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来訪者


 向けてくれる佳音の笑顔に、ほのかな陰りがある。

 佳音の中に宿ってしまった微かな影に起因する、この微妙な変化に和寿が気づいたのは、一緒に住み始めて1週間が過ぎようとしていた頃だった。

 


「……僕が四六時中一緒にいたら、もしかして居心地悪い?」


 午後からの作業を一休みして、お茶を飲んでいるときに、和寿は思い切ってその気がかりを切り出した。

 思いがけないことを聞かれて、佳音はその問いの意味を聞き返すように、目を丸くして和寿を見つめ返した。


「君はずっと一人でこの工房を切り盛りして、自分のペースでやってきただろう?いきなり僕が居座ってしまって、やりにくいんじゃないかい?」


 和寿の杞憂に、佳音はとっさに首を横に振った。


「私はあなたが側にいてくれるのを、ずっと望んでたのに……、居心地悪いなんて……」


 そんなふうに言っていても、佳音の表情の薄い曇りは晴れず、和寿は釈然としないながらもうなずくしかない。


「……なら、いいんだけど」


 それならば、佳音の抱えているものはなんだろう……。それを考えながら、和寿がテーブルの向かいに座る佳音を見つめていると、佳音は落ち着かなげに、工房のマネキンに着せられたままになっている幸世のウェディングドレスに目を遣った。



「逆に、あなたがいてくれて、怖いくらいに幸せすぎて……。私がこんなに幸せになっちゃ、いけないんじゃないかって思うの」

 


 和寿は、佳音が苦しそうにつぶやいたことに、息を呑んで絶句した。

 独りぼっちで寂しい思いをしてきた佳音を、幸せという真綿で包んであげれば安心してくれると思い込んでいたが、そうではなかったようだ。


 驚いたような顔をしている和寿に、佳音は思い切って問いかけてみる。


「あなたは、今、私といて幸せ?」


 それは、この前は怖くて和寿にできなかった質問だった。


「そりゃ、もちろん幸せだよ」


 しかし、和寿は佳音の思いとは裏腹に、即答した。

 思った通りの和寿の返答だったけれども、佳音はこれを聞いてもっと苦しそうに顔を歪めた。自分の中に渦巻いていたものが抑えられなくなって、口を衝いて出てきてしまう。


「でも、あなたは今まで努力して積み上げてきたものをすべてなくしてしまったでしょう?あなたはご両親のことを何にも言ってくれないけど、ご両親だって、こんなことになってきっとがっかりしてる。……それに」


「……ちょ、ちょっと、待って。佳音」


 堰を切ったようにこんなことを言い始めた佳音をなだめるように、和寿は腰を浮かせて、テーブルの向かいに座る佳音の手を取った。


「あのね、佳音。僕の両親のことだけど」


 和寿はじっと佳音を見つめて、その表情が落ち着くのを待った。



「今回のことで、僕も両親から勘当されたんだ」



 それを聞いて、佳音が息を呑んで和寿を凝視した。


「……勘当された……?!」


「よっぽど僕に社長になってほしかったんだろうね。『失望した』って言われて、話も聞いてくれなかったよ」


 和寿を見つめる佳音の目が、悲しみを帯びる。佳音がその思考の中で、佳音自身を責め始める前に、和寿はそれを遮った。


「でも、誤解しないでほしい。僕の両親が受け入れてくれないことは想定してたし、僕が僕として生きてくためには、僕の方から縁を切るつもりだった」


 そう言う和寿の弁解を聞いても、佳音の心に悲しみが染み込んでくる。自分が決めた人生を、親に認めてもらえない哀しさは、佳音が誰よりも知っている。


 自分が感じていた溢れそうなほどの幸せの陰で、いくつの悲しみがあったのだろう。

  そこに思いが至ると、心が暗く陰ってくる。

 和寿へ何も言葉が返せず、佳音は唇を噛みながら、また工房にある幸世のドレスへと目を遣った。


 そのとき、来客を告げるカノンのオルゴール音が鳴った。

 深刻な事態になりつつあった空気から現実に引き戻されて、佳音は戸惑いながらも息を大きく吐く。それから、涙が滲んだ目を和寿と合わせることなく、テーブルに手をついて立ち上がった。


「いらっしゃいませ」


 そう言いながら玄関へ向かうと、そこには大きな花束を持った女性が立っていた。

 


「こんにちは」



 ニッコリと笑いながら挨拶をしてくれるその女性を見て、佳音は立ちすくんで何も反応できなくなった。

 玄関口で何も物音がせず、佳音も戻ってこない。不審に思った和寿も席を立って、玄関口へ出てくる。


「佳音?どうした?お客さん?」


 言葉をかけながら、佳音の背中越しにその来訪者を確認して、和寿も佳音と同様に硬直した。



「古川くん。やっぱり、ここにいたわね」



 花束を抱えた幸世は、そんな和寿の姿を確認すると、したり顔をして不敵に笑った。



「君こそ、なんでここに?!」



 幸世の余裕に引き替え、和寿の表情はあからさまに険しくなった。



 結婚式もずいぶん前に取りやめになって、幸世がこの工房を訪れる必要なんてないはずだった。もしかしたら幸世は、傷つけられた“仕返し”をしに、ここに来たのかもしれない……。そんな危惧が、和寿の中によぎった。


「あなたが会社を辞めてから、ケータイの番号もアドレスも変えてしまってて、“行方不明”になったって会社内じゃ噂になってるみたいよ。でも、私はここじゃないかってピンときたの。それで、確かめに来たってワケ。……上がらせてもらって、いいかしら?」


 和寿と幸世のやり取りに聞き入っていた佳音は、その幸世の一言に不意を突かれて我に返った。佳音が来客用のスリッパを取り出して並べると、幸世はそれを履いて、かって知ったる工房の中へと、和寿の横をすり抜けて進んでいく。


 工房の中には、幸世が結婚式で着るはずだったウェディングドレスが、マネキンに着せられて置かれていた。

 幸世の理想を具現化したウェディングドレス。それは幸世にとっても、そうとうに思い入れのあったものに違いなかった。


「……僕がここにいるって、どうして君には分かったんだ?」


 懐かしそうにしみじみとドレスを眺めている幸世に、和寿が声をかけた。


「このドレスよ。私がそのドレスを庭で焼いてしまおうとした時、あなたは血相変えて飛んできて、素手で火を消したでしょ?その時に直感したの。あなたは、このドレスを作った森園さんのことが好きなんだって。……ま、ここに来るたび、あなたは森園さんに見とれてたものね」


「ドレスを焼いて……?」


 幸世の話を聞いて、佳音は和寿を振り返って確認したが、和寿は佳音と目が合っても、少し眉を動かして反応しただけだった。

 しかし、どうやら前に和寿から聞いていた話よりも、実際はもっと修羅場だったようだ。


「まさかとは思ったけど、いきなり同棲してるとはね。いつの間に、そんなことになってたのかしら」


 同棲どころか、二人の間にはすでに新しい命が息づき、入籍も済ましている……なんてとても言い出せず、佳音と和寿は神妙な面持ちで黙り込んでしまう。

 そんな二人を見て、幸世は軽く笑いをもらす。


「でも、安心して。森園さんのことは、パパにもママにも言ってないから。二人は、あなたがあの時に説明した通り、『夢』を叶えるために会社を辞めるから、結婚もできなくなったと思ってるわ」


 “夢”という言葉を聞いて、また佳音は和寿の表情を窺ったが、今度は佳音の視線に気づかず、和寿は渋い顔のまま幸世を見据えている。


「森園さんは、こんなに可愛いものね。そりゃ、一度好きになったら、諦めきれないわよね……」


 自分を見つめながら、幸世がしんみりとそう言うのを聞いて、佳音はとてもいたたまれなくなってしまう。


「幸世さん……。私も裏切るようなことをしてしまって、なんて言って、謝ればいいのか……」


 佳音はやっとのことで言葉を絞り出し、スカートを両手で握りしめながら、幸世に頭を下げた。

 すると、幸世は見たくないものでも見たように、すぐに佳音から目を逸らした。


「私に、謝るようなことなのかな?あなたがどんなにこの人のことを好きになっていたか知らないけど、あなたはきちんとドレスを作って私に納めてくれた。私とこの人がちゃんと愛し合っていれば、あなたの気持ちなんて関係なく、なんの波風もなくとっくに結婚式も終わってたでしょうからね」


 幸世が佳音に話をするのを聞いて、和寿がひとつため息をついた。



「君にとって、悪者は僕だよ。君と結婚することは分かってたのに、佳音のことを好きになってしまって……」


 幸世は佳音から和寿へと視線を移して、同じようにため息をついた。


「確かにそれは、不実なことよね。でも、私たちは、お互い好きになって結婚しようとしていたわけじゃないわ。私はね、あなたとならば結婚した後も、今まで通り“遊んで”暮らしていけるって打算したの。だから、結婚を決めた後だって、あなたと夫婦になるために、ちゃんと理解しようともしていなかった」


 却って和寿を弁護するような幸世の物言いを聞いても、佳音は納得するどころか、ますます苦しくなった。幸世に対する罪の意識。ずっとそれを抱え続けて、佳音はもう押しつぶされてしまいそうだった。


「……でも幸世さんは、そのドレスを着て、とても幸せそうに笑ってたでしょう……?」


 あの輝くような幸世の笑顔は、佳音が和寿といて幸せを感じれば感じるほど、大きな影となって佳音を追いかけてきた。


 佳音が泣き出しそうになりながら、そう言ったのを聞いて、幸世はもう一度、自分の理想が具現化したそのドレスを見つめ直した。


「私はね、古川くんのお嫁さんになりたかったわけじゃなくて、ただお姫様になりたかったのよね。自分が思い描いた完璧なお姫様に……」


 そう語りながら、幸世は改まって、きちんと佳音の方へ向き直った。


「森園さん。あなたは、そのお姫様になるためのドレスを、完璧に作り上げてくれた。私の想像以上にね。古川くんのこと好きだったんなら、きっと辛かったと思う。だけどあなたは、こんなに素晴らしいドレスを作れた。職人としては、一流よ。依頼主の婚約者を好きになるなんてことは、もう二度起こりっこないんだから、今回のことを気にすることはないの。もっとどんどん、こんなドレスを作り続けるべきよ」


 幸世の言葉を聞きながら、佳音は堪えきれず涙をこぼした。

 佳音の境遇を理解して、こんなふうに言ってくれる幸世の懐の深さに、佳音の心が震えた。


 涙を拭うばかりで何も言葉を発せられない佳音の代わりに、和寿が幸世に頭を下げた。


「……ありがとう。君にそう言ってもらえると、佳音の心も軽くなって、これからも仕事を続けられるよ。佳音にとって、夢を叶えた大事な仕事だから……」


 まるで佳音と一心同体のような、和寿の言い方を聞いて、幸世はしげしげと和寿を見返した。


  「そりゃ、古川くんから、突然『結婚できない』って言われたあの時は、腹も立ったわ。だから、このドレスだって燃やそうとしたし、涙も出た。だけど、今はこうなって良かったって思ってるの。……私もね、今、好きな人がいるから」


「……えっ?!」


 意外なことを言い出した幸世に驚いて、今度は和寿の方が幸世を見返した。佳音も泣いていた顔を上げて、びっくりしている。そんな様子を見て、幸世は少しきまりが悪くなった。


「……そ、その人とは結婚がダメになった後に、知り合ったのよ?まだ、私の片想いだけど。でも、その人が現れてくれて、本当に人を好きになるってどういうことか分かったの。自分を止められなかった古川くんの気持ちが、よく分かるのよ。やっぱり結婚は、好きな人としたいものね」


 幸世は恥ずかしそうに笑って、それから、ここに来た目的を果たすために佳音と和寿の前に立った。

 

「だから、二人とも私に対して負い目なんて感じなくていいのよ。……だから、こうやって花束持って、二人のことを祝福しに来たってワケ」


 そんな言葉とともに大きな花束を渡されて、佳音は胸がいっぱいになる。


「……ありがとうございます」

 

 花束を抱きしめながら、佳音は唇が震えて、そう応えるのが精一杯だった。

 幸世は、目的を果たせたからだろうか、すっきりとした顔をしている。


「それじゃ、私は帰るわね。長居はしないわ」


「……え?もう?お茶も出してないのに」


 和寿も幸世に対するわだかまりがなくなったからだろうか、すっきりした表情で幸世を引き留めた。


「お茶なんて、いらないわ。私はここでは邪魔者だもの。正直、居心地悪いのよ」

 

「そんな、邪魔者だなんて」

 

 とっさに佳音も、幸世の言ったことを否定して引き留めたが、幸世はそれを笑顔でかわして玄関に向かった。

 

 どんな形であれ、和寿が一度は添い遂げようと思った人……。その幸世とは、もう二度と会うことはないかもしれない……。

 靴を履く幸世に向かって、和寿が背後から投げかける。



「……君は、僕たちを出会わせてくれた恩人だよ」

 


 ピクリと幸世の背中が反応して、和寿の言葉を噛みしめるように、そのままじっと動かなくなった。けれども、幸世はすぐにその呪縛を振り切るように、二人に向き直った。

 


「古川くん。気をつけてあげた方がいいわよ」

 


 いきなり幸世から脈略のないことを言われ、その意味が分からず、和寿が首をひねる。


「……?何を?」


 当然の疑問を聞いて、幸世はまた不敵な笑みを浮かべた。



「森園さんの、首筋。キスマークがついてるわよ」



「えっ……!!?」

 


 和寿が佳音の首筋に目を遣るのと同時に、佳音もそこを両手で押さえた。真っ赤な顔になった二人の視線は、お互いの顔の赤さを確かめ合った後、きまり悪そうに幸世に戻ってきた。



「……ウソよ」


 

 と言うのと同時に、幸世は湧き出してくるものを抑えられず、高らかに笑った。そのまま、朗らかに笑いながら工房の玄関のドアを開けると、輝くように明るい人は「さよなら」も言わずに出て行った。




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