花屋での出会い
それから何度か、幸世の方は佳音の工房へと足を運んでデザインや生地や素材のこと、ヴェールやグローブなどの小物のことなどを決めていった。
そして、一番重要な採寸。これは本番さながらにビスチェやパニエ、シューズなどを準備して入念に行われた。
その他料金のことや、細々とした決め事はメールや電話でやり取りをして、一つ一つ幸世の了承を得てから、ドレス作りは行われる。
100%オーダーメードを謳っているだけあって、その辺りは細心の注意が払われる。
花嫁さんに「まぁ、いいか」と思われて、譲歩されたり妥協されたりすることだけは、佳音の意識の中にはあり得なかった。
あまりにも執拗な確認に、時には花嫁さん自身から面倒くさがられたりすることも、これまでにはあったが、幸世に関しては本人もこだわりが強いらしく、一つ一つに対して真剣に考えてくれた。
幸世の体型に合わせてパターンを引き、最初の打ち合わせから1カ月が経過した頃、いよいよ本格的にドレス作りが始められる。
といっても、まだ幸世の決めた生地は使わない。パターンの調整のため、まず仮縫い用の生地を使って一通りドレスを作りあげていくのだ。
一旦、制作作業を始めると時間を忘れる。
食事をすることも忘れて没頭することもあり、この日も気づいたらとっぷり日が暮れていて、時計を見たら既に七時を過ぎていた。
ほとんどお客は来ないとはいえ、工房を開けている時間は7時までなので、とりあえず玄関のガラスのドアにカーテンを引いて、「CLOSE」の札をドアノブに掛ける。
――……何か、食べないと……。
この時初めて佳音は、お腹が空いていることに気づいた。そういえば、朝食を食べたきり、昼食を食べた記憶がない。
冷蔵庫を開けてみても……、もともと料理をしようと思って食材を買い込んだりしないので、食べられそうなものなど、ろくにない。
佳音はしょうがなく、空腹を抱え財布を持ち、外へと出た。
少し歩いたところに地元に根付いた小さな商店街がある。小さいとはいえ、大体のものはこの商店街で買い揃えられるので、佳音はいつもここで、必要最小限のものだけ買って生活をしていた。
「佳音ちゃん、調子はどう?仕事も大事だけど、ちゃんと食べないとダメよ」
八百屋のおばさんが、そう言って声をかけてくれる。
この街に住み始めて2年も経ってくると、親切な人たちがいろいろと世話を焼いてくれる。
「佳音ちゃん、これ、切れっ端だけど持って行くかい?」
と、今度は魚屋のおじさんが、サーモンの切り落としをコッソリと、なんとタダでくれた。
こうやってこの商店街の人々は、何かと佳音に構いたがる。別に佳音がここで媚を売って回っているわけでもなく、どちらかというとひっそりと言葉少なに挨拶をする程度だというのに。
それでも、ひとたび佳音がこの商店街に姿を現すと、皆はその姿を追うように視線を奪われる。ニコリと微笑みを見せるだけで、男女は関係なくその目は佳音の笑顔に釘付けになった。
質素な生活をして、着飾ったりもしていない。それが却って、佳音の透き通るような可憐さを強調させ、思わず手を差し伸べたくなる…。
普段は工房に籠っている佳音が、時折こうやって現れることを、商店街の皆は心待ちにしていた。
そして、ここに来たら、佳音が必ず立ち寄るところがある。
ごく普通の小さな花屋。佳音はいつもここで、時間を忘れて色んな花々を見つめ続けた。
花を買わなくても、店主は文句も言わない。逆に、花に見入る佳音がいてくれると、店も華やいで客の入りもよくなるのだ。
……ちょうど今、スーツで身を固めたスラリとした若い男が店に入ってきたように。
「……こんばんは」
何気なく入ってきた男は一通り店内を見渡した後、何気なく佳音の横に立ち、声をかけた。
知り合いに言われたようなその言い方に、佳音は不意を衝かれて言葉もなくその男を見上げた。
その男には見覚えがあった。
今も懸命に手掛けているウェディングドレス。それを着る幸世の結婚相手…。
「……古川さん……」
確か、そんな名前だった。
幸世とは頻繁にやり取りはしているが、和寿とは一度会ったきりだ。それでも、その名前を憶えていたのは、かつて恋をした人の名前に似ていたからだ。
名前を憶えてくれていたことが嬉しかったのだろうか。
「お久しぶりです。こんなところで会うなんて、奇遇ですね」
と、和寿はニッコリと満面の笑みを、佳音に向けた。
本当に「こんなところで」、和寿の言う通りだ。どうしてこの人はこんなに大きな街の片隅にある、こんな忘れ去られてしまいそうな花屋なんかにいるのだろう。
しかも、仕事帰りなのだろう。髪の毛もきちんとセットされ、ビシッとネクタイも締めたビシネススタイル。特にそのスーツは上質な生地で、量販店で買った物などではなく、その体に合わせてテイラーで誂えられた物だと、佳音は仕事柄ひと目でそれを見抜いた。
この前工房に来た時よりも格段にきちんとしていて、その姿はこのうらぶれた花屋にはそぐわないものだった。
佳音は困ったように口角を上げて、軽く会釈をした。
仕事のことに関する場合だと幾分スムーズにコミュニケーションが取れるようにはなってきたが、もともと人に気を遣ったり愛想を振りまいたりすることが苦手な佳音は、こんな場合、どんな風に対応していいのか分からない。
すると、和寿の方が気を遣ってくれたのか、言葉を続けてくれた。
「…お花、お好きなんですね。工房の入口にもたくさん花が咲いてましたね」
「…はい…」
仕事で関わりのある人だから、もう少し気の利いた受け答えをしたかったが、佳音には一言返事をするだけで精一杯だった。
花を見て、ホッと心が和んで癒されるはずが、緊張して落ち着かなくなる。目に映っているはずの花々も、佳音の意識の中には入って来なくなった。
「…この花たちも、あなたの作るウェディングドレスみたいですね…」
佳音の隣に立って、同じように花を眺めていた和寿が、その心に過ったことを言葉にする。
佳音はそれを聞いて、大きな瞳をさらに見開いて、花から和寿へと視線を移した。
どうして和寿はそう思ったのだろう?それは、いつも佳音が花に見入る時に、考えていることだった。
「…花からいつも、ドレスを作る時のインスピレーションをもらうんです」
気付いたら、それまでの緊張を忘れて、佳音の口は勝手にそう動いていた。
自分と同じ感覚を共有してくれる人がいる…。そのことが、少し嬉しかった。
「ご自分で、ドレスをデザインなさることもあるんですか?」
佳音からいい反応があったことに気を良くして、和寿が質問してくる。
この前の幸世との打ち合わせでは、彼女がデザインほとんどを決めていたから、和寿の疑問も当然だろう。
「ごくまれにですけど、『似合うドレスをデザインして作ってほしい』という依頼もあります」
そう言いながら佳音が表情を和ませると、和寿も納得したように頷いた。
「こうやってインスピレーションを受けて、それを布で表現して、……あんなに可憐なドレスを作りあげるのだから、本当にすごいことだと思います」
和寿の言ってることはお世辞だとは思ったが、佳音は嬉しいような何とも言えないくすぐったい気持ちになった。
「今はそれよりも、幸世さんの思い描くドレスにどんな風に近づけていくか、そればかり考えていますけど」
佳音がそう言うのを聞いて、和寿はフッと顔を緩め、肩をすくめる。
「あの人は、ワガママだからな」
「いろいろ要求して下さる方が、作り甲斐があります。今日も没頭していて、気づいたら夜になっていました」
ドレス作りのことだと、佳音は自分でも思ってもみないくらい、いつになく饒舌になった。
「…本当に、ドレスを作るのがお好きなんですね…」
しみじみとそう言ってくれる和寿の表情が、いっそう優しげになって微笑みで満たされる。
その笑顔を見た途端、佳音は胸がざわついて、ここでこんな風に和寿と話をしていることが、何だかいけないことのように感じてしまう。
ぎこちなく目を逸らして、また小さく会釈をする。
「…すみません。もうそろそろ帰って、食事をしたいので…」
「ああ、こちらこそすみません。お引止めしましたね」
和寿の方も、本当に済まなそうに頭を下げた。
狭い店内なので、佳音は和寿の横をすり抜けるように、出入口へと向かう。
「お花を見せてもらって、ありがとうございました。いつも見るばかりで、すみません…」
そして、中年女性の店主に、そう声をかけて出て行った。
残された和寿と店主が、必然的に二人きりになる。店主は何を感じ取ったのか、ここぞとばかりに和寿へと話しかけた。
「あの子、可愛いでしょう?実は、この商店街の密かなアイドルなのよ。この近所に住んでて、細々と暮らしてるの。きっと、なかなかお花を買う余裕なんてないんでしょうね……」
どうやら店主は、和寿が佳音の可愛さに惹かれてナンパしたと勘違いしているようだ。
見るからに堅い仕事をしてゆとりのありそうな和寿を見て、佳音との仲を取り持とうとしてるのか、花を買うようにただ営業しているだけなのか……、世間話のようにそんなことを言った。
和寿は面食らって、目を瞬かせながら店内を見渡した。店主の言わんとしていること以前に、このまま何も買わずにここを出て行くのは、非常に極まり悪かった。
逃げ帰るように工房に戻ってきた佳音は、部屋の照明を点け、ホッと息を吐いてダイニングのテーブルの上に買って来た物を置いた。
やっぱり、ここにいるのが一番落ち着く。一歩でも、ここから出て行くと、今日の出来事のように何が待ち構えているのか分からない。
そんなことに煩わされず、好きなものに囲まれたここに籠って、一人で静かに時を過ごすのが、佳音は一番好きだった。
魚屋さんのおじさんからもらったサーモンを使って、簡単にマリネを作る。この作り方も、魚屋のおじさんから教えてもらった。
佳音は、母親から料理の手ほどきを受けた経験がない。自分で料理を作り始める年頃になったころ、既に家族関係は破たんしていた。それ以前も、仕事が生活の中心だった母親が、家で料理をしているところなどほとんど見たことがなかった。
〝食事は買ってきてするもの〟それが佳音の家の感覚だった。
見よう見まねで佳音が料理を作るようになったのは、こうやって自活をし始めてから。今ではずいぶんいろいろとできるようにはなったが、それでも料理に対する感覚はなかなか変えられず、下手には違いなかった。
サーモンのマリネを作り終えようという頃、工房の玄関のドアのベルが鳴った。
驚いて時計を見てみると、八時を過ぎている。こんな時間に誰が訪ねて来るのだろう……。
一人でいるのは気楽でいいけれども、こんな時には途端に怖くなる。
不安を抱えながら佳音はドアに歩み寄り、鍵を開ける前にそっとカーテンを開けて来訪者を確かめた。
「………!!」
佳音は無言のまま、目を丸くした。そして、急いで開錠し、ドアを開ける。
そこに立っていたのは、先ほど花屋にいた和寿だった。
「……なにか?」
そう声をかけた佳音は、ウェディングドレスのことで和寿が何か用があるのだと思った。
「あの……」
と言ったきり、和寿からは何も言葉が出てこない。戸惑うような視線で佳音を捉え、唇を噛んで言葉を探しているようだ。
佳音は訳が分からず、首をかしげて和寿を見上げる。
すると、目の前に花束が差し出された。佳音はますます訳が分からず、疑問を顔に書くと、和寿の方もきちんと説明する必要に駆られる。
「……こ、これ。さっきの花屋で何か買わないと気まずくって……。なので、……どうぞ」
シドロモドロと言葉を絞り出し、花束を佳音に手渡した。
思いかげないことに、佳音の方も目を見張って言葉をなくす。胸元にある花束の美しさに圧倒され、じっと視線を落として見つめ……、それから、その眼差しのまま和寿を見上げた。
和寿は恥ずかしそうに少し笑って、佳音の視線に応えると、軽く会釈をしてアパートの暗い階段を降りていった。
和寿の後姿を見送って、もう一度花束に目を落とす。
ライラックにビバーナム、トルコキキョウとスイートピーとバラはいずれも白いものが選ばれて、花束そのものがウェディングドレスのようだった。
そして、その花たちは、先ほど和寿に声をかけられる前に、佳音が食い入るように観察していたものだった。
花束を見つめる佳音の胸が、時計が時を刻むように、ドキドキと微かな鼓動を打ち始めた。
花々のあまりの美しさに、心が震えているのか……。和寿の思いかげない行動に、ただ驚いているのか……。それとも……。
佳音は、作りかけのサーモンのマリネのことは忘れて、キッチンの戸棚を開け花瓶を探し始めた。
この花たちは一日でも長く、できることならずっと枯らしたくなかった。