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幸せのなかで

 


 和寿は浅い眠りから覚めて、自分の腕の中にいるはずの佳音がいないことに気がついた。

 でも、昨夜、佳音を抱いたことは夢ではない。目に映っているこの場所は、佳音の工房の一部屋だ。


 昨夜はあれからひとしきり愛し合った後、二人で簡単な夕食を作って食べ、順番に入浴して、再びベッドへと入った。最初は二人ともきちんとパジャマを着ていたのだが、和寿はやはり我慢が出来なくなった。


 身重の佳音を疲れさせてはいけないと、分かってはいたが、腕の中にいる佳音は、本当に可憐で可愛くて……、キスを交わしているうちに、愛情が暴走し始める。


『和寿さん……』


 佳音も甘い吐息とともに、何度もその名を呼んで、繰り返される和寿の愛撫に応えてくれた。



 その余韻の残るベッドを抜け出して、和寿は部屋を出る。佳音を探して、キッチンを覗く。そこに佳音の姿はなく、和寿は、ダイニングから工房の作業場へと目をやった。


 そこに見つけた佳音の姿。

 朝日が射し込む工房の中、まばゆい光に包まれてそこに立つ佳音は、本当に天使のようだった。

 佳音は和寿が起きてきたことに気づくことなく、マネキンに着せたドレスを、じっと見つめ続けている。それは、今佳音が手がけているものではなく、昨日和寿が携えてきた幸世のウェディングドレスだった。



 数ヶ月の月日をかけ、最高級の素材で作り上げられたそのドレスは、かつて佳音自身が言っていたように、本当に“最高傑作”だった。本来ならば、もうとっくに花嫁と共に祝福を受けているべきなのに、結局日の目を見ることなく、ここへと戻ってきてしまっていた。


「おはよう、佳音」

 

 和寿に声をかけられて、佳音は光の中から振り向いた。

 

「……おはよう」

 

 と、挨拶をしながら、少し恥ずかしそうにして微笑む仕草が、なんとも言えず可愛らしい。昨夜あれだけ愛し合ったのに、また和寿はその笑顔に引き寄せられて、佳音を抱きしめてしまう。

 二人の唇が重なって、そのキスが深まってしまう前に、佳音の方があごを引いて、キスを中断した。


「あの……、あなたに抱きしめてもらえたり、キスしてもらえるのは、夢みたいに嬉しいの。……だけど、今日は私、仕事をしなくちゃいけなくって……」


 やっと想いが叶って、これまで思い描くことしかできなかった人に触れられることは、思いもよらないほどの喜びをもたらしてくれるが、いつまでも二人だけの甘い時間に浸ってもいられない。〝生活をしていく〟という現実は、明るい朝とともにやって来てしまった。


 和寿は、申し訳なさそうな顔をしている佳音の顔をじっと見つめた。こんなにも可憐で、守ってあげたくなるような相貌をしているのに、佳音はずっと一人で生きてきただけあって、しっかりとした芯が一本通っていた。

 

 でも、そんなところも、和寿が惹かれたところだ。佳音のその芯の通った強さは、和寿に大切なことを気づかせてくれた。


「うん、分かってる。君の仕事の邪魔はしないし、君がドレスを作ってるところを見るのは久しぶりだから、楽しみだよ」


 和寿がにっこり笑って応えると、佳音も安心したように息を抜いた。


「それじゃ、朝ごはん食べて、工房を開ける準備をしないと」


「僕が朝ごはん作るから、妊婦さんはできるまで、座って待ってて」


 和寿はそう言うと抱擁を解き、軽快にキッチンへと向かった。佳音はキッチンに立つ和寿の姿をじっと目を細めて見つめて、それからダイニングの椅子に座ることなく、また幸世のドレスへと向き直った。


 その佳音の後ろ姿を、和寿はキッチンから見やった。佳音は何も語らないけれども、その心の中に抱えるものを感じ取って、和寿の心にもかすかな憂いが立ち込めてくる。

 

 けれども、和寿がそれを佳音に指摘することはないまま、朝食を済ませ、簡単な掃除をして工房を開け、佳音はドレス作りの作業を始めた。


「あさって、このドレスの依頼主が仮縫いの試着に来るから、急いで仕上げないと」


 佳音は、幸世のドレスと同じ行程を繰り返して、今日もコツコツと作業を積み重ねていた。

 そして、和寿は、幸世のドレスが出来上がっていく過程を眺めていたときと同じく、ダイニングの椅子に座って、佳音がひたすらに手を動かすのを見守った。

 佳音の意識から和寿もいなくなり、時間を忘れて作業に没頭していく。和寿も切ない胸の鼓動を伴いながら、愛しい人が仕事に打ち込む真剣な表情を、時間を忘れて見つめ続けた。



 工房を開けていても、飛び込みのお客さんが来ることはほとんどなく、ただこうやって一日が過ぎていく。

 和寿は午後から小一時間ほど買い物に出かけたが、それ以外はずっと佳音が作業をする様子を、飽きもせず眺めていた。



「……僕も早く、仕事見つけないとな」


 和寿がそう言いだしたのは、二人で夕食を囲んでいる時だった。


「仕事……?」


 和寿が作ってくれた筑前煮を食べていた佳音は、箸を止めて目をあげた。


「そりゃ、こうやって君が食べてくれる食事を作って、君がそこでドレスを作ってるのをずっと眺めていたいけど、そうはしていられないだろう?子どもも生まれるし、君の細腕に子どもと僕とまでぶらさがれないよ」


 確かに、和寿の言うとおりだった。佳音がいくら仕事を増やしても、それをこなせる量には限界がある。子ども一人を育てるのも難しいと思っていたくらいだった。


「仕事って、どんな仕事?どうやって探すの?」


「うん、ハローワークに行くとか、転職サイトに登録するとか、いろいろ方法はあるよ。仕事は、今までのキャリアを活かせたらいいんだけど……」


「キャリア……」


 つぶやいた佳音は、なんとも言えない複雑な顔をした。

 和寿は佳音と生きていくために、今まで積み上げてきたものをすべて捨ててしまった。それだけ、自分のことを愛してくれているからだと分かっているけれども、それを考えるたびに、佳音は身につまされるような思いがした。


「じゃあ、今までと同じような仕事をするの?」


「さあ、そううまい条件の仕事が見つかるとは思えないけど、とにかく働かないと」


 佳音の中にある不安を払拭するように、和寿は笑って見せたが、佳音はその内にあるものを飲み込むように唇を噛んだ。



 ――前に語ってくれた、あの“夢”はどうなったの?



 そんな思いが佳音の中によぎったが、言葉にして投げかけることはできなかった。


「でも、少しばかり蓄えもあるし、もうしばらくはこうやって君の側にいるよ。やっと君と一緒になれたんだ。今はまだ片時も離れていたくないよ」


 そう言いながら、和寿の笑みが優しさを帯びる。それは、ずっと佳音が見たかった和寿の笑顔。

 以前は、和寿の寂しさが漂う作った笑顔を見るたび、佳音の心も苦しくなっていたが、目の前にあるそれは佳音のすべてを包み込んでくれて、佳音の胸にも和寿への愛しさが溢れてくる。


 だからこそ、この笑顔を虚しくしたくない。和寿にも自分といることで、幸せになってほしかった。


 それから、和寿はその言葉に違わず、ずっと佳音の側にいてくれた。

 仮縫いの試着に来た依頼主も、突然現れてお茶を出してくれた和寿に、驚いた顔をする。



「……私の、『夫』なんです」



 恥ずかしそうに佳音が和寿を紹介すると、和寿は、その〝夫〟という響きに、湧き出てくる笑みを噛み殺しながら頭を下げた。



「いつも、『妻』がお世話になっています」



 その響きを聞いて、佳音も胸がキュンとする。自分が誰かの〝妻〟になるなんて、想像したことさえなかった。


 佳音が仕事をしている間も、目が合うたびに和寿は優しく微笑んでくれて、何度も和寿を想って涙を流した分、佳音は言い表せないほどの幸せを感じた。



 夜は佳音の小さなベッドに、二人は体を寄せ合って眠った。

 部屋を暗くして眠りに就くまでの時間、佳音を抱き寄せながら、和寿が言った。


「そのうちに、布団をもう一組買うかな」


 和寿の腕の中から、佳音が頭をもたげる。


「布団を?」


「うん、君のお腹が大きくなれば、君にはゆっくり寝てほしいし。かと言って、ここにもう一つベッドを置くのも無理だろうし」


 和寿にとって佳音のお腹にいる赤ちゃんのことは、想定外のことだったはずなのに、和寿は佳音以上にいろいろと考えて、あれこれ算段を立ててくれる。


「君の中に僕の一部がいて、一つの命になって生まれてくるなんて、本当にすごいことだよ。早く僕たちの子どもに会いたいな」


 こんなふうに喜んでくれることに、佳音の胸はいっぱいになって、和寿を見上げたまま言葉を返せなくなる。

 和寿は目を潤ませる佳音を見て、真顔になった。いとおしむようにそっと佳音の頬を撫でて、薄暗闇の中でしみじみと見つめ続けた。



「……佳音。今、幸せかい?」



 和寿の優しく深い声色。

 その言葉が心に沁みて、佳音は問いかけに答えるどころか、とうとう涙を溢れさせた。何も言葉にならず、和寿の懐にもぐり込んで、ギュッとしがみついた。


 幸世の婚約者だった和寿を、ただただ想い続けていたころ、こうやって抱きしめてほしいとずっと思っていた。

 一人で子どもを産んで育てていこうと決意した後も、こうやって和寿に側にいてほしいと、ただ願い続けていた。



 それが今、現実となって和寿はいつも佳音の側にいてくれて、抱きしめてくれている。これ以上の“幸せ”なんてあるはずがない。

 ずっと求め続けていた〝幸せ〟の中にいるはずなのに、佳音は気づいてしまった。


 幸せという光が明るければ明るいほど、濃く浮き立ってくる影のようなものを。


 和寿は、何も言わず震える佳音を包み込むように、両腕で抱きしめた。



「大丈夫。僕はずっと君の側にいるよ。君とお腹の赤ちゃんは、僕が守るから……」



 佳音を安心させるように、優しく囁いてくれる。けれども、佳音は同じような言葉を返せなかった。



 ――和寿さんは、幸せ?



 きっと和寿は、〝幸せ〟だと答えてくれるだろう。それでも佳音は、自分に向けられたものと同じ問いを、和寿に投げかけることが、どうしてもできなかった。




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