一緒にみる夢
幸世の明るい笑い声の余韻が残る中で、和寿がぽつりとつぶやいた。
「あの人は、また……、からかったんだな」
多大な緊張が解けるとともに、佳音がため息のような息を漏らすと、和寿もホッとして佳音と目を合わせた。
「さて、僕は夕食の買い物に行くけど。天気もいいから、君も一緒に散歩するかい?」
幸世が来る前、深刻になりつつあった二人の間の空気を蒸し返さないために、和寿は敢えて明るく佳音を誘った。
佳音は小さくうなずいた。気分転換が必要だったし、何よりも和寿と二人で並んで歩くことが、佳音は大好きだった。
お腹に赤ちゃんがいることもあって、和寿はいつも佳音の手をひいて、些細な段差にも気を配り、とても佳音をいたわってくれる。外を歩くと、工房の中で感じるものとはまた違った、和寿の深い優しさが沁みてくる。
秋が深まり、紅葉した街路樹が傾いた日に照らされて、その色をいっそう鮮やかにさせて二人の目に映った。
佳音が一人でこの道を歩いているときには、こんなふうに移りゆく季節を感じることなんてなかった。目に映るものが、こんなにも心に響くものだとは思いもしなかった。
すると、和寿も同じことを思っていたのだろうか。晴れ渡った真っ青な空を見上げながら、つないでいる佳音の手をギュッといっそう力を込めて握り直した。
「よっ!新婚さん。調子はどうだい?」
商店街を歩いていると、いつものように魚屋のおじさんから声をかけられる。
「見ての通り、順調です」
こんなとき、なかなか気の利いた言葉が出てこない佳音の代わりに、和寿がニッコリと微笑みながら、二人がつなぐ手を掲げて見せた。
「これは、これは、当てられちゃって、かなわねーや!」
魚屋のおじさんはそう言って笑いながら、優しい眼差しを佳音に注いでくれる。
「舌平目はありますか?ムニエルを作ろうかと思ってるんですが」
「舌平目は夏の魚だからなぁ。今の時期はないんだよ。ムニエルにするんだったら、普通のヒラメでも美味しいよ?」
そんな会話を交わしながら買い物をする和寿は、もうすっかり馴染んでいるようだ。
「料理上手の亭主を持って、佳音ちゃん、ラッキーだったな!」
おじさんからそう言われて、料理が苦手な佳音には、返す言葉が見つからない。でも、おじさんの言うとおりだった。和寿は本当に料理が上手で、いつも佳音を喜ばそうと工夫してくれた。
それから、二人の足は申し合わせていたわけでもなく、自然と花屋へと向かう。
「佳音。お花屋さんには、こっちを通ると近道だよ」
和寿は、狭い路地の裏道を教えてくれた。まだこの街に来て日も浅いのに、和寿はこの街のことをよく知っているようだ。先日、印鑑を買いに行った時も、文房具屋の場所を教えなくても、和寿はすでに知っていた。
「どうして、こんな道を知ってるの?」
佳音の疑問を聞いて、和寿は恥ずかしそうに告白する。
「まだ、君と親しくなる前は、ストーカーみたいに君を追い求めて、この街を歩き回ってたんだ。歩いてたら、君にバッタリ会えるんじゃないかって。というよりあの頃は、君の近くにいて、同じ空気を感じられるだけで嬉しくてね」
そんな話を聞くと、佳音の胸はキュンと鳴いて、甘く痺れて息が苦しくなる。何気なく感じていた和寿の行動や言葉の陰に、そんな想いが隠されていたなんて、佳音は思いもよらなかった。
花屋に行くと、店主は二人の姿を見て、嬉しそうに微笑んでくれた。この店主は、佳音と和寿が初めて個人的に言葉を交わした場面に居合わせて、その仲を取り持ってくれたような人だった。
工房には、幸世からもらった大きな花束があるので、何も買わずに花屋を後にする。帰りは、川沿いの堤防道をゆっくりと歩いて、家路をたどることにした。
「この街は、本当にいい街だね」
深まった秋の風を感じながら、和寿は佳音に話しかける。佳音は歩きながら、手をつなぐ和寿を見上げた。
「都会の中にあるのに、まだ地域の人々のつながりが残ってて。緑も多くて、窮屈じゃなくて。何よりも君がいるから、僕にとっては特別な街だよ。君とっても、夢を叶えられた特別な街だろう?」
佳音は和寿から見つめられて、ただ黙って頷いた。
この街での生活は、あのアパートの部屋を借りたときから始まった。それから工房を立ち上げて、無我夢中になって働いて、なんとか工房を軌道に乗せた。それはまさしく、ずっと佳音が思い描いていた〝夢〟だった。
「……和寿さんにとっても、夢を叶えられる街になる……?」
佳音は思い切って、和寿の夢のことについて、話題を切り出してみる。すると、和寿は佳音を見つめたまま、穏やかに微笑んだ。
「……僕は〝夢〟と言っても、高みを目指したり、多くを求めたりはしないよ。ここで君と一緒に子どもを育てて、そんな生活をゆっくり味わいながら歳が重ねられたら、それだけで幸せだよ」
和寿のそんな言葉を聞いて、佳音の胸がキュッと絞られた。嬉しいというよりも、言いようのない切なさがこみ上げてくる。
もちろん、そんなふうに和寿と暮らしていけたら、佳音もどんなに幸せなことだろうと思う。
しかし、佳音は和寿と同じように、穏やかな表情はできなかった。
このままでは、真綿のような幸せに包まれていても、硬く凍ったものをずっと抱え続けて生きていかなければならない。
「さっきも幸世さんが言ってた。あなたは夢を叶えるために、会社を辞めたんだって……」
和寿の手を握る佳音の手に、思わず力が入る。
その瞬間に和寿は、弾かれるようにやっと理解した。ずっと気になっていた、佳音の笑顔のかげりの原因を。
「あの人や副社長には、本当のことを言えなかっただけだよ。君を巻き込みたくなかった」
和寿は足を止めて、真面目な顔をして佳音に向き直った。けれども、そんな言い訳のような説明では、佳音の胸のつかえは到底消えてなくならなかった。
「私を庇うためだけじゃないでしょう?和寿さん、前に、私に言ってくれた。『ケーキ職人』になりたいって。頭の中で思い描いてるだけじゃない、本当に叶えたいと思っている夢だから、あの時ケーキを作って告白してくれたんでしょう?」
真剣に訴えかけてくる佳音に対して、和寿も余裕のある表情ができなくなった。心の奥に押し込めて、忘れようとしていたものを、佳音に揺り動かされて、和寿は何も言えなくなる。
そんな和寿を、佳音はしばらくじっと見上げて、その心の中を思いやった。そして、そこにひとつの可能性を見つけ出して、切なそうに唇を震わせた。
「……赤ちゃんができたから?諦めようとしてるの?」
佳音に心の中の真実を突かれて、和寿は黙ったまま苦悩を漂わせた眼差しで、じっと佳音を見つめ返した。そして、唇を噛むと、思い切ったように語り始めた。
「僕が夢を叶えるといっても、これから勉強して修行をして、それで生計を立てられるようになるのは、何年先になるか分からない。その間、ずっと君に苦労をさせる。子どもだって、ちゃんと育てられるか分からない。……でも、今までのキャリアを生かせば。前に、他社からヘッドハンティングの話をもらったことがあるんだ。そのときの仲介の人に頼めば、もしかしたらいい条件の仕事に就けるかもしれない」
和寿の話を聞きながら、佳音は思った。たしかに、子どものためには、“安定”を求めるべきなんだろうと。
だけど、佳音の心には、痛みが走る。その痛みがあまりにも切なくて、涙が滲んでくる。
「これまでと同じように会社に勤めて、同じ生活をするっていうこと?あなたは、また自分を犠牲にして、また寂しい作り笑いをするの?」
佳音が泣きそうな顔をして、震える唇の間から言葉を絞り出すと、和寿は愛おしそうに佳音を見つめて微笑んだ。
「君とお腹の子どものために生きることは、犠牲なんかじゃないよ」
その和寿の微笑みは、作り笑いではなかったが、そんな優しい言葉を聞いても、佳音はいっそう胸が痛くなった。
「でも、あなたの夢はどうなるの?思いのままに、自分の人生を生きたいって決意したから、会社を辞めて、両親と決別してまで、私と生きることを選んでくれたんでしょう?」
堪えきれずに、佳音の目から涙がこぼれ落ちた。
和寿は、こんな佳音を心配させたくなかったからこそ、いつも優しさと笑顔で包んであげようとしていた。しかし、そんな自分の心を押し殺す様子を、繊細な佳音が気づかないわけがない。
和寿はもう、自分自身さえ気づかないふりをしていた本音を、隠しておけなくなる。
「……自分の夢を追って、君と子どもを不幸にするんじゃないかって、思うんだ。僕がやろうとしていることは、見通しが立たないし、リスクもある。採算だって取れるか分からない……」
それは、ビジネスマンだった和寿ならではの考え方だったのだろう。けれども、つぶやくように発せられた和寿の言葉を聞いて、佳音は顔色を変えた。
涙が溢れる目で和寿を見上げ、その強い視線は和寿を貫いた。
「そんなものを怖がっていたら、夢なんか一生叶わない。叶えたいと思ったときに動き出さないと、きっとそれは夢のままで終わってしまう」
力強い佳音の言葉は、雷のように和寿を打ち付けた。たった一人で夢を実現させた佳音の言葉には、まるで魂が宿っているようだった。
和寿が息を呑んで佳音を見つめ返すと、佳音は真剣な目で和寿に訴えかけた。
「夢を追い求めながら、子どもを育てていくのは大変なことだと思うけど。たとえそれが辛いことでも、自分の夢だったことなら喜びに代えられるでしょう?……私は、あなたがこの街で、ケーキ屋さんを開くのを思い描いてる。はじめは小さいお店でも、街の人から愛されてる素敵なお店にするの。そこにいるあなたは忙しそうにしてるけど、心から幸せそうに笑ってるの」
佳音の懸命に語るのを聞きながら、和寿はじっと佳音を見つめ続けた。けれども、そのとき和寿が見ていたのは、脳裏に浮かび上がってきた佳音の語る未来の映像。そこには佳音も、小さな子どももいて、和寿に笑いかけてくれている……。それが現実になれば、どんなに嬉しいことだろう。
「……僕に、できるかな?自信がないよ」
まだこんなことを言って、しり込みしている和寿に、佳音は背中を押すかのように、にっこりと笑ってみせた。
「あなたは一人じゃないから。あなたの夢は、今は私の夢なの。私は、あなたと一緒に必ず夢を叶えるの。一緒にたくさん努力すれば、たとえ贅沢はできなくても、きっと幸せになれる」
そう言って励ましてくれる佳音の言葉に、和寿はじっと耳を澄ませた。
いつもはかなげに、そっと和寿に微笑んでくれていた佳音。いつも和寿は、そんな佳音を守ってあげなければ、と思っていた。その佳音がこんなに強い人だなんて、思いもよらなかった。
尊敬と信頼と、愛しさだけでない感情が和寿の中に溢れてきて、無意識のまま、佳音を両腕で包んで抱きしめた。
「……ありがとう。この夢を思い出させてくれたのも、君だった。君と出会えて、僕はやっと自分の人生を生きていると実感できた。僕は幸せになるために、君と出会ったんだと思う」
和寿に抱きしめられながら、佳音はその言葉を胸に刻み付けた。どんなに愛を囁いてくれるよりも、嬉しい言葉だった。これから和寿のために生きていけることが、何よりも嬉しかった。
「……こんな私に、あなたを幸せにできる力がある?」
和寿の腕の中から、佳音は和寿を見上げて尋ねてみた。和寿は佳音をじっと見下ろして、その頬を伝う涙を親指で拭った。
秋の夕陽を受けて、佳音は輝くように美しかった。和寿は言葉よりも先に、そっと佳音に口づけた。口づけながら、こんな素晴らしい人を伴侶にできた幸せを噛みしめた。
「君の側にいて、こうやって抱きしめていられるだけで、こんなにも幸せなのに……。だけど、これからもっと幸せになろう。一緒に夢を叶えよう」
その言葉に佳音の心は満たされて、ニッコリと花の咲くように笑った。その笑顔は、和寿の心も穏やかに満たしていく。
和寿が手を差し出すと、佳音はそっと自分の手を重ねた。
優しい夕陽がつくる柔らかい空気が川辺の道を包み込み、ススキの穂が光を受けて輝いている。その中を、二人は二人の家へと、ゆっくりと歩いて帰った。
まだ漠然としている二人で見る夢――。
それを語り合って、少しずつ形にしながら……。




