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消えない誓い

 


 朝になると、古庄家には再び弾けんばかりの賑やかさが戻ってくる。


「佳音ねえちゃん!起きてーー!!」


 御座敷にお客さん用の布団で寝かせてもらった佳音は、子どもたち三人から少し手荒く起こされた。

 昨夜は、いろんなことを考えてしまって、なかなか寝付けなかった佳音は、あまり眠れていなかった。寝ぼけまなこで佳音が、子どもたちに連れられてダイニングに向かうと、同じく眠そうな古庄が円香を抱いて椅子に座っていた。この世のものとは思えないほどの古庄も、この家の中では極めて普通の父親だった。


「おはよう」


 優しく穏やかに声をかけてくれる古庄の微笑みが、朝のまぶしい光とともに包み込んでくれる。ここでは佳音は、さしずめ一番大きな子どもといったところだった。


「おはようございます」


 佳音のあいさつに、朝食の準備をしていた真琴が、キッチンから顔を出した。


「おはよう。さあ、朝ごはん食べましょうか」


 それから、昨晩と同じように賑やかな食卓。食べながら、家族それぞれの今日の予定を確認し合う。


「俺は、ラグビー部の引率で今日も仕事だ。花園予選前の練習試合があって遠出するよ。夕方には帰ってくると思うけど」


「俺と彦真は、お昼過ぎからラグビーの練習に行くよ。お昼までは、適当に遊ぶ!」


「私は、家の事もあるし、午前中はお家でゆっくりしましょうね」


「佳音ねえちゃんは、どうするの?」


 真和から尋ねられて、佳音は食べるのをやめて箸を置く。


「私は……、仕事もあるし、もう帰ります」


 この家を離れて、また一人きりになるのは怖い気もしたが、いつまでもここにいて迷惑をかけるわけにもいかなかった。


「ええーー!?お昼までは、家にいてよ!」


「そうだよ。お昼まで一緒に遊ぼうよ!」


 男の子たちの引き留めに、佳音は躊躇してしまう。このままこの家の居心地の良さに浸ってしまうと、本当に帰れなくなってしまいそうだった。


「おねえちゃん、『おうちごっこ』しよ。琴ちゃん、オモチャかしてあげる」


 昨晩、一緒に夕食の配膳の手伝いをしたこともあり、佳音は琴香に懐かれているらしい。小さく可愛らしい琴香からお願いされると、佳音も思わず頷いてしまう。


「仕事の方は大丈夫なの?子どもたちはこう言ってるけど、無理しないでね」


 真琴が心配して覗き込んでくるので、佳音は肩をすくめた。


「夕方までに帰り着ければ、構いません」


 それを聞いて、真琴は安心したように笑いかけてくれた。


「それじゃ、真和と彦真のラグビーの練習に行く前に、駅まで送っていってあげるわね」


 それから、古庄は準備をして、佳音とろくに会話もできないまま慌ただしく家を出る。


 子どもたちは佳音を交えて、“お家ごっこ”を始めた。この“お家”は特殊な家らしく、家族全員で料理を作る。真和は画用紙にクレヨンやハサミを持ち出してきて、凝った工作をしていた。

 佳音はもっぱら、食べる係。子どもたちが代わる代わる持って来てくれる料理を、何度も食べるフリをして付き合った。


 子どもたちが良い子にして遊んでくれている間、真琴は円香に授乳をしたり、洗濯物を干したり、掃除をしたり、忙しそうに動き回っていた。


「佳音ちゃん、子どもたちの面倒を見てくれて、ありがとう。お茶を淹れたから、こっちへ来て」


 子どもたちが遊びに夢中になっているのを見計らって、真琴が佳音に声をかけた。

 大きな木の木陰、芝生の庭に面したウッドデッキにあるテーブルには、ティーカップが二つとクッキーの載ったお皿が置かれていた。


「いつもはいろんなことに追われて、こんなふうにお茶を飲むことなんてないんだけど、今は円香も寝てるし、ちょっと女同士で楽しみましょ」


 と言いながら、真琴はもうすでに紅茶を一口飲み込んで、ホッと息を抜いている。爽やかな風が吹きわたるウッドデッキに、佳音も出てきて、そこにある椅子に腰かけた。


 すると、佳音がいなくなったことに気がついて、琴香が追いかけて来る。琴香の手には、陶器製の可愛らしいフォトスタンドが握られていた。


「この人、おねえちゃん?」


 そこに入れられている写真は、古庄と真琴の結婚式の時のもの。佳音の工房に飾られている写真と同じもので、二人の間で高校生の佳音が恥ずかしそうに肩をすくめている。


 フォトスタンドをテーブルの上に置きなおして、真琴が答える。


「この写真のおねえちゃんは、佳音ちゃんよ。お母さんが着てるこのドレスは、佳音ちゃんが作ってくれたのよ」


「ええー!すごぉい!!琴ちゃんのも作ってほしい!!」


「うん。琴ちゃんがお嫁さんになるときは、作ってあげる。とってもかわいいドレスを」


 佳音がそう言ってあげると、琴香は満足そうにニッコリと笑顔を見せて、テーブルの上にあるクッキーをひとつ取った。


「この写真を飾ってたんですか?」


 佳音は目を上げて、真琴に確認した。結婚式のときの写真は、古庄と真琴だけの、もっときちんとしたものもあるはずだ。

 佳音から指摘されて、真琴は琴香が家の中へと戻るのを見届けながら微笑んだ。


「結婚式が挙げられたことよりも……、このとき、佳音ちゃんが中心となってこのドレスを作ってくれたって知って、本当に嬉しかったの。古庄先生のことをあんなに好きだったのに、こうやって祝福してくれて……。だから、この写真。」


 この写真を見ていると、佳音もこの当時のことを思い出す。祝福するという余裕のある感覚よりも、ただ古庄と真琴に喜んでほしい、その一心だった。


「この時お腹の中にいた真和が、よく動いていたことを今でもはっきりと思い出せる。それほど、私にとっては忘れられない大事な瞬間だったの」

 

 しみじみと真琴が語るのを聞いて、佳音もその見慣れた写真を、じっと見つめる。


 このドレスは、佳音の原点だった。

 このときのこの経験があったからこそ、今の自分がある。……そして、何よりも大切な和寿に出会えることもできた。

 今、お腹の中にいる和寿の子どもが、生まれ出でて真和と同じくらいになったころには自分も、この真琴のように心穏やかに毎日を過ごせているだろうか……。

 

 そんなことを考えていると、また佳音の表情は言いようのない不安に侵されて、暗く陰っていく。

 


「……まだ、なにか……、打ち明けられない心配事があるんじゃないの?」

 


 真琴からそう切り出されて、佳音はうろたえたように真琴に視線を合わせた。

 四人の母であり教師でもある真琴は、人を観察してその心を思いやることに、とても細やかだった。

 

「……私に助けてあげられるかどうかは分からないけど、打ち明けてくれなきゃ、何もしてあげられない。このままの状態のあなたを、一人で帰らせるわけにはいかない」


 そう言って促されながら、真琴の真剣な目に見つめられて……、佳音の中に隠していた不安が膨れ上がって、涙とともに溢れてきて抑えられなくなる。

  唇を噛んで言いよどんでいた佳音は、やがて唇を震わせながら、その一言を絞り出した。

 


「……お腹の中に、赤ちゃんがいるんです……」



 その事実を知って、真琴は目を見開いて佳音をさらに凝視し、佳音がここへ来た本当の理由はこれだったのだと覚った。


「昨日言ってた、好きな人との子どもなのね?」


「古庄先生には、言わないでください……!」


 問いに答えることよりも、とっさに釘を刺してきた佳音に、真琴は表情を険しくさせる。


「佳音ちゃんがこのことを、古庄先生には知られたくないのは分からないでもないけど。これから赤ちゃんだって産まれてくる。いつまでも隠しておけないわ。古庄先生だって、きっと一緒に考えてくれる」


「それじゃ、まだ今は言わないで。古庄先生が知ってしまうと、前にお父さんを探して話を着けてくれたみたいに、あの人のところへ行ってしまうかもしれない。あの人のことを、困らせたくないの!」


 佳音が必死な形相で懇願するのを聞いて、真琴は佳音を見つめたまま考えた。

 中絶するつもりなら、ここでこうやってこの事実を告白などしないだろう。それだったら……。



「……一人で産んで、育てるつもりなの?」



 真琴から確認されて、佳音は自分の前に待ち構えている苦難に目がくらみそうになる。だけど、この子を守るのは自分しかいない。

 黙ったまま決意のにじむ面持ちで、ゆっくりと頷く佳音を見て、真琴は再び考えた。


「相手の人が知らないままで、それでいいの?」


 自分の血を分けた存在がこの世にいるのに、それを知らないなんて。それはそれでとても悲しいことだと、真琴は思った。

 しかし、真琴にそう言われても、佳音は首をゆるく左右に振った。


「あの人に、知らせようとは思いました。先生たちのように、二人でこの子を育てていけたらとも思います。……だけど、あの人は、会社にとって必要な人なんです。私のことはもう忘れて、今の婚約者と結婚する決意をしているのなら、この子のことでまた迷わせてしまいます。それに、この子を口実に繋ぎ止めるようなこともしたくないんです」


 和寿が『必ず戻ってくる』という、昨晩古庄が言ってくれた言葉。それは一筋の光のように感じられたけれど、そんななんの確証もない古庄の言葉を単純に信じ込めるほど、佳音は子どもではなかった。


 どう助言をして、どうしてあげることが一番佳音のためになるのか考えたが、真琴には明確な答えが出せなかった。佳音の境遇を考えると、本当に辛くて切なくて、助言の代わりに涙が出てきた。


「……ごめんなさいね、情けない先生で……。私が泣いても、なんの解決にもならないのに……」


 そう言いながら、真琴はポロポロと涙をこぼして泣き続けた。


 自分のことを親身になって心配してくれて、こうやって泣いてくれる真琴。そんな真琴に自分の気持ちを語ることで、佳音は心の整理ができたような気がした。真琴の涙が心に沁みて、ようやく大切なことに気がついた。


 なんの解決もしなくていい。どんなふうに悩んでも、結論は変わらない。答えは初めから、佳音の中にあった。


 泣きながら、真琴は佳音に伝えたいことを見つけたのだろうか。涙を拭って、佳音に向き直った。


「でもね、これだけは言える。せっかく佳音ちゃんを選んで宿ってくれた命だから、なにがあってもその命を一番に考えなきゃね。辛いことがあっても、きっとその子の存在に救われる。必ず産んで良かったって、思うから」


 佳音は、またゆっくりと頷いた。真琴の言葉が心に響いて、覚悟を決める。その眼差しを見て、真琴も佳音の変化を感じとった。


「でも、一人で育てていくのは、佳音ちゃんや私が想像している以上に、大変なんだと思う。だから、もし、その子のことを、……どうしても育てられないと思ったときは、なにも考えなくていいから、私に知らせてね」


 テーブルの上に置かれた佳音の手の上に、自分の手を重ねて、念を押すように真琴は言葉を尽くした。


「うちの四人の子どもが五人に増えてもかまわないし、安心して産んでいいのよ?佳音ちゃんの赤ちゃんだから、きっとすごく可愛いわね。生まれるの、とても楽しみよ」


 知らないうちに、佳音の瞳からまた涙がこぼれ落ちていた。お腹の子が生まれてくることを、こんなに祝福してくれるとは思わなかったから。胸がいっぱいになって、何も応えられなかった。

 

 かつて恋い焦がれていた古庄が愛した人は、本当に澄んでいて、その清らかさは佳音の心に溜まっていた不安の澱をきれいに洗い流してくれた。


 

「お母さん、お腹すいたー!」


 そのとき、次男の彦馬がウッドデッキにやってきた。


「え?もう?それじゃ、少し早いけど、お昼ご飯にしましょうか」


 まだ残る涙をごまかしながら、真琴が立ち上がる拍子に、彦馬はそこにあったクッキーをひとつ口に放り込んだ。どちらかというと顔は真琴に似ている彦馬の、そんな何気ない仕草の中に、古庄が潜んでいる。


 佳音のお腹の中にいるこの子も、こんなふうに和寿の一部を受け継いでいるのだろうか?そして、その中に佳音の要素もあって、どんなふうに溶け合っているのだろう……。


 佳音はこの時初めて、このお腹の子に早く会いたいと思った。本当に愛おしく感じて、生まれてきてくれることを待ち遠しく思えた。




 午後になって、佳音は真琴に駅まで送ってもらった。


「バイバーイ!佳音ねえちゃん、バイバーイ!!」

 

「佳音ねえちゃん、また来てね――!!」

 

 古庄家の子どもたちの賑やかな見送りの声が、いつまでも駅の構内に響いている。

 佳音は恥ずかしそうに肩をすくめてから手を振って、電車に乗った。

 

 自分の抱える悩みごとが、すべてなくなったわけではなかったけれど、佳音は一日前とはまるで違う気持ちで電車に揺られていた。

 目に映る景色が流れていくのをただ眺めていると、心が穏やかになって透き通っていくようだった。

 

 田園風景から家が建て込む風景へと移り変わって、街が近づいてくる。佳音が住む日常が戻ってきて、また一人だけの生活が始まる。佳音は先ほど固めた覚悟を思い出して、必死で自分を奮い立たせようとした。


 するとそのとき、佳音の携帯電話が光り、メールを受信したことを知らせた。開いてみると、古庄からのメッセージ。

 今朝、佳音とゆっくり話ができなかったことが、心残りだったのだろうか。こうやって古庄からメールを受け取るのは、初めてのことだった。


 その文面を読んで、佳音は思わず唇を噛んだ。

 古庄がまるでそこにいて、そう言ってくれているようだった。


『また死んでしまいたいと思ったり、逃げ場がほしい時には、いつでも俺の家へ来ればいい。なにかあったときには、いつでもお前のところへ駆け付けるから。

 お前が真琴のために作ってくれたウェディングドレス、本当にうれしかった。お前には、そうやって人の心を幸せにする力があるんだ。それを忘れちゃいけないし、誇りにするべきだ。

 だから、お前も幸せになることをためらってはいけないよ。お前は不幸なんかじゃなくて、幸せになるのが下手なだけだ。勇気を出して、心を開いてみてごらん。まだ何も終わっていない。これから始まるんだから』


 古庄が懸命に訴えようとしてくれていることが、心に深く伝わってきて、体が震えた。

 夕方の混み合った電車の中、溢れてくる涙を、他の乗客に気づかれないように、佳音はうつむいて何度も拭った。


 古庄家に飾られていた、古庄と真琴と三人で撮った写真。本当の家族のように迎えてくれる古庄家の人々。あの温かさは、佳音の心を芯から癒してくれた。


 でも、自分の居場所はあそこではない。

 自分はまた別の場所で、別の幸せを見つけなければならない。

 

 佳音は、涙が残る顔を上げた。

 ビルが立ち並ぶ見慣れた景色の向こうに、今まさに日が沈んでいこうとしているところで、佳音の顔は、窓越しのまぶしい夕日に照らされた。


 ――……強くならなきゃ、本当の幸せになるために。この子のすべてを守ってあげられるように、もっと強く……!



 涙でにじむ夕日を見つめながら、佳音は決して消えない誓いを立てた。

 佳音の頬を伝う一筋の涙が、夕日を受けてキラリと光る。佳音はそれを手の甲で拭って、沈んでいく夕日を見つめ続けた。




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