休日の本屋で
和寿からもらったトルコキキョウも枯れてしまったころの、翌週の週末。
5月の爽やかな青空が輝くような日だったけれど、佳音の工房には予約客以外にほとんどお客が来ることはない。
この日に限らずこの2日ほどは来客もなく、外出もしていないので、そういえば誰とも口を利いていない…。
佳音はパターンを引き直す作業の手を休めて、フッと息を吐き窓の外を見遣った。
裏通りだけれども、休日を楽しむ人たちが歩いている。明るい光の中、軽やかな服装をして、楽しそうに。
佳音も久しぶりに外に出て、緑の若葉を抜けた爽やかな風を感じたくなった。
ちょうど、定期購読しているウェディング雑誌も入荷しているはずなので、本屋にも行く必要がある。
『近所まで出かけています。御用の方は電話してください』
と書かれたプレートを玄関のドアにかけて、佳音は少し出かけてみることにした。
いつもの商店街を通り、いつもの花屋へ。
あれから何度かこの花屋を訪れたが、その度に和寿を思い出してしまう。そして今日も、また和寿がいるのではないのかと思ってしまう。
…別に、また会いたいと思っているわけではない。けれども、あの時は気持ちが動転するあまり、お礼を言いそびれていたので、会える機会を探しているのも確かだ。
それに何よりも、“花束をもらう”という出来事は、佳音にとってはかなり衝撃的だった。
「そろそろ鉢植えのパンジーが終わりかけじゃない?」
店主からそう声をかけられて、佳音はほのかに微笑んで応える。
確かに店主の言う通り、パンジーがもう玄関を飾る風情ではないことを思い出す。花苗のコーナーに行って、育てやすく安価で可愛い花を見繕って購入する。
「…これ、売れ残りだけど、おまけね」
すると、店主がまだきれいに咲いているベルフラワーを、新聞紙でくるんで渡してくれた。
「あ…、ありがとうございます」
佳音は恐縮しながら、それを受け取った。
こんな時、ちゃんとした大人ならば遠慮するものだろうかとの思いがかすめたが、佳音にはそんなことに気を回せるほどの余裕がなかった。
店主の和やかな笑顔に見送られながら、花屋を後にして、本屋へと向かう。
この本屋も大きな店ではなかったが、近所にあれば何かと便利なところだった。
注文している雑誌を受け取る前に、ファッション雑誌などにウェディング特集などがないか、入念にチェックをする。こうやって、最近のトレンドを押さえておくのも大切な仕事だ。
「……相変わらず、研究熱心なんですね」
雑誌コーナーで横に立った人間から、言葉が発せられる。
花屋の時のデジャヴのような出来事に、佳音は目を見張るだけで言葉が出てこない。
「もう、今日はお花屋さんへは行かれたみたいですね」
和寿はそんな佳音の驚きはよそに、佳音の持ち物を見て、そう言って微笑んだ。
〝お花屋さん〟と聞いて、佳音の中にこの前の出来事が思い出される。お礼だけは、忘れないうちにきちんと言っておかなければならない。
「あの…!この前は、あんな立派な花束を頂いてしまって…、ありがとうございました」
手にあった雑誌を元の場所へと戻して和寿に向き直ると、佳音は深々と頭を下げた。
「いえいえ。僕の方も、もらってくれて助かりました。夜しかいない男の独り住まいにあるより、あなたに見てもらった方が花たちも幸せだったと思います」
和彦は、本当は初めから佳音にあげるはずだったということは、言わなかった。
それでも、佳音は不可思議そうに首をかしげる。
「…幸世さんに差し上げなくて、よかったんですか…?」
花を買ったのならば、普通は婚約者にあげるはずだ。佳音の思考は、至極当然だった。
すると、和寿の微笑みに苦みが混ざる。
「あの人は、好みがうるさくて、こだわりも強いっていうこと、あなたも知っているでしょう?僕が選んだ花を贈っても、きっと満足してくれないから」
あんなに素敵な花束を贈られても喜ばないなんて、幸世は本当に満たされて生きてきた人なんだと、佳音は思う。
佳音ならば、あんな花束でなくても、その辺の道端に咲いている花を手折って渡されても嬉しく感じてしまうかもしれない。
佳音が考え込むように黙ってしまったので、和寿は気を取り直す。
「ドレス作りは順調に進んでいますか?もうすぐ出来上がりそうですか?」
何も知らない素人ならではの質問に、佳音は思わず表情を緩めてフッと息をもらした。
「とんでもない。まだまだ時間がかかります。まだ1回目の仮縫いが終わったばかりですので、パターンを修正してから2回目の仮縫いをして…。それで何も問題がなければ、やっと幸世さんが注文した生地で本縫いに入ります」
ドレスのことになると饒舌になる佳音の言葉に、和寿は嬉しそうに耳を傾けた。
その時、他の客が二人に遠慮しつつも、その間を割るように手を伸ばし、そこに並べられている雑誌を手に取った。
二人は同時に、自分たちが邪魔になっているのだと察する。
「ここで立ち話もなんですから、場所を替えましょう。近くにカフェなんか、ありませんかね?」
そう和寿から持ちかけられて、思わず佳音は身構える。
幸世のいないところで、二人でお茶なんて飲んでいいのだろうか…と。
あの大らかな幸世ならば、そのくらいのことを気にすることはないかもしれない…。…でも…。
「あの…、私。今は工房を開けてる時間で、少し抜けて来ているだけなんです。…だから、あまりゆっくりはしてられなくて…」
佳音のつれない返答を聞いて、和寿は一瞬肩をすくめたが、すぐに思い直したように微笑んだ。
「それじゃ、工房にお邪魔させてもらっていいですか?ドレスの進捗状況も知りたいし…」
そう言われてしまうと、佳音にも断りようがない。ドレス制作の進み具合をきちんと報告するのも、依頼主に対する義務の一つだ。
「…分かりました。ちょっとお待ちください。注文している雑誌を買ってきますので…」
佳音はそう言うと、軽く会釈してレジへと向かった。
本屋を出ると、佳音も誘われた初夏の爽やかな風が、二人を待ち構えていた。並んで歩いている二人の間のぎこちない空気も、その風が吹き流してくれるようだ。
「今日は、本当に気持ちのいい日ですね。だから、ちょっと足を延ばして、この辺まで散歩してきてしまいました」
いつもの商店街を歩きながら、和寿は気を遣ってくれているのか、当たり障りのない話題を振ってくる。
でも、佳音はそれにどう応えていいのか分からない。同意するように頷くだけで、何も言葉が出て来てくれない。和寿に対して、どこまで心を許していいのか、測りかねていた。
「ちょっと足を延ばして」行けるようなところに、和寿は住んでいるのだろうか…。だから、偶然が重なってこんな風に、出会ってしまうようなことが起こるのだろうか…。もしかしてこれまでも、あの本屋などですれ違ったりしていたのかもしれない…。
そんなことを考えながら、足元を見つめ、工房への道を歩む。目を上げて、和寿がどんな顔をしているのかなんて、確かめる余裕もなかった。
「…佳音ちゃん!」
その時、大きな声で呼び止められ、佳音はビクンとして立ちすくむ。同時に和寿も歩を止めると、魚屋のおじさんが手招きしていた。
「これ、アサリ。仕入れすぎたから、持って行きな」
他のお客さんに聞こえないようにヒソヒソと話しながら、アサリの入ったビニール袋を渡してくれようとする。しかしそこで、隣にいる和寿の存在に気付いた。
「何だ、今日は彼氏も一緒かい?それじゃ、二人で食べるんなら、もう少し増やさねーとな!」
と、袋の口を再び開いて、アサリを大きな手で一掴み放り込んだ。
「…こっ!この人は、彼氏なんかじゃなくて、お客さんです!」
佳音が焦ったように、おじさんの勘違いを訂正すると、おじさんは目を丸くして和寿を見つめた。
「へえ?お客さん?!男なのに、ウェディングドレスを着るのかい?」
ケラケラと笑いながら、佳音にアサリを渡してくれる。そんなおじさんに、和寿も可笑しそうにククク…と笑いを漏らした。
「…ありがとうございます」
笑えないのは、佳音だけ。おじさんの好意は嬉しかったが、和寿が気を悪くしていないか、それだけが心配だった。
「荷物が多くなりましたね。持ちましょう」
花屋で買った苗に、もらったベルフラワーの束。本屋で買った分厚い雑誌に、アサリの袋。確かに細々したものばかりで、腕がもう一本ほしいくらいだった。
「いえ、大丈夫です」
当然、佳音はそう言って断ったが、和寿は何も言わずに手を差し出し、一番大きくて重い花苗の袋を、佳音の腕から外した。
「…ありがとう…ございます」
こんな優しさをかけられると、心が苦しくなる。
和寿の気遣いや優しさは、佳音にとって、商店街の人々からもらうものとは異質だった。
工房に帰ってくると、佳音は作業に取り掛かる前に、台所へ行ってお茶を淹れる準備を始める。
「どうぞ、お構いなく」
和寿はそう声をかけてくれたが、和寿への気遣いというよりも、こうやって二人きりになってしまって、何かして動いていないと落ち着かないからだった。
佳音にとっていつもは居心地のいい自分の場所であるこの工房も、よその家に来てしまったような違和感だった。
和寿に紅茶を出しても、佳音は同じテーブルに着くことはなく、再びパターンの修正作業に取り掛かった。
和寿はダイニングから、その作業を眺めている。その視線が気になりつつも、佳音は作業に集中することに努めた。和寿も佳音の仕事の邪魔にならないように、無駄な口は利かず、黙ってこちらを見ているだけだ。
けれども、和寿がいるといういつもと違う環境は、佳音に多大な緊張を強いた。あまりの緊張で、集中が阻害される。特に、このパターン作成は間違いが許されない重要な作業だというのに。
そもそも、和寿はどうしてここにいるのだろう?進捗状況を知りたいのなら、幸世から聞けば、ここに来る必要などないはずだ。
そんなことを考えてしまうと、佳音の手はついつい止まりがちになる。それどころか、何度も同じ間違いをして、何度も同じ線を引き直した。
「…今は?これはどのような工程なのですか?」
不意に和寿から声をかけられて、佳音が目を上げる。気が付かないうちに、和寿はパターンを引くテーブルの横まで来て、そこに立っていた。
「…これは」
佳音は口から心臓が飛び出してきそうなほど驚いていたが、努めて冷静を装って、説明を始める。
「先日、幸世さんに仮縫いのドレスを試着してもらって見つかった修正点を直しているところです。こうやってもう一度、製図をし直して、それをもとにもう一度仮縫いのドレスを制作します」
和寿は頷きながら、マネキンに着せられた仮縫いのドレスに目を移した。
「こうやってピンを打って、細かく修正していくんですね」
「そうしないと、オーダーメードの意味がありませんから」
和寿は佳音の言うことにさも納得したように、パターンへと目を落とした。
「それじゃ、今のこの作業は一番重要なところなんですね」
「そうです」
普段の雑談をする時に見せる戸惑った様子とは違う、佳音の明快な受け答えに、この仕事に対する自負心がかいま見える。
それを頼もしく感じて、和寿はおのずと柔らかい笑顔になった。
「邪魔してはいけないとは思うのですが、作業をもうしばらく拝見してもいいでしょうか?」
「……はい」
と、佳音は了承したものの、和寿がいると集中できないので、「もう帰ってほしい…」と思っているのが佳音の本音だった。
和寿は先ほど紅茶を出されたテーブルに戻って、そこが定位置とばかりに椅子に座り、落ち着いている。
佳音もしょうがないと思い、心の中でため息を吐く。
どこまで作業を進めたのか…と、考えながら佳音が再びパターンに目を落としたところで、和寿がテーブルに着いたまま、また口を開いた。
「……こうやって、あなたが作業をしているところを見ていると、子どもの頃を思い出します。僕の母は手芸の好きな人で、よく僕や兄のセーターなどを作ってくれていました。母の手の中で、何もないところから少しずつセーターや手袋が形を成していくんです。それがとても不思議で面白くて…、時間を忘れて見ていました」
和寿がそう語るのを聞いて、佳音は納得した。和寿がじっと自分を見つめるのは、自分の母親と重ねているのだと。
そして、物が作り上げられていく過程の面白さに共感し、理解してくれていることが、少し嬉しかった。
「…古川さんの子どもの頃は、大人しいお子さんだったんですね」
思いかげず、佳音の方から話題を振られて、和寿は目を丸くする。
「いいえ、ごく普通の男の子だったですよ。兄ともよくケンカをして叱られましたし」
「…でも、男の子がそんな風に、お母さんが手芸をしているのをじっと見ているなんて、あんまり想像つきません」
佳音の弟も本当にやんちゃで、ゲームをしている時以外は少しもじっとしていなかった印象がある。もうずいぶん昔…、遠い思い出になってしまったことを、今更ながらに思い出した。
和寿は、佳音がそう言って返してくれたことに、嬉しそうに笑顔を見せる。
「それじゃ、僕はちょっと変わっていたのかもしれませんね……。あ、すみません。お仕事、続けてください」
そう促してくれるところを見ると、和寿は本当に仕事の邪魔にならないようにひっそりと眺めていたいと思っているらしい。
佳音も和寿の話を聞いて少し気分が落ち着き、見られているのを煩わしく思う気持ちも薄らいだ。
しばらくすると、いつもと同じように作業に集中して、時が経つのも忘れて没頭した。