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決意の朝

 


 それから、和寿はしばらく起きてこず、八時過ぎになってようやくもぞもぞと動く気配がし始めた。


「……佳音?」


 和寿の確かめるような声を聞いて、佳音はすぐに部屋へと向かい、ドアの隙間から顔を出した。


「濡れてた洋服は洗っておきましたから、着替える前に、どうぞシャワーを使ってください」


 上半身だけベッドから身を起こし、まだ寝起きの表情の和寿に、佳音はそう声をかける。朝らしい笑顔を作りたかったが、複雑な心境を映してうまくいかず、逃げるようにドアを閉めた。


 和寿が裸のまま部屋を出て、シャワーを浴びている音が、佳音のいるキッチンにまで響いてくる。こんなふうに、自分以外の人がここで生活する息吹を感じるのは、初めてのことだった。佳音は朝食を作っていた手を休め、和寿の洋服とバスタオルを脱衣所へと持っていった。



「僕の洋服、洗って乾かしてくれてて、ありがとう」


 程なくして、昨日着てきた洋服をきちんと身に着けた和寿が、ダイニングに姿を現した。


「アイロンとドライヤーで、無理やり乾かしたんです。まだ生乾きかもしれません」


 佳音の言うとおり少ししっとりしている感じはあったが、それよりもシャツもチノパンもピシッとアイロンが当てられていて、まるで下ろしたてのようだった。


「朝食、簡単なものしか用意できませんでしたけど、どうぞ」


 佳音に促されて、和寿はテーブルに並べられたものに目を落とす。トーストとミルクティー、ハムエッグにはカットトマトが添えられていた。


「朝食くらい僕が作ればよかったんだけど、すっかり寝坊してしまって……」


 椅子に座りながら、和寿はいつものように優しく笑いかける。


「今日は土曜日ですけど、お仕事や用事の予定はなかったんですか?」


  けれども、佳音はその笑顔を目にすることなく、ハムエッグの皿に目を落としたまま尋ねた。


「……このところ、仕事どころか、何も手に付かなくてね……。上司や副社長にも心配されて、この一週間は休みをもらってたんだ」


 肩をすくめて恥ずかしそうに告白しながら、和寿もフォークを手に取って食べ始める。佳音は目を上げて、和寿の言ったことを確かめるように、向かい合うその顔を凝視した。


 頬とあごにある無精ひげは、剃刀がないこの工房では処理できなかったのだろう。昨夜よりは明るい表情になっているとはいえ、半月前に会った時とは別人のようにやつれている。

 ひげも剃れないほど何も手に付かなかった原因は……、いわゆる〝恋煩い〟なのだろう。それほど、和寿が佳音を一途に純粋に想っていることの表れなのかもしれない。


 だけど、その想いは、和寿を破滅させる。現に、仕事にも支障をきたしてしまっていて、このままでは会社の中での和寿の信用も失墜してしまう。


 佳音は、まるで砂を噛むように、トーストを口にした。

 素直な心のままに愛し合って、二人で迎える初めての朝。本来ならば幸せで満たされているはずなのに、


 ――今のままじゃ、いけない。


 ……佳音は切実にそう思った。



 黙々と朝食を口に運ぶ佳音に対面して、和寿もその佳音の様子がよそよそしいことに気がつく。昨夜あんなにも求めてくれて、甘い時間を共有した佳音とはまるで別人のように、和寿の目には映った。


「もう九時になります。これから工房を開けるので……」


 朝食の片づけが終わると、佳音が和寿に声をかけて、暗に帰ってくれるように投げかける。佳音の仕事の邪魔になってもいけないので、和寿もうなずいて、帰らざるを得なくなる。


 玄関に向かって背を向けた和寿を見送りながら、佳音は自分の中にある〝覚悟〟を、どうやって和寿に伝えるべきか考えた。


 すると、和寿はくるりと身をひるがえし、振り向きざまに佳音を腕の中に抱きしめた。

 ギュッと抱きしめられると、佳音の体の奥に刻み込まれている昨夜の愛撫の感覚が呼び起こされるようだった。甘く切ない感覚に支配されないように、和寿の腕の中で佳音がきつく目をつぶる間にも、和寿は佳音の耳元に囁いた。



「いつもみたいに笑って見せて。佳音の天使みたいな笑顔が見たい」



 これは、佳音のことを愛しく想う和寿の本心だったのだろう。けれども、佳音は笑うどころか涙が込み上げてきて、首を左右に振ってその腕の中を抜け出した。


「……これから、どうするんですか?このまま、私とこんなことを続けるつもりですか?」


 佳音からそう訴えられたのを聞いて、和寿も深刻な面持ちになって立ちすくんだ。


「あなたはこれから幸世さんと結婚して、ずっと幸世さんを裏切り続けるわけにはいかないでしょう?」


 和寿が幸世と結婚することは、変えられない現実だ。それも、普通の結婚ではない。会社の将来がかかっている重要な結婚だ。その現実を改めて突き付けられて、和寿は黙ったまま厳しい顔をして唇を引き結んだ。


「……あのウェディングドレスを見てください。あのドレスは、これまで私が手掛けてきたドレスの中でも、最高傑作だと思います」


 佳音にそう言われて、和寿は隣の工房のマネキンに着せられている真っ白なドレスに目を遣った。そして、男の和寿でも、その美しさに息を呑む。

 ほぼ完成しているそのドレスは、初めに幸世が描いたものが、これだけのものとしてよく形作られたと思えるほど、本当に素晴らしい出来栄えだった。


「私は、心を込めてこのドレスを作りました。その私が、幸世さんの幸せを壊すわけにはいかないんです」


 佳音の立場にも思いを馳せて、和寿はギュッと目をつぶった。拳もきつく握って、自分の中にある想いを処理する。

 しばらく直立して考えていた和寿は、おもむろに目を開けると佳音にそれを合わせ、ようやく口を開いた。



「……じゃあ、僕の中にある君への想いは、どうすればいいんだ……」



 悲痛さの中に深く激しい想いが潜む和寿の視線に射抜かれて、佳音は息ができなくなる。耐えられず和寿から目を逸らすと、すがるようにそこにあったダイニングの椅子に腰かけた。


 テーブルに肘をついて、佳音も考える。

 このままだと、きっと和寿はまた同じことを繰り返す。仕事が手に付かなくなって、周りの人間がその原因を探り、やがて会社や幸世の家族にも自分たちの関係が露見してしまうだろう。そうなったときの和寿の境遇を想像して、佳音は恐怖で震えてくる。


 何よりも大切な和寿には、そんな破滅の道を歩んでほしくない。


 佳音は頭を抱えてきつく唇を噛み、先ほど一人で固めた“覚悟”を奮い起こした。


「あなたは結婚前の一時の気の迷いで、つい出来心を起こして私を弄んでしまっただけです。そして私は、依頼主の婚約者だろうが見境なく誘惑して、深い関係になってしまう、だらしない女です。世間の人たちから見れば、私たちのしていることは、そういうことなんです」


 この佳音の言葉を聞いて、和寿は信じられないような顔をした。じっと佳音を凝視して、佳音の正面へ回り込む。


「僕は、君のことを心から愛している。弄んでなんかない。……君も、僕のことを想ってくれてるから受け入れてくれたんだろう?」


 切迫した表情でそう訴えかける和寿は、まるで佳音に懇願しているようだった。佳音もそんな和寿を見てしまうと、やっぱり非情にはなり切れなかった。

 堪えきれず、佳音の目に溜まった涙が、はらはらと零れ落ちた。



「……あなたのことは、心から好きです。……だけど」



 佳音は濡れた頬を、手の甲で拭って言葉を続けた。


「何の落ち度もなく、あんなに結婚式を待ち望んでいる幸世さんを、傷つけるわけにはいきません。今だったら、まだ元に戻れます。あなたと私の過ちは、死ぬまで誰にも言わなければ、あなたと幸世さんは何事もなく結婚式を挙げて、幸せな生活が送れるはずです」


 切々と佳音の語るのを聞いて、和寿はやるせなさそうに眉間にしわを寄せ、唇を震わせた。



「……こんなにも純粋に君を想って、愛し合えたことが、『過ち』なのか?……一体、『幸せ』って何なんだ……」



 思わず口を突いて出たような、和寿がつぶやいたことの意味を、佳音も考えた。

 立ち尽くす和寿、涙をぬぐい続ける佳音。二人を取り巻く静寂の外側には、街の喧騒と賑やかなセミの鳴き声が取り巻いて、今日も夏の一日が始まろうとしていた。

 息を深く吐き、また深く吸い込んで、和寿が改めて口を開いた。


「……今のままじゃいけないのは、僕も十分分かってる。だから、なんとかしてまた君のところに戻ってくる」


「いいえ……!」


 即座に、佳音はうつむいていた顔を上げ、毅然と和寿の言ったことを否定した。

 和寿がしようとしている結婚は、これから和寿ひとりの力で、なんとかできるようなものではない。そして、その結婚のためにウェディングドレスを作っている佳音も、決してそれは受け入れられない。


 和寿の真剣な切ない目に見つめられると、佳音の胸に痛みを伴って、和寿への愛しさが募ってくる。

 だからこそ、この愛しい和寿のために、佳音は勇気を振り絞らなければならなかった。頬を伝う涙を拭いて、しっかりとした眼差しで和寿を見つめ返す。


「あなたはこんな私を、『愛している』と言ってくれました。私は、それでもう十分与えられました。その言葉だけで、一生生きていけます。今までも、独りぼっちで生きてきました。それが、私にとって一番幸せな生き方なんです。もう……、これ以上ここに来て、私の平穏をかき乱さないでください」


 どう言えば、和寿が納得してこの工房を後にし、そしてもう二度とここへ来ないと思えるか……、懸命に考えたうえでの佳音の言葉だった。


 和寿が息を呑んで、その眼差しの中にかすかな絶望を宿した。何も佳音に語ることができなくなり、その絶望の影どんどん濃くなっていく。

 そんな和寿を見上げて、佳音は心に鎧をまとい、自分たちの関係を断ち切るための決定的な言葉を和寿に突きつける。


「私には、あなたは必要ありません。だから、あなたも、自分のいるべき場所に戻って、しっかり人生を歩んでいってください。私はもう、この神聖なドレスに触れる資格はないのかもしれないけど……。幸世さんの、そしてあなたの幸せを祈りながら、このドレスを仕上げさせてもらいます」


 和寿は何も話せないどころか、もうこれ以上、ここにもいられなくなった。重い足を動かして玄関に向かい、まだ水気の残る靴に足を入れる。


「もう二度と、ここに来てはいけません。どうぞ、お幸せに」


 そう言って和寿を送る佳音は、別れ際までとうとう微笑みさえ見せなかった。すべての感情を押し殺したような表情の和寿は、その言葉にも何の反応も見せず、ゆっくりと背を向ける。


 そして佳音は、和寿が階段を下りて見えなくなるまで、食い入るようにその姿を見つめ続けた。今度こそしっかりと、記憶の中に刻み付けるように。


 もう二度と、その目に映ることはないと、心に決めている和寿の姿を――。




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