救いを求めて
それから佳音は、トボトボと歩いて駅へと向かった。これ以上、街をさまよい歩いてもどうにもならない。とりあえず、“自分の場所”へと戻る必要があった。
和寿のいる会社になど、行ってはならなかった。
あの一緒に過ごした夜の翌る朝、佳音は和寿を傷つけるようなことを言ってまで決別した。あの日から佳音と和寿は、別々の目的地へ向かって、それぞれの道を歩き始めている。
あの日以来、和寿が一切工房に姿を見せなくなったのも、彼の中で佳音のことは過去のこととして処理され、きちんと“けじめ”をつけているからに他ならない。
あんな大きな会社の社長になる人の、人生の邪魔になってはいけない……。
電車を待つ駅のホームの端に立ちすくんで、佳音は改めてそう思った。それは分かっていたはずなのに、馬鹿なことをしてしまった。
深い後悔と、報われない和寿への想いと、父親の愛を得られないお腹の子の境遇と……。
それらが佳音の中に繰り返し絶え間なく浮かんできて、涙が止めどもなく流れては落ちた。
哀しみとも苦しみとも説明のつかない感覚が充満して、もう窒息してしまいそうだ。こんな感覚に苛まれながら生きていかねばならないなんて、佳音には耐えられないと思った。
――……いっそのこと、この子と一緒に消えてしまえたら、どんなに楽になるだろう……。
この世に産んであげられないのなら、一緒に死んであげればいい――。
所詮、自分だって、この世にいなくてもいいような存在なのだから……。
次に来るのは、快速電車。それがこの駅を高速で通過するときに、一歩だけ踏み出せば、それで全てを終えることができる。
そう考えて心を決めると、佳音の感覚が何も無くなった。ホームに吹き通る風も、電車の音もにおいも、さっきまで佳音を苦しめていた哀しみも寂しさも、……すべてがなくなった。
消えてしまえることが、こんなにも心安いことだとは、佳音は思いもしなかった。
電車がホームを通過するベルが鳴る。佳音は、その一歩を踏み出そうとした。
「そんなに前に行くと、危ないわよ!」
鬼気迫る声とともに、佳音は突然、腕を引っ張られた。
ハッとして、その行為の主を振り返ると、初老の女性がしっかりと佳音の腕を掴んでいる。
その瞬間、快速電車は一陣の風とともに駆け抜けていった。
ホッと息をつくのもつかの間、青ざめた佳音の顔を見て、その女性も尋常でないことを覚る。
「大丈夫?気分でも悪いの?」
問いかけられて、佳音は我に返った。この目に映っていることは現実で、自分はまだ生きてこの世にいるらしい。
気分がいいはずもないが、今の佳音は、ただ単に気分が悪いと形容できるような状態でもなかった。それでも、首を横に振り、頭を下げる。
「いえ、大丈夫です。少しぼんやりしてました。ありがとうございました」
きちんと受け答えをした佳音に、初老の女性も安心したらしく、薄く笑ってその場を離れて行く。その後ろ姿を見送って、佳音は自分がしようとしていたことを改めて省みる。
今度はそんな自分が情けなくなって、涙がこぼれた。
『弟が死んで…人が死ぬことの意味を、お前は誰よりも知っているはずだ』
佳音の頭の中に、優しい響きを伴ってその言葉が浮かび上がってくる。それはかつて高校生だったころ、恋い慕っていた古庄が語ってくれた言葉だった。
古庄の言うとおり、佳音は何度も、弟が死んでしまったこと、そして残された自分が生きている意味を考えた。
佳音と同じく、兄を亡くす経験をした和寿も、きっと同じように考えたに違いない。その和寿が、佳音が“自殺”をした知らせを聞いたら、どう思うだろう。
『お前が死ねば、……他の誰かの心にずっと消えない後悔を残すんだ』
また古庄の声が、佳音の頭の中で響き渡った。
今、自分が自殺なんてしてしまったら、きっと和寿は一生自分を責めて、心を病ませてしまうだろう。
和寿を苦しめるわけにはいかない。だけど、自分を圧迫して息もできなくなりそうなこの不安と苦しみを、どうすればいいのか分からない。
ただ、今分かっていることは、一人でいてはいけないということだ。一人でいたら、また衝動的に自分の命を絶とうとするかもしれない。
何も感じなくなった先ほどの感覚……。苦しさに負けて、またあの感覚に陥ってしまいそうだった。
『本当に死のうと思う人間は、寂しさだって感じない』
それも、古庄の言葉だ。あの感覚こそ、「本当に死のうと思う人間」の感覚なのかもしれない。
佳音は、鳴り響くベルとともにホームに入ってきた電車のドアが開くと、人々の流れに導かれるように、それに乗った。行先は自分の工房ではない。救いを求めて、きっとそれが得られる、たった一つの場所へと向かった。
工房がある最寄りの駅に到着しても、佳音は電車を降りなかった。各駅停車の電車でゆっくりと時間をかけて、そこを目指す。終点で降りて、バスに乗り、そして歩く。目的地の一戸建ての家にたどり着いたのは、もう夕暮れ時だった。
何の連絡も入れずに突然来てしまって、きっと困惑されるに違いない。そう思うと、ためらいで意志が鈍り、なかなか玄関のインターホンを押すことができなかった。
「もしかして、佳音ねえちゃん?」
背後から声を掛けられて、反射的に佳音は振り返った。そこに立っていたのは、目を見張るほど目鼻立ちの整った男の子。ドッジボールを抱えて、今まさに遊びから帰ってきたところのようだ。
「真和くん?」
佳音の記憶の中にある彼は、もっと幼い男の子だったのに、もうほのかに少年の雰囲気を醸し出していた。
「そんなところで何してるの?入りなよ」
真和は佳音の横をすり抜けて、家の中へと入っていく。靴を脱いで、きちんとそれを揃え、洗面所へと向かう。
「お母さーん!佳音ねえちゃんが来たよー。…あっ!佳音ねえちゃんも、帰ったら手を洗わなきゃ!!」
奥のリビングに向かって声を張り上げる真和に促されて、佳音は挨拶をするより先に洗面所で手を洗った。
「なあに?真和、誰が来たって言ったの?」
と、そこへやって来たのは、懐かしい顔。
「あら!もしかして佳音ちゃん!?」
佳音の姿を見て、驚いて目を丸くする真琴の腕の中には、まだ生まれたばかりの赤ちゃんが抱かれていた。
「お久しぶりです。お邪魔してます」
手を拭きながら、佳音は頭を下げる。
「まあ、ホントに久しぶりね!二年ぶりくらい?」
嬉しそうに笑顔を輝かせてくれる真琴に会って、佳音は自分の心がホッと解けていくのが分かった。
真琴は、九年前、高校生だった佳音が作ったウェディングドレスを着て結婚式を挙げた、古庄の妻だ。
「はい。私が工房を開いてお祝いに来てくれたとき以来ですから、二年ちょっとです」
「わぁ、元気だった?工房は?順調なの?」
真琴からの矢継ぎ早の質問に、佳音は一度に答えきれずに肩をすくめて、とりあえず頷く。
「先生は、赤ちゃん、また産まれたんですね?」
腕の中にいる赤ちゃんを見て、佳音が表情を和ませると、真琴はリビングに戻りながら恥ずかしそうに笑った。
「そうなの。『また』ね、今年の春に産まれたの。これでもう四人目よ」
真琴の言葉が示す通り、リビングには赤ちゃんを除いて三人の子どもが所狭しと遊び回っていた。佳音が高校生のとき真琴のお腹の中にいた真和は、もう八歳になる。その真和を筆頭に、六歳の彦真、三歳の琴香、そして一番下の赤ちゃんの円香と二男二女をもうけて、古庄家は大所帯となっていた。
「先生って、会う度にいつも赤ちゃんを抱いてる感じがする……」
佳音のツッコミのようなつぶやきに、真琴の笑いに苦味が混ざる。
「ほんとに、その通り。立て続けに産んだから、この九年間は産休と育休ばかりで、まともに働けてないもの」
そうは言っていても、それをまったく気に病んでいないのは、真琴の子どもたちを見つめる優しい表情を見れば分かる。
四人の子どもの世話に追われていても、真琴は生活に疲れている感じは片鱗もなく、佳音の工房に飾られている写真の時と同じに、今も若々しく可愛らしかった。
「お茶でもしたいところだけど、もう夕ご飯だから、佳音ちゃんも食べていって。古庄先生ももうすぐ帰って来ると思うわ」
「自分も『古庄先生』なのに、お父さんのこと『古庄先生』なんて、おっかしーの!」
リビングで弟と追いかけっこをしていた真和が、佳音と真琴の会話を聞いて口を挟んでくる。
「私が生徒だったときは、お父さんが『古庄先生』でお母さんは『賀川先生』だったのよ。だから、おかしくないのよ?」
佳音が説明してあげると、真和は目からウロコが落ちたみたいに納得した。
「そっか、お母さんは、賀川のお祖父ちゃんやお祖母ちゃんと同じで、昔は『賀川先生』って言ってたんだ!」
と言っていたところに、ヤンチャな弟の彦真が突っ込んでくる。
「兄ちゃん、タックルだー!!」
思いっきりぶつかられて、真和はそのままひっくり返った。それを見て、血相を変えたのは真琴だ。
「何をやってるの?!構えてない相手に、タックルしちゃダメって、いつもお父さんが言ってるでしょ?」
「えー?でも、いつも兄ちゃんだってやってるよ?」
「このやろ!やったな?」
真琴の心配はよそに、真和は起き上がって弟に向かっていく。その時、三歳の妹琴香が並べていたママごとセットが蹴散らされる。
「もお!!お兄ちゃんたちが、メチャクチャにしたーー!!」
その鳴き声を聞いて、今度は赤ちゃんの円香までも泣き始めるた。
てんやわんやしながら、真琴は佳音に声をかける。
「……佳音ちゃん。ちょっと落ち着かないとは思うけど、どうぞ座って」
そうは言われても、佳音は、普段接することのない賑やかさに戸惑ってしまい、とてもソファに座っていられるような状況ではない。
そこへ玄関のドアが閉まる音が聞こえて、
「ただいま〜」
と、救いの神の声が響いた。
「あっ!お父さんが帰ってきた!」
「お父さん、おかえり〜!」
ケンカをしていた男の子たちも、泣いていた妹も玄関に駆けつける。
それからリビングに姿を現したのは、両手と足に子どもたちがまとわりついた古庄。
そのこの世のものとは思えないような端正な容貌は、佳音が恋したときとまるで変わらなかった。恋心とは関係なく、佳音の胸は無条件にドキンと反応してしまう。
年齢を重ねて人間としての厚みを増した古庄は、ハッとするような大人の男の魅力が倍増され、相変わらずどんな女性も虜にしてしまうほど完璧だった。
佳音が来ていることは、子どもたちから聞いたのだろう、リビングにいる佳音を見つけると、古庄はニッコリと極上の笑顔を見せてくれた。
「よく来てくれたね。元気にしてるかな……って、思ってたところだったんだ。会えて嬉しいよ」
こんな自分をいつも気にかけてくれていることに、佳音の心がキュウっと鳴くように絞られた。
「……お、お久しぶりです」
本当に久しぶりに対面する古庄には、自ずと佳音も緊張してしまう。それほど古庄の格好良さは、人知を超越していた。
古庄は両腕にぶら下がっていた子どもたちから解放されると、真琴の腕から末の娘を受け取った。泣いていた赤ちゃんから解放された真琴は、ようやくキッチンへと向かうことができる。
古庄は手慣れた感じで赤ちゃんをあやしながら、再び佳音へと優しい視線を向けた。
「これから飯を食って帰るのか?それじゃ、ゆっくりできないだろうから、今晩は泊まっていくといいよ。なあ?真琴?」
古庄は佳音にそう言いながら、真琴にも確認する。けれども、とっさに佳音は首を横に振った。
「いきなり押しかけてきておいて、そんな、とんでもないです」
「佳音ちゃんは家族みたいなものだから、遠慮することないのよ?明日は土曜日でお休みだし。それとも、佳音ちゃんの方に、何か仕事や用事があるの?」
「……仕事といっても、特に用事はないんですけど……」
真琴の誘いに対しても歯切れの悪い受け答えをする佳音に、子どもたちが背中を押した。
「佳音ねえちゃん!泊まっていきなよ」
「そうだよ。外はもう暗いよ?」
「泊まって、泊まって!」
今度は佳音が、先ほどの古庄のように、三人の子どもたちからまとわりつかれた。その力強い押しに、佳音もうなずかざるを得なくなる。
「うん……。それじゃ、お願いします……」
「やったーっ!!」
たったそれだけのことで、子どもたちはリビングを走り回って、狂喜乱舞している。古庄も、佳音がそう答えるのを聞いて、満足そうに微笑んだ。
その得も言われぬ表情に、佳音の胸がドキンとまた一つ鼓動を打つ。けれども、その鼓動の響き方が、以前と違うことに佳音は気がついた。
以前はこの笑顔を見ることはおろか、古庄の名前を思い出すだけで、遂げられなかった想いが古傷のように疼いていたのに、それが嘘のようになくなっていた。
それはきっと、和寿に恋をしたからだと思う。でも、佳音はやっと古庄の呪縛から抜け出せたのに、今まで以上の恋の苦しさを抱えなければならなかった。




