家族の一員
「佳音ちゃん、お客さんに申し訳ないんだけど、手伝ってくれる?」
キッチンにいる真琴から声を掛けられて、佳音はそこへ向かう。
「ほら、お前たちもお手伝いだ。真和はお風呂掃除だろ?」
リビングから響いてくる古庄の声を聞きながら、真琴に指示されて手を動かし始めると、佳音はもう古庄家の家族の一員になった。
古庄は仕事をして帰ってきているのに疲れなど見せず、子どもたちの面倒をよく見てくれている。
賑やかな中にも子どもたちはよく躾けられていて、それぞれが自分のできることを見つけては手伝っている。琴香も佳音と一緒に、おぼつかない手つきで配膳を手伝った。
そして、みんなで手を合わせて食事が始まる。すると、赤ちゃん用の椅子に座らされていた円香が、またぐずり始めた。
「あらあら、あなたもお腹がすいたのね?」
と、真琴は目の前にある温かい食事を放置して、円香を抱き上げてリビングへ向かい、ソファに座ると授乳を始めた。
真琴が洋服をめくりあげて、乳房を見せる様子に、佳音は少しギョッとする。けれども、古庄も子どもたちも、それを見ても気にすることはなく、夕食を楽しそうに食べている。
「佳音ねえちゃん、どうしたの?食べなよ」
真琴から目を離せない佳音に、真和が声をかけた。佳音の視線を感じた真琴も、恥ずかしそうに笑いかける。
「いきなりこんなところ見せられて、ビックリしちゃった?四人目ともなれば感覚が鈍ってしまって、ごめんなさいね」
「家族だったら、気にすることはないさ。俺も、真琴のオッパイ見てもドキドキしなくなった」
大口で夕食を食べながら、古庄があっけらかんと言ってのける。すると、途端に真琴の顔が真っ赤になった。
「もう!子どもたちの前で、やめてください!」
真琴から諌められても、古庄は悪びれずにニヤリと笑い、佳音へ目配せした。相変わらずの二人のやり取りに、佳音もほのかに笑って古庄に応えた。
「さあ、森園も食べないと。冷めたら美味しくなくなる」
古庄から促されて、佳音も箸を手に取った。
食卓を囲む賑やかで暖かい空気。古庄と真琴が九年の年月をかけて作り出した日常は、特別なものではなかったが、佳音が経験したことのないものだった。
食事が終わると、間髪いれずに古庄が上の二人の男の子を、順番に風呂に入れる。それから、遅れて食事をした真琴が、下の女の子二人と一緒に風呂に入る。
古庄は、まるで阿吽の呼吸のように動いて、次々と風呂から出てくる娘たちの湯上がりの世話を、甲斐甲斐しく行った。
「先生は、赤ちゃんの扱いに慣れてるんですね」
バスタオルの上に寝かされている裸の円香をあやしながら、オムツを着け、肌着を着せている古庄に向かって、佳音が思わず声をかけた。
古庄は、円香に向けていた優しい笑みのままで、佳音へと顔を上げる。
「もう、四人目だからな。それに、こうやって世話をしてかかわってないと、父親って赤ん坊にはすぐ忘れられてしまうんだ。修学旅行なんかで家を空けると、帰って来たときには『誰?』って顔をされる」
一度見たら忘れられないほどの古庄の魅力も、赤ちゃん相手には通用しないらしい。佳音が納得したように頷いていると、洗面所の方から兄弟の声が響いてきた。
「あっ!ちゃんと磨いてないのに、もうプクプクペッした!」
「上の歯も下の歯も磨いたよ!兄ちゃんは、いちいちうるさいよ!」
それを聞いて、古庄も困ったように眉を寄せる。
「真和は、顔は俺に似てるけど、中身は真琴にそっくりで、細かいことでもきっちりやらないと気が済まないんだ」
古庄はやれやれといった面持ちで、その場を立ち洗面所へと向かう。その時、その足を止めて、佳音へと振り向いた。
「そうだ森園、その子のパジャマ、着せてあげててくれ」
そう頼まれて、佳音は止まってしまった。赤ちゃんと二人きりにされて、いきなり焦りと緊張が押し寄せてくる。
しかし、円香は佳音を見て、手足を活発に動かしながら、嬉しそうにニッコリと笑った。女の子ながら、父親似のその笑顔に促されるように、佳音はそっと手を伸ばす。
恐る恐る円香の腕を持って、先ほどの古庄がやっていたことを思い出しながら、パジャマの袖に腕に通した。
赤ちゃんの体は、柔らかくて、小さくて……、つぶらな瞳は本当に無垢で……、その守ってあげなければならない存在に、佳音の心が無条件に震えた。
佳音のお腹の中にいる子どもも、この次の春には生まれる予定だ。きっと来年の今ごろは、この円香と同じくらいになっているはずだ。
『父親って赤ん坊にはすぐ忘れられてしまうんだ』
先ほどの古庄の言葉が、佳音の心によぎった。
佳音の子どもは、父親を忘れるどころか、初めから父親の存在を知ることもない。父親の愛を受けられないどころか、家庭という安らかで温かい場所さえも持てないかもしれない。
目の前にいる幸せな円香を見つめながら、佳音の思いはお腹の中の子どものことでいっぱいになり、その不憫さに、目には思わず涙が浮かんだ。
「佳音ちゃん、円香を見ててくれて、ありがとう。お風呂、一番最後になっちゃったけど、入って」
そのとき、真琴から声を掛けられて、佳音はハッと我に返る。目を瞬かせて、必死で涙を隠す佳音を、真琴はじっと見つめた。
「私のパジャマ、置いてあるから。下着は旅行用の使い捨てのものだけど、よかったら使ってね」
しかし、真琴は、普通ではない佳音の様子をあえて指摘することなく、そう言って佳音を促した。佳音は頷いてもう一度円香へと視線を落とすと、その頬をそっと撫でてから立ち上がった。
子どもたちを寝かしつけた後、リビングに戻ってきた古庄が、キッチンの後片付けをしていた真琴に声をかけた。
「さっき、君の胸を見てもドキドキしないって言ったけど……」
と、言いかけたところで、真琴がそれを遮るように、言葉を被せる。
「そりゃ、四人もの赤ちゃんにお乳を上げて……、今の円香の授乳が終わったら、きっと見るも無残なペチャンコになります」
佳音がお風呂に入っていることもあって、真琴は何も心を隠すことなく、皮肉を込めて自虐的なことを言った。振り向いてくれないところを見ると、古庄の想定通り、真琴は少しヘソを曲げているらしい。
「調子に乗ってあんなこと言ってしまったけど、そういう意味じゃないんだ」
「……だったら、どういう意味なんですか」
言い訳がましいことを言ってくる古庄に対して、真琴は手を動かしながら呆れたように切り返した。そんな真琴の背中に向かって、古庄は投げかける。
「胸なんか関係なく、君を見てるだけで、俺はドキドキするんだ」
真琴の手の動きが、一瞬ピクリと止まった。
「……また、そんなことを言って、からかってるんでしょう?」
「からかってなんかないよ。君が俺に振り向いてニッコリ笑ってくれたら、今でも俺の心臓は止まりそうになる」
一生懸命になって語る古庄が、嘘を言っていないことは、真琴にも分かっている。真琴も意地を張るのはやめて、濡れている手を拭くと、古庄に向かって振り向き、ニッコリと笑った。
「ほら、今みたいに。俺の胸を触って確かめてごらん。本当にドキドキしてるよ」
古庄が真琴を抱き寄せて、そう言って促すと、真琴はそっとその胸に手を当てた。
胸の鼓動を感じ取って優しく微笑むと、古庄の腕はそのまま真琴を懐深くに閉じ込める。
……いつもなら、これからキスを交わすところだったのかもしれないが、その時を見計らったかのように、リビングの端にあるベビーベッドに寝かされていた円香が、突然泣き始めた。
円香のけたたましい泣き声に驚いて、二人の抱擁が解かれる。
リビングの端にたたずんでいた佳音は、それと同時に、二人に発見されてしまった。お風呂から出てリビングに戻ってきたところで、二人の甘いシーンに出くわして、声をかけるにかけられなかったのだ。
決まりの悪い二人は、佳音に気の利いた言葉をかけることができず、真琴は泣いている円香のもとへ、古庄はキッチンのしていた片付け物の続きをし始めた。
「ん?オムツかな?……濡れてないね。それじゃ……」
真琴が円香を抱き上げると、円香は泣くのをピタッとやめた。可愛らしい目から落ちた涙の粒がまだ頬についているのに、ケロッとした顔をしている。
「すごい。泣きやんだ」
佳音が目を丸くして、その不思議を指摘した。すると、真琴は柔らかく笑う。
「目が覚めたのに、誰もいなくて寂しかったのよね。でも、赤ちゃんだけじゃなくて、それは誰でも同じよ。寂しさだけは、自分一人の力でどうにもできないもの」
自分の心を見透かされたような言葉に、佳音の胸がキュッときしんで、とても切なくなる。
できることなら赤ちゃんのように、すぐに助けてくれる人の存在を信じて、泣き出してしまいたいと思う。
「さあ、子どもたちも寝てくれたから、大人はゆっくりとお茶でも飲みましょうか。ちょっとこの子、抱いててくれる?」
そう言いながら真琴は、円香を古庄にではなく、佳音に預けた。
おっかなびっくり円香を抱く佳音に、古庄も声をかける。
「もう、かなりしっかりしてるから、大丈夫。お尻の下と背中を支えて」
古庄のアドバイスを受けて、佳音は円香を抱き直し、ダイニングテーブルの古庄の向かいに、そっと腰を下ろした。
「そういえば、和彦さん、これ……」
お茶を淹れ始める前に、真琴がテーブルの上にペーパーバッグを置いた。何が入っているのかと、古庄が中を覗いてつぶやいた。
「……君は森園がいるのに、案外、大胆な意思表示をするんだな……」
「は……?」
お茶を淹れようとしていた真琴が、訝しそうに振り返ると、古庄はそれをおもむろに、ペーパーバッグから取り出した。出てきたのは、10本組になった栄養ドリンク。
「俺に、こんなものを飲ませて……。もう一人、子作りに励もうってことなんだろ?」
「な……!」
真顔でそう言う古庄に対して、真琴は真っ赤になって言葉を逸した。円香を抱いたまま、どう反応していいのか分からない佳音の様子を窺って、真琴は古庄の誤解を解くのに躍起になった。
「なに、訳の分からないこと言ってるんですか?それは、和彦さんが帰ってくる前に、ラグビー部の狩野先生が持ってきてくれたんです!!たくさんもらったから、おすそ分けだって。」
「え?狩野くんが?一緒に子作りに励もうって、ことかな?」
「だからなんで、栄養ドリンクで『子作り』になるんですか?」
「だって、元気ムンムンになって、『ヤル気』になるだろう?」
それを聞いて、顔から蒸気が上がらんばかりに、真琴はますます赤くなった。
「……もう!あなたには付き合いきれません!ヤル気にならなくていいので、これは飲まないでください!!」
真琴は半分怒ったように、古庄の目の前にあった栄養ドリンクを片付けた。そんな真琴を見ても、古庄はケロっとして、いつもの〝天然〟が全開だ。
「大丈夫。そんなもの飲まなくたって、いつでも俺はヤル気だし、もう一人作る準備はできてるから」
色気を帯びて、余裕のある笑みを見せる古庄に、佳音も思わずドキリとする。そんな佳音の表情を敏感に察知した真琴は、焦りで自分が制御できなくなる。
「佳音ちゃんがいるのに、そういう話題で私をからかうのはやめてください!それに、もう一人なんて、絶対に無理です!!」
本気で怒り始めた真琴に対して、古庄は夕食のときと同じように、肩をすくめて佳音に目配せした。
この夫婦の相変わらずのやり取りはとても面白くて、佳音もこの一瞬は自分の中の苦しさを忘れて、自然と笑顔になる。
古庄は、お茶を淹れている真琴を愛おしそうな眼差しで見やってから、
「もう一人だけじゃない。俺はまだ、二人でも三人でもほしいくらいだ」
その真琴には聞こえないように、佳音に囁きかけた。
佳音もさすがに驚いたように、丸くした目を合わせる。
「真琴の状況を考えると、難しいのは分かってるけど。愛する人との間に子どもが生まれるほどこそ、素晴らしいことはないからね」
それを聞いて、佳音の息が止まった。先ほどの真琴の言葉と同様に、まるで佳音のことを見透かしているかのような言葉……。
佳音は、自分のお腹の中で息づく赤ちゃんの存在を感じながら、今腕の中にいる古庄と真琴の末娘をじっと見つめた。
「森園も含めて、普段接している生徒はもちろん可愛いけど、自分の子どもはやっぱり特別なんだ。一つの人格の中に、俺と真琴がいろんなかたちで共存している。だから、可愛いというより、すごく不思議でかけがえがない。こんな『宝物』、もっとほしいと思って当然だろう?」
古庄の語る言葉が、何の疑問もなく佳音の中にすっと入り込んでくる。
――そう、『宝物』。和寿さんと私の命が溶け合った……。
そう思った瞬間、佳音の心の堰が一気に崩壊した。赤ちゃんを抱いたまま、突然ポタポタと大粒の涙をこぼし始めた。




