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月光

 


「……君は、こんなに綺麗なのに、今まで誰にも触れられたことがなかったの?」


 熱情に任せた行為の後、二人はその息が落ち着くまで、体を横たえたまま抱きしめあっていたが、その沈黙を破って和寿が口を開いた。


 和寿が言うとおり、佳音はその可憐な相貌だけでなくその体も、細身で少女のような外見にかかわらずきちんと女らしく成熟していて、絵に描いたように本当に綺麗だった。こんなに透き通るように綺麗な女性を、世の男性たちが放っておくはずがないと、和寿は思った。


 佳音は和寿の腕の中から頭をもたげて、和寿と目を合わせた。


「……古庄先生に失恋した後は、今まで誰にも心を開いてこなかったから……」


 和寿は、佳音の大きな瞳を覗き込んで、確かめた。


「今まで、誰にも?……言い寄ってこられることも?」


 和寿の指摘を受けて、佳音は自嘲気味に薄く笑みを浮かべる。


「お惣菜屋の謙次さんのような人はいますけど。……やっぱり私は、変わり者だし、誰からも必要とされていないような人間だから」


 佳音のこの言葉を聞いて、和寿はじっと彼女を見つめた。彼女の抱えてきた心の寂しさと闇を、今更ながらに理解したような気がした。


 佳音は寂しい思いをするたびに、そう思って自分を納得させて生きてきた。

 それほど……、無条件の愛情を注いでくれるべき両親に愛されなかったこと、渾身の力で恋い慕った古庄に同じ想いを返してもらえなかったことが、心に深い傷を残してしまっていた。


 和寿は佳音を包み込むように、背中に回した腕に力を込め、その柔らかな髪に唇をつけた。


「僕は、君といると心が解放されて、いつでも自分が自分でいられることができた。君を心から欲しているから、自然と何度もここへ足が向いたんだ」


 和寿の胸に唇をつけて、佳音は彼の真心を聞いた。

 和寿は、会社でも実家の両親の前でも、期待されている自分を懸命に演じ続けてきた。彼がずっと背負ってきた重責と心の苦しさが伝わってきて……、できることなら癒してあげたい……佳音はそう思った。



「僕は、君を愛している」



 囁かれた究極の言葉に、佳音の胸が震えて、涙が込み上げてくる。

 涙で揺れる大きな瞳で和寿を見つめ、佳音は腕を伸ばして、彼の無精ひげの頬をなでた。


 見つめあうと想いが募って、言葉は何も必要なくなる。二人はまた引き合うようにキスをし求め合って、何度も情熱にまかせて愛を交わした。




  思いつめて佳音の工房へやってきた和寿は、佳音を抱き想いを遂げられて、眠れない夜から解放されたのだろうか。佳音を抱きしめたまま規則的な寝息を立て始めた。


 そんな和寿の安らかな寝息と落ち着いた胸の鼓動を聞きながら、佳音も思う。愛し合った余韻に包まれて、こうやって愛しい人の腕の中にいる、まさに今が、人生で一番幸せな瞬間なのだろうと。


 佳音はしばらく、その幸せな感覚を噛みしめていたが、和寿の腕をそっと動かして、その懐から抜け出した。

 ベッドの側にあったネグリジェを身に着けると、同じように脱ぎ散らされている和寿の洋服を拾い上げた。濡れたままのそれらを脱衣所に持っていき、洗濯機に洗ってもらう。


 いつしか雨音がしなくなっていて、佳音は外の様子を確かめに、暗い工房を横切って窓辺へと向かう。カーテンを開けてみると、空はすでに雲が切れていて、中天には丸い月がぽっかりと浮かんでいた。


 皓皓と降り注がれる月からの光に照らされて、佳音は思わずその澄んだ様に息を呑んだ。

 こんな月の光を浴びていると、いつも心の中で塊になっている寂しさや、和寿への激しい想いなどもすべて洗い流されて、まっさらな何にも染められていない自分に戻れるような気がする。

 佳音はしばらく窓辺に座り、心の中を空っぽにして、その美しい真夏の月を眺めていた。


 そして、ふと工房の中へと視線を移す。

 暗い工房の真ん中で、窓から射し込んだ月の光に照らされて浮かび上がってきたもの――。

 それは、佳音が丹精込めて作り上げた幸世のウェディングドレスだった。


 そのものから光がこぼれ出ているかのように、キラキラと光り輝いている。その無垢で純粋な美しさに、佳音は息をするのも忘れた。

 魂を抜かれたように、マネキンに着せられたドレスの前に立ちすくみ、そこから視線を動かせなかった。


 このドレスは何も語りはしなかったが、すべてを見透かされているような感覚になって、次第に体が震えてくる。

 自分の罪深さを自覚して、佳音の目に涙が溢れてくる。佳音は力なくそこへ座り込み、頭を抱えた。


 自分は、このウェディングドレスを着る花嫁の伴侶となるべき人と、越えてはならない一線を越えてしまった。いくら愛し合っていたとはいえ、絶対に犯してはいけない過ちを犯してしまった。


 ウェディングドレスを作ることは、佳音にとって、この世に存在できるためのたった一つの意義のようなものだ。それを否定するような行為を犯しては、もう佳音は生きていけなくなる。

 

 そして――、和寿も。

 たった今二人で確認し合った愛を貫こうものなら、生きるのでさえ辛くなるような、大きな苦難と不幸が待ち構えている。


『君を愛している……』


 先ほど、和寿が語ってくれた言葉の響きの中にある真実を、佳音は噛みしめた。

 和寿は心から愛してくれているのかもしれないけれども、それでもやはり、自分たちは間違ったことをしてしまっている。



 ――もし……、この犯してしまった罪に罰が下るとしたら……、どうか私だけに……。



 佳音はウェディングドレスを見上げながら、見えないものに対して、心の中でそう祈った。

 これまで、さんざん寂しく辛い思いをしてきた自分は、これ以上の不幸を背負っても、大して変わるものはない。


 けれども、和寿は……。何よりも愛しい、この命よりも大切な和寿には、自分のように影を踏んで歩くような生き方はしてほしくない。これまで彼がたどってきたように、一点の曇りもないような輝かしい人生を、これからも着実に歩んでいってほしい。


 佳音は、月の光を浴びながら止めどもない涙をぬぐい続けた。そして、月が姿を消し、夜が白々と明けわたる頃、顔を上げて覚悟を決めた。





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