強くなりたい
工房に戻ってきて、暗いダイニングに明かりを灯す。佳音は真っ先に手を洗うと、工房の作業台に真っ白な布地を広げてホッと息をついた。
それから、佳音は夕食を食べるのも忘れて、無心になってドレス作りに没頭した。この数日間、全く作業が手に付かなかったことが嘘のように、佳音の手は次から次へとよく動いた。
自分にはこれしかないと、佳音は思った。
自分が存在できる意味はこの仕事で、ここが自分の幸せになれる場所なのだと思った。
「一緒に、幸せになろうね……」
佳音は、自分のお腹に向かって囁きかけた。
この子を育てていくのは、一人きりだけど、この子が生まれてくれれば二人で生きていける。
誰よりも愛しい和寿の分身が、いつも側にいてくれる……。
そう思うと、佳音はもう何も怖いものはなかった。この子のためにも、もっと頑張ろうと思えた。
「これ……、いつもおすそ分けをいただいているお礼です。奥さんにでも使ってもらえたら……」
しばらく経ったある日、商店街に買い物に出かけた佳音が、そう言いながら魚屋のおじさんに小さな紙袋を差し出した。
「……え?!」
思いがけないことに、おじさんも目を丸くして佳音を見つめ返した。
おじさんが渡された紙袋の中を覗くと、白い生地にレースが施された、まるでウェディングドレスのような小さなポーチが入っていた。
「余った材料で作ったものなんですけど、おじさんの使えそうなものは、思い浮かばなくって……」
恥ずかしそうに説明する佳音を見つめて、おじさんの顔がニッコリと笑みを帯びる。
「そりゃあ、俺がレースのついたポーチなんて使ってたら、気持ち悪いわな。おーい!母さん、来てごらん。佳音ちゃんからのプレゼントだ」
おじさんはそう言って笑いながら、店の奥にいた奥さんに声をかけた。
「あらまあ!これを私に?さすがに職人さんだから、こんなものを作るのも上手なのねぇ!」
奥さんもポーチを手に取って、嬉しそうにしてくれる。
「お前にこんな可愛いポーチなんて、まるで『豚に真珠』だけどな」
「なんですって?!私が豚なら、あんたはトドじゃないの!」
おじさんの突っ込みに、奥さんも楽しく反応した。佳音もその明るさにつられて、笑いをもらす。
「そうだ。お礼と言っちゃなんだけど。お茶、飲んでいって。ウェディングドレスのデザイナーって、どんなことしてるのか聞いてみたかったのよー」
と、奥さんからいきなりの誘いを受けて、佳音は固まってしまった。こんな時、動揺するあまり、いつもの佳音なら断ってしまっていた。
しかし、ここで逃げてしまっては、なんのためにポーチを作って渡したのか分からなくなる。
「それじゃ、お言葉に甘えて。ちょっとだけ……」
佳音は、肩をすくめながらほのかに笑って、そう答えた。すると、魚屋のおじさんも奥さんも、もっと大きな笑みでもって佳音を迎え入れてくれる。
これは、誓いを立てた〝強くなる〟ための第一歩だった。
――強くなりたい……。
お腹の赤ちゃんのために、ただそれだけを思い続けた佳音は、もう自分を憐れんで一人で泣くこともなくなった。
でも、強くなることは、泣かないことでも、意地を張って頑なに生きることでもなくて……。もっとしなやかに、心を開く勇気が持てるように、強くなりたいと佳音は思った。
花屋の店主や八百屋のおばさんにも同じように、技能を生かして、ささやかな物を作って贈った。会うたびに彼女たちから気にかけてもらっていたことは、佳音も気づいていたが、感謝の気持ちを伝えることさえしていなかった。
これからは、できることから少しずつ、返していけたらと思っていた。
佳音は、産科の病院できちんと検診を受けることも欠かさなかった。
いずれお腹が大きくなって、妊娠していることは隠しておけなくなる。そう考えた佳音は、工房にもほど近い、便利な場所にある病院へと通うようになった。
その何度目かの定期検診の時のこと、産婦人科の病院で、佳音は花屋の店主にバッタリと出会ってしまった。
「あら、佳音ちゃん。どこか調子がわるいの?」
店主は気さくに声をかけてきてくれたが、いきなりすべてを打ち明けてしまうのはためらわれて、佳音は逆に聞き返す。
「お花屋さんこそ、どうなさったんですか?」
「私はね、更年期障害なのよ。たまにここへ来て、ホルモンの注射を打ってもらうの」
佳音はそれを聞いてうなずいた後、今度は自分の事情を説明する必要に駆られた。
花屋の店主に話してしまうと、すぐに商店街の人々にも知られてしまうだろう。でも、妊娠していることは、遅かれ早かれ気づかれてしまうことだ。
佳音は覚悟を決めて、切り出した。
「私は、妊娠しているので、検診に来てるんです」
「……え?妊娠って……?」
未婚であるはずの佳音が妊娠していることは、やはり不自然なことだった。戸惑う店主の表情を見てしまうと、どう説明するべきか、佳音も言いよどんでしまう。
「番号札50番の方、中の長椅子にかけてお待ちください」
その時、看護師の声が響き渡る。50番は佳音の番号だった。
「すみません。呼ばれたので、今日はこれで……」
佳音はそう言い残して店主に一礼すると、中待合へと向かった。
ドキドキと心臓が不穏に鼓動を打っている。
でも、これは病院を変えた時から、想定していたことだ。この妊娠のことを勘ぐられるたびに怯えていては、ここで生活していくことはできない。
それに、なにも花屋の店主から執拗に詮索されていたわけでもなかった。
――大丈夫。怖くない……。
佳音は自分に言い聞かせた。ここから逃げて、今までと同じことを繰り返してはいけない。
それから、検診を受けて、赤ちゃんが順調だということを確認した後、待合室に戻ってくると、もう花屋の店主の姿はなかった。
詳しい説明ができないままだったが、この妊娠のことをどう解釈したのだろう……。
佳音は深く息を吸い込んで、気を取り直した。
負い目を感じることは、このお腹の子のことを否定していることだと思った。どんなふうに思われようとも、毅然としていようと心に決めた。
こんな些細な出来事を除けば、佳音の生活は、極めて平穏なものだった。あまり“つわり”の症状も出でおらず、お腹の中に赤ちゃんがいることも忘れてしまうほど。
毎日、真っ白な布地に向き合い、コツコツと作業を積み重ねて、少しずつドレスを作り上げる。
作業に没頭して、時間を忘れてしまうこともしばしばだったが、佳音は工房に籠もりきりになることをしなくなった。
以前は、この自分で作った居心地の良い“檻”の中に閉じこもって、外に出るのが嫌だった。必要以上に、人と関わるのが嫌だった。
でも、それはただの我が儘だったと、今は分かる。お腹の子に、同じようになってほしくはない。そのためには、そんな環境の中で子どもを育てるわけにはいかない。
季節が移ろって、秋の色が濃くなっていく。
澄み渡った高い空の下で、外の空気を吸う。色づき始めた木々を見上げながら、ゆっくり散歩する。いろんな刺激を受け止めることで、お腹の子にもそれが伝わっているように感じた。
花屋の店主は、佳音の“妊娠”のことを噂話のネタにはしていないのか、商店街に買い物に出かけても、そのことを指摘されることはなかった。ホッとしている気持ちもあったが、いつまでも隠しておけることでもなく、もどかしい気持ちもある。
そんな感覚を抱えながら、本屋へ定期購読の雑誌を取りに行った帰り、商店街を歩いている時のことだった。
「あら、佳音ちゃん」
また偶然に、花屋の店主に出会ってしまった。実はあれから、花屋からは無意識に足が遠のいていた。
「綺麗な花束ですね」
挨拶よりも先に、思わず佳音がそう言ってしまったように、久々に対面した店主の手には、可愛らしい花束が携えられている。
「そうでしょう?魚屋さんの奥さんから頼まれて、今から届けに行くところ。なんでも、お友達が演奏会に出るんですって」
その花束は、演奏会で贈るものというよりも、小ぶりで丸く、結婚式で花嫁さんが持つような可愛らしいブーケだった。
「そうなんですか……」
けれども、佳音はそれを話題にすることなく、ただ相槌を打つだけだった。人付き合いの苦手な佳音は、こんな時に適当な言葉で会話をつなぐことができない。魚屋へ行く方向と、工房へ帰る方向は同じなので、なんとなく気まずい感じで並んで歩くしかない。
すると、店主の方から話題を振ってくれる。
「この頃、お店の方へ顔を見せてくれなかったけど、体調でも悪かったの?」
佳音は小さく息を呑んで、購入してきた雑誌を、胸に抱えて握りしめた。店主は暗に、〝妊娠〟のことについても気遣ってくれているようだ。
「体調は、変わりありません。ただ……、お店にはなんとなく行きにくくて……」
当たり障りのない理由を考えるべきだったのかもしれないが、佳音はありのままを答えることしかできなかった。
店主は佳音の返答の意味を探るように、佳音へと視線を向けた。
「……佳音ちゃんが話したくないこと、根掘り葉掘り聞いたりしないわよ?」
心の中を読まれたような気がして、佳音は返す言葉が見つけられず、申し訳ないような表情を浮かべる。
すると、店主はフッと笑って息を抜いた。
「佳音ちゃんは、いつもお店に来てくれる大切なお客さんだもの。なにも気にしないで、また顔を見せてね」
佳音は自分の唇と一緒に、この言葉を噛みしめた。花を見るばかりで、ろくに買い物もしない自分を、こんなふうに言ってくれることが、とてもありがたかった。
「そういえば、佳音ちゃんからもらったポーチね。うちの中学生の娘が使ってるのよ。『かわいいから頂戴』ってね」
それを聞いて、佳音はうれしくなって、パッと花が咲いたように笑った。店主も思わず、その可憐な笑顔に見とれてしまう。
「それじゃ、また今度はお花屋さんの分を作って差し上げます」
「あら?ホント?なんだか、催促したみたいで悪かったわね〜。でも、うれしい」
そうやって和やかな空気になって、会話ができるようになった頃、魚屋へと到着した。
特に買い物もない佳音は、魚屋のおじさんに挨拶だけして帰ろうとした時、
「あっ、佳音ちゃん。そうだった!」
と、おじさんから呼び止められた。
「おい!母さん。この前の雑誌、どこにやった?」
おじさんは、花屋の店主から花を受け取っていた奥さんに向かって、そう投げかける。すると、奥さんも頷いてから店の奥にそれを取りに行った。
「この前、古新聞をまとめてたらね。ずいぶん前のだけど、この雑誌を見つけてね。駅とかで配ってるフリーペーパーらしいけど、それに載ってたのよ。この人!」
奥さんはページをめくって、目的の記事を見つけて佳音に差し出してくれる。佳音と一緒に、花屋の店主もそれを覗き込んだ。
「あっ!この人。佳音ちゃんの彼氏!」
佳音が息を呑むのと同時に、花屋の店主も声をあげていた。
それは毎号連載されている企画らしく、近隣の有名企業の有望な若手社員をピックアップして、紹介している記事だった。見開きのページには、和寿がニッコリと微笑んだり、真剣に語ったりしているところのスナップが、何枚か載せられていた。
そのスナップを見て、佳音の胸がキュウっと締め付けられて苦しくなる。
和寿に会わなくなってまだ三ヶ月しか経っていないのに、もう何年も会っていないような気がした。こんなにも愛している人なのに、佳音は彼の写真さえ持っていなかった。
愛しさと切なさと苦しさと……。それらがぐちゃぐちゃになって込み上げてきて、佳音は泣き出しそうになる。けれども、歯を食いしばって、必死で平静を装おうとした。
「俺が見つけたんだぜ?佳音ちゃんが知らなかったら、この雑誌あげようと思ってよ。でも、驚いたなぁ!佳音ちゃんの彼氏が、こんな大企業のエリートさんなんてよ!」
魚屋のおじさんが、得意満面の笑みでそう言ってくれる。
「まあ、素敵!未来の旦那様が、こんなすごい人なんて!」
佳音の妊娠のことを知っている花屋の店主は、当然佳音は和寿と結婚すると思っているのだろう。本当に嬉しそうに笑顔を輝かせた。
しかし、佳音は同じような笑顔にはなれなかった。この親切な人たちの誤解を、これ以上聞いていられなかった。
「違うんです……!その人は、彼氏なんかじゃないんです!」
佳音は何度も首を左右に振りながら、いつもに増して大きな声で断言した。
魚屋の夫婦も花屋の店主も驚いたように、激しい言動をした佳音をじっと見つめた。
「え……?じゃあ、別れちまったのかい?」
おじさんが心配そうに、顔色を曇らせる。それを聞いて、花屋の店主はもっと険しい顔つきになった。
「別れるとか、そういうこと以前に、付き合ったりもしていません」
佳音は何とか誤解を解こうと、訴えるように言いながら、首を振り続けた。
そんな佳音を見て、花屋の店主が思わず声を上げる。
「……それじゃあ、そのお腹の赤ちゃんは、誰の子なの……?」
「……赤ちゃん……?」
その事実を初めて知る魚屋の夫婦は、目を丸くして言葉を潰えさせた。
三人からの視線を受けて、佳音は何も言葉が出てこなくなる。言葉の代わりに封印していた涙が、意識もせずにこぼれ落ちていた。
「……ごめんなさい。赤ちゃんのこと、言っちゃいけなかったわよね?」
商店街の人々にとっては、初めて見る佳音の涙だった。その涙を見て、花屋の店主がとっさに謝った。
佳音は反射的にまた首を横に振ったが、溢れてくる涙をどうにも止められず、うつむいて両手で顔を覆った。
そんな佳音を見て、魚屋のおじさんはおろおろとうろたえてしまって、何も言葉がかけられない。
「大丈夫。言いたくないことは言わなくていいから。ちょっと落ち着くまで奥で休んで行って」
魚屋の奥さんが、佳音の肩を抱いて、店の奥へといざなってくれる。優しくされただけで佳音の心は震えて、もっと溢れてくる涙を、佳音は壁際の椅子に座って拭い続けた。その様子を、三人はじっと黙って見守ってくれていた。
「……お腹の赤ちゃんは、その人……古川さんの子です」
しばらくしてようやく涙の止まった佳音は、顔を上げて語り始めた。
「でも……、古川さんは私の彼氏でもなんでもなくて、今頃は……会社の副社長さんの娘さんと結婚しているはずです。私は、その娘さんが結婚式で着るドレスを作っていました」
その事実を聞いて、三人は唖然とした。そして、魚屋のおじさんは徐々に顔を赤くして、怒りを充満させた。
「なんだと……!それじゃ、自分は順当な人生を確保してる一方で、佳音ちゃんに手を出して弄んだってことだな!?こんな誠実そうなツラをして、とんでもねえ奴だ!!」
おじさんは、佳音の身になって言ってくれてるのだろうが、和寿のことをそんなふうに罵倒されて、佳音の心に鋭い痛みが走った。
「古川さんは、そんな人じゃありません。……私が古川さんのことを好きになったんです。古川さんも私のことを想ってくれてました。古川さんは婚約者を裏切り、私は仕事を裏切っている、許されないことをしているとは分かってました。だから、一度きりでいいって、そう思って、私から望んだことなんです」
必死で和寿を弁護する佳音を心配そうに見つめて、花屋の店主も口を開く。
「でも、赤ちゃんができてしまうと、そうは言ってられないでしょう?……その古川さんには、知らせてるの?」
佳音はその問いにも、静かに首を横に振った。
「彼はもう、関わり合いを持つことのない人ですから、知らせてません。一度は中絶することも考えました。……だけど、せっかく授かった命を消してしまうことはできませんでした」
佳音が切々と語ることに、三人もじっと耳を傾けた。
「だけど、子どもを一人で育てていくのは大変よ?その人と結婚はできないにしても、きちんと知らせて認知だけはしてもらった方がいいと思う」
花屋の店主が真剣な目をして、身を乗り出してそう諭してくれる。
「そうだ!男だったら、きちんと責任は取らなきゃいかん!何なら俺がこれから、この古川とかいう男のところへ行って、話をつけてきてやる!!」
魚屋のおじさんはそう言うや否や、テーブルを叩いて立ち上がった。佳音は顔をこわばらせて、おじさんを見上げる。おじさんがこのまま和寿の会社に怒鳴り込んでしまうと、大変なことになって和寿を困らせてしまう。すると、奥さんが血相を変えてそれを止めてくれた。
「何言ってるの!あんたが出て行ったら、話がいっそうややこしくなって、佳音ちゃんをもっと困らせることになるでしょうが!!」
いきり立っていたおじさんが辛うじて思いとどまってくれて、佳音は内心ホッとしながらおじさんに向き直った。
「ありがとうございます。そんなふうに私のことを庇ってくれて、本当に嬉しいです……」
丁寧に頭を下げる佳音に、おじさんはやるせなさそうに言葉を絞り出した。
「……でも、佳音ちゃん。本当にそれでいいのかよ……」
佳音は顔を上げて、おじさんと目を合わせる。
「古川さんは、ゆくゆくは社長になる予定だって聞いています。地道に努力を続けてきたからこそ拓けた未来なんです。だから、彼が迷わずにその未来で生きていけるように……。私とこのお腹の子は、彼の中で存在してはいけないんです」
振り向いてもらいたい、自分だけを見て、いつもに側にいて愛してもらいたい。古庄に恋い焦がれていた高校生の頃、佳音はそれだけを求めていた。
でも、和寿に出会えて恋をして、佳音は本当に人を愛することを知った。今はただ、和寿に幸せになってもらいたい――。それだけを願っていた。
佳音は目には涙を溜めながらも、あんなに悩んでいたのが嘘のように晴れやかな顔をした。その顔を見て、おじさんはもう何も言えず、佳音と同じようにその目に涙を滲ませていた。
「……その、古川さんって人のことが、本当に好きなのね……」
しみじみと奥さんからそう言われて、佳音は潤んだ目を細め、かすかに笑みを浮かべながらうなずいた。
「大丈夫。佳音ちゃんがその覚悟なら、私たちは協力するだけね。困ったことがあったら、何でも言って。たくさん、おせっかい、焼かせてもらうから」
ニッコリと笑いかけてくれる奥さんの言葉が、佳音に深く染み入ってくる。
「ありがとうございます……」
佳音はもう一度頭を下げながら、心の中でつぶやいた。
――私はこの街で生きていける……。
この親切な人たちに、初めて心を開けたことが嬉しかった。佳音はまた少しだけ、自分が強くなれたような気がした。




