ドレスの完成
和寿との決別から十日ほどが経ち、幸世のウェディングドレスが完成した。
そして、八月も終わりに近づいたこの日、幸世がそのドレスを受け取りに、工房にやってくる。
あの和寿を最後に見た朝から、佳音はもう泣くことはなかった。あれだけ心が揺れて泣いていたのが嘘のように、自分でも驚くくらい冷静に、幸世のドレスと向き合うことができた。
一つひとつ丁寧に、佳音の持っているだけの能力のすべてを注ぎ込んで、このドレスを仕上げた。晴れやかな日に、和寿の隣で輝いて、幸せを運んでくれるように、ただそれだけを願って。
愛しいと想う人から、心から愛されることは、幸せなことに他ならない。愛しい和寿から心から愛されたあの夜、佳音は本当に幸せだった。
もっと早く、和寿が結婚を決める前に出会えていたらと思わなくはないが、幸世がいなければ、お互いの人生が交わることなど絶対にありえなかっただろう。
二人が出会えて、ほんの束の間でも愛し合えたのは、運命だったのだと思う。
けれども和寿には、その一時の感情に流されて、後悔することだけはしてほしくない。冷静になれば、一時的に燃え上がった恋のことは、きっとどうでもいいことのように思えてくるはずだ。
結婚式を終え新しい生活が始まると、和寿はきっと幸世とともに、二人ならではの愛を育んでいくに違いない。あんなに明るく笑っていられる幸世と一緒にいて、幸せになれないわけがない。
「こんにちはー!」
まさに今こそ、幸世がやって来てこの工房がパッと明るくなったように、いつも和寿の心を暖かく照らしてくれるだろう。
「うわっ!?すごいわっ!!仮縫いの時のものとは全然違う!めちゃくちゃ綺麗よ!これ、ホントに私が考えたドレス?!」
出来上がったドレスと対面した幸世は、これ以上ないほどの感激ぶりだ。
その様子を窺って、佳音は胸をなでおろす。和寿との間にあったことを、幸世は何も知らないままのようだった。
「あらまあ、ドレスもかわいいけど、可愛らしい職人さんねぇ」
そう言って、幸世の隣でニコニコしながら佳音へと視線を送ってくれてるのは、一緒にドレスを受け取りに来た幸世の母親だ。佳音は恐縮するように、はにかんだ微笑みを見せて、ペコリと頭を下げた。
「ご希望通りのドレスに出来上がっていればいいのですが、とりあえずご試着なさってみてください」
出来上がりのチェックを兼ねて、今日の試着は本番と同じく、佳音が合わせて作っておいたヴェールやグローブも身につけて行われた。メイクや髪は普段のものとはいえ、そこにいた花嫁は完璧といえるほどに綺麗だった。
出来上がったドレスを依頼主に着てもらい、依頼主が満足そうに微笑んでくれるときにはいつも、佳音も何とも言えない幸せに包まれる。
今日の幸世の姿は、いつもの幸せのみならず、その向こうにある切実な願いを、佳音の中にもたらした。
本当に幸せになってほしいと……そして、和寿を幸せにしてあげてほしいと、心から願った。
これまでの依頼主の場合、このタイミングでその姿の写真を撮らせてもらって、それを壁際の棚のギャラリーに並べていた。
しかし、この日の佳音は、幸世のこのドレス姿を眺めるばかりで、写真には残さなかった。
最高傑作を自負する出来のドレスだったけれど、その写真を目にするたびに、苦しいほどに切ない出来事を思い出さなければならないと思ったから。
一方の幸世の母親は、娘の一生で一番に晴れやかになるであろう姿を、スマホを取り出してそのカメラの中に収めている。
「オーダーメイドのドレスなんて、お金がかかるばかりでどうなの?って思ってたけど、本当に素晴らしいわね」
素材に見合った繊細なデザインのみならず、体に合わせてピッタリと吸い付くような、ドレスと幸世との一体感に、母親も感嘆の声を上げた。
「そうでしょ?このドレスを見てしまうと、他のドレスなんて、絶対に考えられないわよ」
「幸世、本当に綺麗よ。腕のいい職人さんに出会えて、よかったわね~。さ、これで、ドレスの準備は済んだわね。指輪はもう注文済みだし……あとは」
「あとは、招待状を発送して、披露宴の席順を考えたり、余興の段取りなんかもしなくちゃね」
ウェディングドレスで身を包んだ花嫁は、そう言いながら笑顔を輝かせた。
結婚式まで、あと二ヶ月あまり。予定通りに着々と、準備も進んでいるようだった。
「古川さんも一緒に来ればよかったのにね」
ドレスを脱ぎ始めた幸世に、母親がさも残念そうに投げかけた。この本当に綺麗だった幸世の姿を、婚約者にも見せてあげたいと思ったのだろう。
「んー、誘ってみたんだけど、今日は平日だから会社は休めないって言ってた。ホントに、仕事のオニなんだから」
幸世が肩をすくめて呆れたように、そう言うのを聞いて、母親の方も、同意するように息を抜いた。
「確かに、古川さんはとても真面目な人ね。でも、パパが言ってたけど、古川さんって会社でもかなりモテてるらしいわよ」
「あら、そうなの?知らなかった!」
その事実は本当に意外だったらしく、幸世は目を丸くして母親を見つめる。
「古川さんはイケメンだもの。そりゃあ、モテるわよ」
「ええ?イケメンと言うには、ちょっと地味じゃない?」
見た目も性格も派手目な幸世からすると、和寿は地味目の普通の男に見えるらしい。
「何言ってるの、チャラチャラしてる見た目ばかりの人より、誠実でよっぽどイケメンじゃないの。それに、背も高いし、人当たりもいい。仕事も出来て出世も早いとなれば、モテないわけないじゃない。でも、カタブツだったから、あなたとの縁談も出てきたのよね」
どちらかと言うと、結婚をする当の幸世よりもこの母親の方が、ずいぶん和寿に肩入れしているらしい。
「そっか、じゃ、古川くんが私と婚約してガッカリしたOLもたくさんいるのかしら?」
そう言いながら、いつものように幸世は朗らかに笑った。嫌味に聞こえてしまいそうな言葉も、幸世が言うと屈託がなくて、本当に罪がない。
幸せの中にいる母娘の会話を聞いていると、佳音の心は複雑な思いを抱えて暗く陰っていく。しかし、それを押し殺して、佳音もほのかに笑った。心は切なく震えていたけれど、懸命に祝福する笑顔を作った。
そして、佳音は、幸世の脱いだウェディングドレスとヴェールやグローブを、専用の箱に丁寧に梱包する。
「どうぞ、末永くお幸せに……」
いつもこの工房から花嫁を送り出す時に、儀式のように佳音がかけている言葉。
これから喜びの日を迎える母娘は、それを聞いてニッコリと応えてくれた。ドレスの箱を携えて会釈をすると、連れ立ってアパートの階段を下りていく。
佳音は深々と頭を下げて、二人を見送る。それから、ゆっくりと頭を上げると……、そこにはもう誰の姿も見えなかった。
これでもう、唯一つながっていた和寿との関わりも、一切なくなった。
春に和寿と出会う前の、ただ毎日ドレスを作って、ささやかな生活を続けているだけの自分に戻れた。何にも心を煩わされることもなく、穏やかに生きていける。
『君を愛している……』
和寿がくれた言葉を思い出すと、まだ胸は切ない痛みを帯びて鼓動を打つけれども、同時に、いつも寂しさで干からびていた佳音の心に、温かい水が染み透っていく。
固く閉ざしていた心が柔らかくなって、何だか、なりたい自分に変わっていけそうな気がした。
佳音は夏の熱い空気を、一息深く吸い込んだ。
玄関のドアを軽快に開けると、工房に戻って、次の依頼者のためのドレス制作の作業を再開させた。




