あなたの一部
身を切られるような思いをしてまで、辛い決断をしたのだから、それが鈍らないうちに、行動に移さなければならない。
佳音は、次の日には、工房から遠く離れた場所にある産婦人科の病院へと向かった。近い場所にも産婦人科はあるのだが、知った顔に会う可能性のあるので行けなかった。このお腹の中にいる命の存在は、誰にも知られるわけにはいかない。
この存在は、佳音一人の中で“完結”させなければならなかった。
「妊娠してますね。きちんと子宮内に着床してるし、赤ちゃんは……パクパク動いているの分かる?」
内診用の椅子に座って、和寿にしか見せたことのない場所を医師から診察される。佳音の横にあるモニターには、佳音の子宮内のエコー映像が映し出されていて、その画面の中で、かすかに点滅するように動いているものがある。
「これが、赤ちゃんの心臓。もうちゃんと、動いてるね」
事務的な言い方の医師の言葉を聞きながら、佳音の視線はそれに釘付けになる。佳音の中で息づくものは、もうすでに命の営みを始めていた。
内診が終わって、診察室で医師と向き合って説明を受ける。そこで問題になったことは、やはり佳音が未婚であることだった。
「結婚は、していないんですよね?」
「……はい」
医師からの質問で鋭く胸をえぐられながら、佳音は小さくうなずくしかなかった。
これから赤ちゃんの“父親”と結婚して、なんの不安もなくこの子を産めるのならば、どんなに幸せなことだろう。
「これから結婚する予定ですか?」
「……いいえ」
今度は、かすかに首を横に振る佳音の表情を見て、医師の方もにわかに険しい表情になってくる。
「それじゃ……、一人で産みますか?……それとも……」
医師はそれ以上は言わなかったけれども、佳音には何のことを言っているのか、すぐに分かった。自分の中にすでにある決意を、口に出すための勇気を貯める間、佳音は唇を噛んで言い淀んだ。
「悩んでしまうのは分かりますが、もし産むことを諦めるのなら、時間はあまりありませんよ。胎児がまだ小さいうちでないと、あなたの体に影響が大きくなりますからね」
医師からも、急かされるようにそんなふうに言われ、佳音は思い切って口を開いた。
「一人ではとても育てていけないので、産むことは諦めようと思っています」
小さい声でも、確固たる意思が感じられる佳音の返答に、医師も佳音の事情を感じ取ってうなずいた。
「……分かりました。それでは、そのように予定を立てましょう」
“そのように”というのは、人工中絶の手術をするということだ。医師があまりにすんなりと承諾して、淡々と物事が運ばれていくことに、佳音は逆に少し驚いた。
佳音の心の中には深い葛藤があり、命を消してしまうことに、こんなにももがき苦しんでいるのに、医師も看護師も佳音の決断を引き止めることもなく、詳しい事情を聞き出すでもなく、平然としている……。
ここでは、自分のような人間は特別でも何でもなくて、同じ決断をする人間はたくさんいるのかもしれない。……佳音はそう思って、これから自分がしようとしていることを、肯定するのに必死だった。
医師により手術の内容や手順を説明されたのち、別室に連れて行かれて、看護師から費用のことや補足の説明があり、それから手術の日程が決められていく。
手術の前の予備検査として、そこで採血もされた。
「手術の当日は、何も食べてこないでくださいね。麻酔をした時に、食べた物を戻してしまう人もいるので。それと、当日は誰か付き添いには来られますか?」
尋ねられて、佳音は無言で首を横に振った。自分のことを心配して、付き添ってくれる人なんていない。こんな質問をされるたびに、自分が孤独であることをいっそう強く感じてしまう。
「そうですか。それでは、当日は麻酔から完全に覚めるまで、休んで帰られた方がいいですね」
そう言いながら、看護師は一枚の用紙を差し出した。それは、手術に関する“同意書”だった。
「この同意書に、ご自分の名前を書いて、それと赤ちゃんの父親からも署名をもらってきて下さい」
「……赤ちゃんの父親……?」
自分一人でこのことは終わらせようとしていたのに、父親のことを持ち出されて、佳音は戸惑った。
「ええ、赤ちゃんの父親もきちんと同意してくれていないと、人工中絶手術はできません」
看護師のその言葉は、まるで佳音を打ち付けるように、佳音の身体中に響き渡った。
赤ちゃんの父親は、紛れもなく和寿だ。和寿は、佳音が二人の間の子どもを堕ろそうとしていることを、どう思うだろうか。
子どもが生まれることで起こりうる問題ばかり考えていた佳音の意識が、突然、和寿のことで埋め尽くされていく。
この世の何よりも大切で、愛しい和寿――。
自分の中にある存在は、まさにその和寿の命の一部で、和寿そのものだ。あの夜、心から和寿に愛されたことの証として、息づいてくれた大切な命だ。
自分は今、愛する人がくれたかけがえのない命を、殺してしまおうとしている――。それはとても小さな命だけれとも、「生きよう」と健気に胸の鼓動を刻んでいた。
それに気がついた佳音は、無言のまま体を震わせ、その大きな目には涙を溜めた。
そんな佳音の様子を見て、看護師は表情を曇らせて、言葉をかけてくれる。
「……事情があって、赤ちゃんの父親が分からなかったり、連絡が取れない場合は、誰か知り合いの男の人に頼んで、代わりに署名してもらってもいいのよ……?」
看護師は、佳音が望まない相手との子どもを妊娠をしてしまったと思っているのだろう。そんな看護師の誤解に対して、佳音は涙をこぼしながら、また首を横に振った。
何も言わずに泣き出してしまった佳音を、看護師も黙ったまま見守っている。そして、佳音は涙をぬぐいながら、その言葉を絞り出した。
「……やっぱり、やめます。赤ちゃんの命を消すことはできません」
佳音が出したその結論に、看護師は、その表情の曇りはそのまま、心配そうに佳音を見つめた。
「それじゃ、産んで、育てられるのね?」
その問いに、佳音は何とも答えられなかった。産んで育てられる自信は“ある”と、とても断言できなかった。それでも、このお腹の中の命は、何があっても守らなければならないと思った。
佳音はうつむいていた顔を上げて、涙をぬぐうと、それ以上こぼれてくるのを我慢するように、キュッと唇を結んだ。それを見て、看護師も深いため息をつく。
「赤ちゃんのことは、あなた一人で抱え込まないでいいのよ。赤ちゃんの父親にもきちんと考えてもらって、話し合ってから結論を出した方がいいわね」
看護師はそう言うと、手術が中止になったことを、医師に伝えに部屋を出た。それから、ほどなくして佳音のもとへと戻ってきて、医師からの言葉を伝言する。
「とりあえず、産むか産まないかにかかわらず、1週間後にまた診察を受けに来てください」
佳音はしっかりうなずくと、席を立ち、待合室へと戻った。
病院を出てからも、佳音は工房へは帰らず、その心の中を表すように、あてどもなく街の中をさまよった。
“この命は消したくない”とは思うけれども、どうやって一人で産んで育てていけるのか、佳音は本当に途方に暮れていた。
いくら街を歩いても、答えが落ちているわけでもなく、いつしか佳音は緑の深い公園のベンチに座りこんでいた。
9月の爽やかな空気のもと、晴れ渡った空は高く、その青さに吸い込まれるようだ。こんなに綺麗な空を見上げても、佳音の心は少しも澄んでいってくれない。重く大きな不安に、今にも押しつぶされてしまいそうだった。
そのとき、ふいに先ほど看護師が言っていた言葉を思い出す。
『赤ちゃんの父親にもきちんと考えてもらって……』
このお腹の子どものことを、自分一人で決めてしまってもいいのだろうか。この小さな命は、佳音だけのものではなく、和寿のものでもある。自分の命の一部がこの世に息づいたことを、父親である和寿も知っておくべきではないか……。
そうは思ってみたが、佳音は和寿に連絡する手段を持ち合わせていなかった。依然として、和寿の住所はおろか電話番号もメールアドレスも知らない。
和寿とのつながりは、和寿が気が向いたときに工房に来てくれるだけの、本当に希薄なものだった。佳音もそれ以上を求めてはいけない気がして、あえて聞き出そうとはしなかった。
それでも、佳音の記憶の中にあるものが、意識をかすめた。工房へ来た幸世がしていた会話の断片から、ある程度のことは推測できる。
和寿が勤めるのは大きな食品会社。会社帰りに、佳音の工房に立ち寄れる場所。そして、和寿のスーツの上着の襟にあった社章。
思い当たる会社は、一つしかない。
佳音も当然知っているような、有名な会社。ゆくゆくは和寿がその会社の社長になるなんて、佳音には想像もつかないけれども、それは現実になるに違いない。
もともと和寿は、佳音とは住む世界の違う人間。もう二度会うことはないと心に決めていたのに、運命はどこまで佳音と和寿を翻弄するのだろう。
佳音は大きな不安と苦しさに圧し負けて、気がつけば和寿のいる会社へ足を向けていた。
日々変化していく自分の体、妊娠という現実にたった一人で直面するのが怖くて、ただただ助けてほしかった。
入り口を入ると、いかにも大企業らしい吹き抜けで広々としたロビーがあり、そこに和寿のようなきちんとした身なりの男女が行き交っている。
洗いざらしのコットンのブラウスにギャザースカート、かかとの低いサンダルを履いた佳音は、相当に場違いな存在だった。
衝動的に来てしまったのはいいが、佳音はどこに行っていいのか分からず、キョロキョロと見回して〝総合受付〟とあるところへ向かった。
「すみません」
と声をかけると、佳音と同年代の女性が、「はい」と上品な微笑みとともに応えてくれた。その指先のネイル、まつげに施されたマスカラ、細部にわたって完璧なその様に、佳音は気後れしてしまって思わず体がこわばった。
「いらっしゃいませ。ご用件をお伺いいたします」
受付の女性の柔らかい物腰に促されて、佳音もおどおどと口を開く。
「あの……、経営企画室の室長補佐をしておられる古川和寿さんにお会いしたいんですが……」
もともと人と関わりを持つことが苦手な佳音の、最大限に振り絞った勇気だった。それほど、和寿に会うために必死だった。
「経営企画室の古川でございますね。失礼いたしますが、ご面会のお約束はなさっていらっしゃいますか?」
その質問に、佳音の勇気が一瞬にしてしぼんでいく。やはり和寿は、そう簡単には会うことのできない人間のようだ。
「……いえ、約束はしていないんですけど……」
佳音は小さくなって、消え入るような声で答えた。
「少々、お待ちくださいませ」
受付の女性はそう言うと、電話の受話器を取り、どこかへ連絡を取り始める。佳音は待たされている間、その場違いな姿の自分に、周囲の人たちの視線が集まっている気がして、身につまされる思いがした。
「お待たせいたしました。古川は、ただ今会議中でして、その会議の後は取引先との会合に出る予定になっています。会議後に少し時間を取れるかもしれないとのことですが、それまでお待ちいただけますか?」
それを聞いて、佳音はますます委縮した。和寿の事情も考えず、こんなところにまで来てしまって、たとえ会えてもきっと和寿は困惑するに違いない。
「……いえ、お忙しいようですので、もういいです」
和寿に会いたいことには違いなかったが、それよりも佳音は一刻も早くこの場所から逃げ去りたくなった。
「ご要望にお応えできずに申し訳ありません。ですが、お客様がいらっしゃったことは古川へ伝えておきますので、お客様のお名前をお聞かせいただけますでしょうか?」
こんな自分のような得体のしれない人間に対しても、受付の女性が丁寧な対応をしてくれることはありがたかったが、佳音は首を横に振った。
「いえ、伝えなくていいです。私のような者がここへ来たことも、古川さんには言わないでください」
佳音は頭を下げながら、そう言い残すと、きびすを返して駆け出した。
ロビーを出て、街の中をやみくもに走っていると、そのうち息が上がって走れなくなった。立ち止まって息をついても、多大な緊張の後の体の底からの震えは、そう簡単に消えてくれなかった。
佳音の心臓がドキンドキンと、激しく脈打っている。それはまるで、お腹の中にいる子どもの心臓と呼応しているようだった。




