司馬昭1 忠義の形
晋 文帝 司馬昭 全7編
既出:鄧艾、曹髦、鍾会4、鍾会9、司馬懿4
東晋が誇る名将桓温の息子、桓玄。
父親より引き継いだ軍閥を率い、
南郡と呼ばれるエリアで勢力を確立させた。
これは、その時の一幕の話。
南郡周辺は、いわゆる荊州。
この時のボスは殷仲堪と言う人だった。
元々利害の対立していた桓玄、
殷仲堪と戦い、倒す。
この時、桓玄は殷仲堪の幕僚十名少々を
自陣営に引き入れようと思った。
中でも羅企生と言う人は、
桓玄との交流も深かった。
殷仲堪の部下という事で、
羅企生も処刑されることにはなったのだが、
桓玄は人を遣り、謝るなら許してやる、
と伝えた。
「私は殷仲堪さまの幕僚です。
敗北されたとは言えど、
我が主の生死は未だ不明。
この状態で、わたくしが桓公に
何を謝れる、と申せましょうか」
毅然とした対応に、桓玄、
ますますこの人を惜しい、と思う。
処刑のため広場に引っ立てられた時、
桓玄、改めて人を遣わせる。
「最後に、何か言い残すことはあるか?」
「昔、司馬昭は嵇康を殺しましたが、
息子の嵇紹は晋の忠臣となりました。
この故事に倣いたく思います。
処刑は私までとなさってください。
弟には、母を養って貰いたいのです。
さすれば弟は、公に忠誠を誓うでしょう」
この提言を桓玄、受け入れる。
さて、以前に羅企生の母、胡氏は
桓玄より革製の上着を貰ったことがあった。
この時胡氏は荊州より遠く離れた地、
豫章に住んでいた。
そして息子の訃報を聞くなり、
桓玄より貰った上着を焼くのだった。
桓南郡既破殷荊州、收殷將佐十許人、咨議羅企生亦在焉。桓素待企生厚、將有所戮、先遣人語云:「若謝我、當釋罪。」企生荅曰:「為殷荊州吏、今荊州奔亡、存亡未判、我何顏謝桓公?」既出市、桓又遣人問欲何言?答曰:「昔晉文王殺嵇康、而嵇紹為晉忠臣。從公乞一弟以養老母。」桓亦如言宥之。桓先曾以一羔裘與企生母胡、胡時在豫章、企生問至、即日焚裘。
桓南郡は既に殷荊州を破り、殷の將佐十許人を收せんとせるに、咨議の羅企生も亦た在り。桓は素より企生の待せること厚く、將に戮す所有らんとせるに、先に人を遣わせ語らしめて云えらく:「若し我に謝さば、當に罪を釋さん」と。企生は荅えて曰く:「殷荊州の吏と為り、今荊州は奔亡せど、存亡は未だ判ぜず、我は何れの顏にて桓公に謝らんか?」と。既にして市に出、桓は又た人を遣わせ何をか言いたるを欲せんかと問わしむ。答えて曰く:「昔に晉の文王は嵇康を殺せど、嵇紹は晉の忠臣と為る。從りて公にては一弟を以て老母を養わしめんと乞う」と。桓は亦た之を宥し言の如くす。桓は先に曾て一なる羔裘を以て企生が母の胡に與う。胡は時に豫章に在り、企生を問うに至りては、即日にて裘を焚く。
(德行43)
殷仲堪
東晋末、荊州はちょっとした戦国時代状態になっていた。その中で最も勢力が大きかったのがこの人。だが優柔不断で、桓玄の攻勢を防ぎきれず、敗北している。
羅企生
殷仲堪の臣下として忠誠を誓い、忠義に殉じた人。ちなみにこの人の従弟である胡藩(桓玄の武将、後に宋武帝・劉裕に帰属)は、結構早い段階からこの人に殷仲堪を見限るよう勧めてたりしてる。この辺りは見方次第で趨勢を占えなかった人ととるか、あるいは忠義を貫いた人ととるか、に振り分けることができて、実に味付けのし甲斐がある。




