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家族になろう

 

 佳音と和寿は、工房への道をただひたすら黙って歩いた。話したいこと、話すべきことはたくさんあるはずなのに、佳音は何も言葉にならなかった。何から話せばいいのか分からなかった。

 和寿も同じように感じているようで、並んで歩きながら時折目が合っても、少し表情を緩ませるだけで、何も話しかけてきてくれることはなかった。


 並んで歩く二人の姿は、とても奇異ながらとても美しく、とても目立つようで、すれ違う人々が振り返って見ている。そんな視線を感じながら、二人の足は工房へと無意識に急いだ。

 和寿が重いスーツケースを抱え上げてアパートの階段を上がり、佳音が工房の鍵を開けて中へと入ると、二人はひとまずホッと息をついた。



 佳音は手にあるドレスを工房の作業台に置き、花束をダイニングのテーブルに置く。

 和寿は大きなスーツケースを玄関のわきに置くと、久しぶりに訪れたこの工房の空気と光と、そしてそこに佳音がいることを、深く息を吸って感じ取る。

 そして、その息を吐きだすのも待たず、和寿は速足でダイニングへと向かい、花束を眺めていた佳音をいきなり抱きすくめた。

 

 強く強く、言葉にならない想いをすべて込めて、ただ佳音を抱きしめる。佳音が腕の中にいることを確かめるように、和寿は腕に力を込め、頬を佳音の髪に擦り付けて、ひたすら佳音を抱きしめ続けた。



 佳音は、和寿の腕の中にいる感覚を、目を閉じて噛み締めた。きつくきつく抱きしめられても、また目を開けてしまえば、和寿は消えていなくなってしまいそうだった。

 


「……佳音」

 


 和寿の口からやっと出てきた言葉は、佳音の名前。

 こんなふうに和寿が自分の名を呼んでくれるなんて、もう二度とあり得ないと思っていた。

 

「君をもう一度、こうやって抱きしめることだけ、ずっと考えてた」

 

 目を閉じた暗闇の中で、和寿の声が佳音の奥深くにまで響き渡って、佳音も想いが抑えられなくなってくる。抱えていた想いがあまりにも大きすぎて、表現できずただ涙だけが溢れてきた。

 


「……それがやっと、現実になった……」

 


 和寿のその言葉に、佳音はうっすらと目を開けた。

 


「……現実?」

 


 佳音がつぶやくと、和寿は腕の力を緩めて、涙がこぼれる佳音の顔を覗き込んだ。

 佳音がまぶたを開いても、和寿は消えていなくなったりはしなかった。そこには、切ない目で優しく微笑む和寿の顔があった。



「言っただろう?ここに戻ってくるって……。君がいなければ、僕はもう生きていけないんだから」



 和寿がいなければ生きていけないと思ったのは、佳音の方だった。さっきまでは、あれだけ一人で生きて行こうと思っていたのに、目の前にいる和寿を失っては、もう呼吸さえもできなくなってしまいそうだった。


 敢えて人との関わりを避け、ずっと独りで生き続けてきた佳音。そんな佳音の奥底にいつもあって、ずっと封印していた本当の気持ちが、涙とともに溢れ出てくる。

 今こそ、誰かのためではなく自分のために、大事なものが通り過ぎていく前に勇気を出す時だと思った。

 

 佳音は腕を伸ばして和寿の首に絡ませ、ギュッと和寿を抱きしめた。もう、今度こそ、和寿を失いたくなかった。



「……もう……、独りぼっちはイヤ……!」



 涙声で絞り出されたこの一言に、込められた佳音の想い。それが胸に深く響いて、和寿の心も切なく震えた。独りぼっちで健気に生きてきた佳音が、愛おしくてたまらなかった。佳音の想いに応えるように、和寿も佳音を抱きしめる腕に力を込めた。

 


「君をもう決して一人にはしないよ。僕はどこにも行かない。ずっと君の側にいて、君を守るから。一緒に生きていこう。……二人で幸せになろう」


 

 耳元で囁かれる和寿の誓いのような言葉を、佳音は目を閉じて胸の奥深くにしまい込む。

 それから和寿の首に回していた腕をほどき、大切なことを告げるために、和寿を見上げてその目に視線を合わせた。

 


「……二人じゃないの。ここに……、もう一人いるから……」


 

 和寿はすぐには意味が分からずに、佳音の目を見つめ返した。そして、佳音の手が『ここ』だと指し示す場所を確かめて、息を止めた。



「……そこに?……僕の、子ども?」

 


 黙ったまま佳音がうなずくと、和寿は喜ぶよりも先に、切なそうに顔を歪ませて取り乱した。


「どうして、知らせてくれなかった?僕は君に連絡先を教えられないままだったけど、何か手段を使って……。このことを知ってたら、会社のことなんて放り出して、すぐに君のもとへ戻って来たのに」


 両肩を掴まれて、和寿から訴えかけられて、佳音は涙を呑み込むように唇を噛んでから、口を開いた。


「あの日……、あんなふうにあなたと別れてしまってから、あなたは姿を見せてくれなくなって……。もう私のことなんて、忘れるつもりなんだって思ってたの……」


 会えなかった時間、和寿は佳音との未来を心に描いて無我夢中の毎日を送っていたけれども、佳音はその未来も想像できず、どれだけ心細かったことだろう。


「……僕から何も連絡しなかったのは、悪かったと思ってるよ。でも、中途半端な状態のままだと、また君を迷わせて苦しめてしまうと思ったんだ……」


「私も、あなたを苦しめたくなかったの。あなたは、もうとっくに幸世さんと結婚していると思ってたから……。この子のことを知らせて、あなたを困らせたくなかったの……」


 その言葉を聞きながら、佳音をじっと見つめる和寿の唇が震え、目には涙が滲んでくる。



「……一人で、産んで育てていくつもりだったのか……?」



 佳音も大きな目に涙を溜めながら、かすかにうなずいた。それを見た和寿はギュッと目をつむって、佳音を懐の奥深くに閉じ込めるように、再び力を込めて抱きしめた。


 苦しいほどに抱きしめられながら、佳音は和寿が震えているのを感じた。言葉にならない和寿の想いが伝わってきて、佳音もそっと和寿の背中に腕を回して抱きしめた。



 それから、どのくらいの時間が経ったのだろう……。

 ようやく和寿が腕の力を緩めて、佳音の顔を覗き込んだとき、佳音はとても幸せそうに微笑んだ。それは以前、和寿が望んだ笑顔。まるで天使のように純粋で可憐な笑顔だった。



 その笑顔を見て、和寿は確信する。自分が佳音を愛しているように、佳音も愛してくれていると。その確信に後押しされて、和寿は言わねばならない一番大事なことを告げる決心をし、佳音にきちんと向き合った。


「佳音……」


 名前を呼ばれて、佳音はもっと嬉しそうに和寿を見上げた。



「結婚しよう。今日、今すぐにでも、家族になろう」



 そう言うや否や、和寿は佳音の返事さえも待たずに、その手を取って動き出した。

 さっき脱いだばかりの靴をまた履くと、工房の鍵をかけ、アパートの階段を佳音の手を曳いて駆け降りる。


「……どこに行くの?」


 佳音は和寿の行動の訳が分からず、足早に先を急ぐ和寿の後ろ姿に問いかける。


「区役所だ。婚姻届けを出すんだよ」


「……えっ!?婚姻届け?今日?!」


 驚きのあまり、佳音もひっくり返った声を出す。すると、和寿は逸る気持ちを抑えることなく、佳音に振り返った。



「そう、今日!君を一刻も早く、僕のものにする!」



 その和寿の晴れやかな笑顔。自分を縛り付けていたものから解き放たれて、やっと自由になれたように輝いていた。


 佳音も同じように、自分の前に拓けている未来に心が逸った。今まで感じたことのない幸せを噛みしめて、それが逃げていかないように和寿の手をギュッと握り返した。





 その日は、それからが忙しかった。

 区役所へ婚姻届けの用紙を取りに行き、魚屋の夫婦に保証人になってもらうべく魚屋へと向かった。


「今日、いきなり婚姻届かい?」


 と、目を丸くしている魚屋のおじさんを尻目に、そこで婚姻届けを書かせてもらう。すると、和寿も佳音も印鑑を持っていないことに気づき、和寿は商店街にある文房具屋まで走った。戻ってきた和寿の息が整うのも待たずに、慌ただしく判を押すと魚屋を出て、また区役所まで行き、ようやく届けを出せた。



「これで、願いがひとつ叶ったよ。ずっと見つめるだけだった君が、僕の奥さんなんて、夢みたいだ」


 役所を出てから、満ち足りたように和寿が微笑んだ。その和寿に手を曳かれて、佳音はなんだか雲の上を歩いているような感覚だった。それほど、今自分の身に起こっていることは現実感がなく、和寿の言ったように、都合のいい夢を見ているのではないかとさえ思った。



 夕暮れの街、仕事帰りの人々が多く行き交い始めた中を、二人は手をつないだまま、言葉少なにゆっくりと歩いた。今日というこの特別な日に、起こったことのすべてを噛みしめるように。


 そして、工房へたどり着く。この日から、佳音のちっぽけな工房が二人の家となった。

 靴を脱ぎ、暗い工房の明かりを灯そうとしていた佳音に、



「……佳音」



 和寿が声をかけた。

 その声色の深さに、電灯のスイッチに伸びていた佳音の腕の動きが止まった。振り返ると、窓から入ってくる夕映えの薄明りの中で、佳音を見つめる和寿の姿が浮かんでいた。



「……愛しているよ」



 目の前にいる和寿から発せられるその言葉の響きは、佳音の体を芯から震えさせた。和寿に会えなかった時間、佳音が一人で生きていくために、何度も記憶の中から取り出して、反芻していた言葉だった。


 和寿にそっと抱き寄せられながら、また佳音は涙を溢れさせた。

 でも、この特別な日に、佳音もきちんと伝えておきたかった。もう会うこともないだろうと思い、いつも心に描いていた和寿に、自分が語りかけていた言葉を。



「私も……、あなたを愛しています。この世の何よりも……。私の命よりも……」



 なにも臆することなく、愛しい人にその想いが伝えられることの幸せを、このとき佳音は初めて知った。


 和寿はその佳音の心からの言葉を、じっと佳音の目を見つめながら聞いて、そっと唇を重ねてそれに応えた。


 何度キスを重ねても、次々と溢れてくる想いは、とてもそれだけでは表現しきれなくて、和寿は自分が抑えられなくなり佳音を抱き上げた。



「これは『過ち』なんかじゃないよ。僕たちは夫婦なんだから」



 佳音をベッドへと連れて行き、そこに体を横たえさせると、和寿はそう囁いた。


「……赤ちゃんがいるから、優しくね……」


 キスを交わしながら、佳音はそう断って釘を刺したが、その囁きは和寿の肌を粟立たせ、逆にいっそう理性を危うくする。


「分かってるよ……」


 和寿はほのかに笑うと、唇を佳音の首筋へと滑らせていく。それから、和寿はその言葉の通り、優しく優しく佳音を愛した。





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