いきづくもの
それからの毎日は、本当に何事もなくゆっくりと進んでいった。9月になると朝晩も過ごしやすくなって、たそがれ時、佳音はふらりと散歩に出て、川辺の方にまで足を延ばすこともしばしばだった。
以前と少し変わったことは、物思いにふけることが増えたこと。ふいに記憶の底から呼び起こされる“和寿”の息吹を感じ取るたび、佳音は深い想いの淵の中を漂った。
こうやって一日一日、為すべきことを成し遂げて毎日が過ぎていけば、そのうち十年二十年という時が経っていて、きっと今の苦しさも遠い思い出となっている……。
幸いにも、佳音には全身全霊を傾けられる“夢”があった。ウェディングドレスを作り続けるという夢……、それさえあればどんなことがあっても、生きていけると思った。
そんな平穏という清水の中に、一滴の色のついたインクが落とされる。そんなふうに、その“心配”は佳音の意識の中に、ある日突然浮かび上がってきた。
そして、一度よぎったその心配は、いつまでも解消されず、四六時中佳音に付きまとい始める。
ある日の夜更け、佳音は居ても立ってもいられず、勇気を出して確かめてみた。この心配が、自分が勝手に思い描いた、ただの取り越し苦労だと証明するために。
時間を正確に計り、その結果を確認する。
その瞬間――。……佳音の頭の中は真っ白になり、その場に立ち尽くした。
妊娠検査薬の判定で、“陽性”の反応が示されていた。
思い当たることは、ひと月前のあの夜のことしかない。
あの夜、あのひと時だけと、誓いを立てて望んだあの行為は、思ってもみない形で佳音へ結果を運んできた。
あの時、和寿の残した一部が小さな命となって、佳音の中に息づいていた。
呆然として微動だにできない状態から、その事実を認識していくにつれ、かすかに体が震えてくる。そのあとから襲ってきたものは、喜びなどではなく、とてつもない動揺だった。
――どうすればいいの……!?
冷静になって考えなければと思うのに、思考がうまく働いてくれない。ダイニングに戻ってきても、そこにたたずむばかりで何も手につかない。
生理が十日以上も遅れていて、うっすらとこの可能性に勘づいていたにもかかわらず、佳音は突きつけられた現実に、あからさまにおびえていた。
これから自分がどうなってしまうのか分からず、怖くて怖くて仕方がない。影のように、不安が佳音の心と体を常に圧迫して、ドレスを作る作業はおろか、生活すべてがままならなくなった。
ダイニングの椅子に座り、テーブルに腕をつき、混乱する頭を抱えているうちに、一日が過ぎていく。
現実から目を逸らしている間にも、佳音の抱えた不安は消えてくれるどころか、どんどん膨れ上がっていく。お腹の中の小さな命は、すさまじい速さで細胞分裂を繰り返し、日一日と大きくなっているはずだ。
産まない選択をするのなら、早く決断しないといけないのは、佳音にだって分かっている。だからこそ、焦っていた。
幾分佳音が冷静に考えられるようになったのは、数日後、ようやくきちんと眠れた後の朝のことだった。
動揺しているのは、“妊娠”という事態が、人生経験の少ない佳音が一人で考えて解決するには、あまりにも深刻すぎるからだ。誰かに相談しようにも、事が事だけに、他人に真実を語るのは憚られた。
本来この事実を一緒に受け止めてくれるべき、“お腹の子の父親”には、決して頼ることはできない。これから幸世との結婚を控えている和寿だけには、このことは絶対に知られてはならない。
産むのなら……、自分一人で育てていくしかない。
……でも、この工房で働きながら、赤ちゃんを育てられるだろうか?ほとんど蓄えなどない佳音の生活は、仕事をしなくなれば途端に破綻してしまう。
朝から晩まで働いて、自分一人がやっと暮らしていける程度なのに、この子を養っていける余裕があるだろうか?
産んだ後の現実をいろいろと想像すると、佳音にはとても無理だと思った。
産んでも、自分は親として何も満足に与えてあげられない。こんな自分に育てられたら、きっとその子は不幸になってしまう。
それに、大きな会社の社長になるはずの和寿にも、この子の存在が災いし、その地位を危ういものにするかもしれない。
――産んではいけない……!
佳音はまるで脅迫されているかのように、そう思った。
まだ、何の変化も感じられない自分のお腹を包み込むように、佳音は手を当ててじっと見つめた。意識もしないうちに、涙が幾粒もこぼれて落ちていた。
――……産んであげられなくて、ごめんね。……でも、私一人の力じゃ、どうしようもないの……。
暗いお腹の中だけしか知らずに消されてしまうなんて、何のためにこの子は息づいたのだろう……。せっかく命を授かったのに、生まれてこれないなんて、なんて可哀想な命なんだろう……。
そんなふうに思うと、ますます涙が溢れて、止まらなくなる。
ぽたぽたと涙が落ちる自分の手の甲を見つめながら、佳音は、かつての自分がいつも考えていたことを思い出した。
『生まれてこなければ、よかった……。』
苦しくて、寂しくて、生きているのが辛い時、佳音自身、何度もその言葉をつぶやいていた。
同じ思いを、自分の子どもにはさせたくない。あんな思いをさせるくらいなら、この世に生み出さない方がいいとさえ思う。
家族の中で、本当の幸せを感じたことのない佳音は、自分一人の力でこの子を幸せにできる自信がなかった。




