、今はさすがに弁殿をお連れしていないか!」
「いえ! この部屋の隣におられます。会見の場まで連れてくるとは、兄から田舎者と蔑まれるかもしれませんが、愚弟は一時も弁様と離れたくないのでございます。今、お連れいたします。弁にとっても、兄に会うのが最後になるかもしれませんから……」
“最後もなにも、まだ一度も会っていないのだが……”
協がそう思っている間に、三男王はいそいそと隣の部屋に自ら出向き、弁を連れて戻ってきた。
弁は深く頭をたれたまま、協王の前で跪き、ひれ伏した。
そして、「弁でございます」と一言。
“?! 醜女にしては、透き通るような綺麗な声だ。容姿とは相反して、声は綺麗なのか?”
この時、協王の中になんとも表現し難い不安感が支配した。
“何か大きな思い違い……、何か大きな間違いを犯したような気が……”
しかしもう後には引けなかった。
「弁殿。構わない面を挙げられよ!」
面を挙げた弁の顔を見た瞬間、協王の息が止まった。
あるいは、一瞬とはいえ、心の臓も止まったかもしれなかった。
「……綺麗だ……」
協王の呟き。
愚人かと思うようなこの一言の呟きが、全てを物語っていた。
本当に美しいものに直面した時には、人は言葉を発せないのかもしれない。
あるいは、今の協王のように最もオーソドックスな一言ぐらいしか……。
そういう意味で過剰な美辞麗句は、言っている自分をそう思い込ませようとする一種の防衛本能なのかもしれない。あるいは、その言葉に自分が陶酔するために……。
その日の夜、協王は三男王の承諾を得、弁との最後の語らいをした。
三男王としては、少しでも弁と離れたくない様子であったが、そこは兄となった大王の頼み、さすがに断ることはなかった。
それに三男王は、協王を信頼している。
弁とは、協王は家族としての最後の語らいということであったし、実際に大王の重臣は、弁に箔をつけるため、弁を協王の実の妹であることにしていた。
三男王は、弁の美しさに加えて、協がそれほど自分に近しい王族を自分の妻として下賜してくれたことにものすごく感激して、そういう意味では協王への信頼感は絶対的なものとなっていた。
しかし、協王からすればどうしてよいか全く分らないまま、弁と一晩語り合った。
何故、弁がそんなにまで美しいのか?
では、この絵の中の弁は何者か?
協王は誠実なる人であったため、その場で弁を抱いたり、また、三男王から弁を取り上げたりするような暴挙はしなかった。
それでも、弁と一晩語る中で、何度、弁を抱きたいという衝動にかられ、その都度、強靭な自制心で押しとどめたことか……。
弁との最後の語らい……、いや弁との最初で最後の語らいになるが、その中で協王は一つの真実に辿り着いた。
弁との語らいは、ここでは詳述はしないが、要は、弁は帝国南方の田舎村で土地を借りて畑を耕している農家の娘であった。
帝国の家臣の一人が、その村を訪れた時、父親の畑仕事を手伝っている弁に出くわした。泥だらけで真っ黒になって種を蒔いている十二歳の弁に、その家臣は、その弁の美しさに、しばし我を忘れたということらしい。
弁本人が、その後宮に推薦した家臣から聞いた話であるが、とにかく、泥だらけの農家の娘に、都会の女性を見慣れている帝王の家臣が心奪われたのである。
その家臣は、数日弁の家に足を運び、弁を後宮にもらい受けたのである。
その際に、さすがに農家の娘では按配が悪いため、一族が絶えた貴族の名を、その父親に引き継がせ、一人で耕せる程度の畑と土地を与えたのである。
弁の父親は領土持ちの貴族という扱いになった。これで、弁の家族は食べることに事欠かなくはなったが、あくまでもそのぐらいの生活が保障されたという程度なので、もちろん弁の家には財産といわれる蓄えは一切なかった。
それに対し、他の宮女たちは程度の差こそあれ、皆が本当の貴族の出なので、親に財産がある。
弁の口からその実情を聞いた協王は全てを悟った。
「向の奴! 金銭を受け取って、絵を描いていたな!!」
翌日、協王は李向をすぐに呼び出した。
弁のこと。弁の絵。弁の話を知り、協王の激怒した顔を見た瞬間、李向はその場に頭をこすり付けて、そのまま一切、言い訳をしなかった。
この聡明な王が、そこまでの事実を知り、全てを悟った今、この場でのどのような言い逃れも、協王の怒りの炎に油を注ぐ以外のことができえないと、李向は悟ったのであった。
「向! この場で全てを正直に話せ! 本来であれば、死罪以外の選択肢はないが、全てを正直に話すのであれば、あるいは……。言うまでもないが、一つでも虚言や誇張があれば、この場で余が切り捨てる!」
「わ・分かりました。大王陛下……」
李向の語りから、召し抱えられた当初は、自分の心の眼で見た通り、描いていたということであった。
しかし召し抱えられてから三月ほど経った頃、ある有力な一族の宮女から、少しだけ目元を大きく描くよう要望があった。
初めは丁重にお断りしたが、再三の申し出に、断り切れない状況になっていった。
相手は有力な一族の娘。自分は王直々に召し抱えられているが、一介の絵師。
これ以上断り続けることにどのような報復があるのであろうかと考えるようになり、断ることが段々こわくなっていった。
そして、絵師は自らの信条を曲げて、宮女の目を若干大きく描いた。
宮女はそのことを大喜びし、翌日にその親から拳大程の金塊が贈られてきたのであった。
その金塊一つで、中流階級程度の生活が、一人であれば一年間はできる程の価値を有していた。
それから絵師は、その偽装が発覚するのを恐れて、三日ほど眠れない夜を過ごしたが、結局何事も起こらず、むしろ、描いた宮女の取り巻きからは非常に感謝されたのである。
その絵を偽装した翌晩に王から伽の指名が入ったからであった。
みんなが喜んで、自分には金銭が入る。
この魅力の虜になるのに、それほどの日数は必要なかった。
そして、気が付いたら、そのような生き方を十一年続け、今に至ったということであった。
そして絵への要望は自分を際立たせて描かせるだけでなく、反対にライバルとなる宮女を醜く描かせることにも金銭が動いた。
「よく分かった。それでは向よ! お前への罰を言い渡す!」
協王の声が李向に鋭く突き刺さる。
「先ほども言ったように、本来であればお前の罪は死罪以外の何ものでもない! しかし、今お前は嘘偽りのなく語った。それは、お前の目を見れば分かる。さらにお前ほどの絵師を得ることは非常に大変である。そのような事情から死一等は減じる! しかしながら、お前の罪の大きさは計り知れないのも事実である。
そこで、李向……お前から財産を全て没収する! そして今後は絵を描く報酬もない。後宮以外への出入りも全て禁じる。後宮内に部屋を与え、食事もこちらから支給する。お前が宮女を描ける間は生きていける最低限の処置をする。むろん、今後、金品を受け取るような行為が一度でも発覚すれば、多寡に関わらず問答無用で死罪を与える。よいな!」
「陛下! 寛大な処分痛み入ります。これからは、王の恩に報いるため一生身を粉にして絵を描き続けます」
絵師はしばらく頭をあげることが出来なかった。
「向!」
「はい! 陛下」
「早速、一枚描いてもらいたい」
「はい! どなた様でございますか?」
「弁を描いてもらいたい。今度こそ、お前の曇りのないまなこで見た弁を描くように……。弁はあと二時間ほどで、騎馬王国の王と共に本国に向かう。至急描いてもらいたい。既に王には伝えてある。一時間ほどお前と弁と会えるように取り計らってある。既に青龍の間に控えているはずである!」
「分かりました! それでは早速!」
李向は絵具を用意すべく立ち上がりかけた。
「弁を書き終わったら、三千の宮女の絵を全部描きなおせ! 期限は一月だ!」
王のその言葉に絵師は大きく頷き、そのまま王の前から静かに立ち去った。
とにかく、一命をとりとめた絵師の李向は、弁を書き上げた後、約束の一月で三千枚の絵を描き上げた。
心の眼を持つ天才絵師の弁の絵は、本当に美しく、協王はその絵を自分しか見られないところにしまい込んだ。
おそらくは、王が死ぬまでに持ち続けたと思われる。そして、王はその弁の絵を見るたびに、その美しさに見とれると共に、それを失った大きさに落胆した。
それでも、元々精力的で聡明な王である。
正しく描かれた絵に従って宮女を選び、結局は百を超える子を成したと言われる。
そして、帝国の版図は益々広がり、多くの周辺国が属国かまたは併呑されていった。それらの新たな拠点に、自らの子たちを遣わしたので、百を超える子供たちも決して多過ぎることはなかったのである。
そして、騎馬民族を従える三男王の王国は、結論から言うと國として存続したのである。
帝国の助力も得て、次男を破り、ついには騎馬民族の王国を一つに束ねた。
そして、流れからいうと帝国に飲み込まれるか、良くて属国となる中、唯一帝国の同盟国という立場で、この後二百年栄えたのであった。
これは推測の域を出ないが、おそらくは協王は、弁の嫁ぎ先の三男王を除く気にはなれなかったのであろう。
それをすれば、弁はもしかしたら帝都に戻り、あるいは協王の元に戻るかもしれない。
しかし、弁の身は自分の元に戻るかもしれないが、弁の心は夫を除いた協王への憎しみに支配されるはずである。
弁から憎まれるという事態は、協王にとって、絶対に享受できるものではない。
騎馬王国が存続できたのは、弁のおかげであり、その弁を醜く描いた絵師のおかげであるという事実は、歴史の皮肉さを物語る好例であろう。
そして、協王は死ぬまでに多くの美女と夢のような淡い情事を星の数ほど経験することになるが、結局は弁の絵を見て、弁への思いを一生持ち続けたのであろうと思われる。
そしてこれも皮肉かもしれないが、仮に弁が王のそばにいれば、あるいは王は、弁よりも好きな宮女が見出していたかもしれない。
しかし、一生に一度しか話す機会のなかった弁。そして、天才絵師が心の眼で描いた決して朽ちることのない絵の中の弁。
そんな弁という、美しき思いの込められた一枚の絵――偶像。
それを上回る生身の女性に出会える確率は、人の短い一生ではほぼ無に等しく、協王の一生もその例外から逃れることは出来なかったのであろう。
【完】