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雨の夜 Ⅱ


 工房の中へ入ると、和寿は靴を脱がずに立ち止まる。


「こんなじゃ、工房を汚してしまうよ……」


「……それじゃ、靴下を脱いで……」


 躊躇する和寿を佳音が促すと、和寿は言われたとおりにぐっしょりと濡れてしまった靴下を脱いだ。佳音はその靴下を受け取ると、和寿の背中を押し、工房の奥の部屋へと連れて行った。


 ベッドとチェストと、必要最小限の調度品と。そこは、和寿が初めて目にする佳音の生活の場だった。


 激しい雨にさらされていた和寿からは、本人が言うとおり、いまだにポタポタと雫が滴っている。

 佳音は、チェストの中からバスタオルを取り出してきて、和寿を拭き始めた。和寿は自分で自分をぬぐうことはなく、ただじっとして佳音のしてくれていることを受け入れている。


「……このままじゃ、風邪をひくから、濡れた服を脱がないと……」


 佳音にそう言われても、和寿はただ木偶(でく)の坊のように何もできなかった。しょうがなく、佳音は和寿の着ているシャツの前のボタンをはずし始めた。すべてをはずすと、和寿の後ろへ回り、シャツを肩からはずし腕から抜き取る。


 目の前であらわになった和寿の体に、佳音は息を呑んだ。こんなふうに、男性の体を目の当たりにすることなんて、経験したことがない。

 裾をロールアップさせた和寿のチノパンからも、まだ水滴が落ちていたが、当然そちらには手を出すことができなかった。


 自分の中の焦りを隠すように、佳音は再びタオルを手に持ち、和寿を拭き始める。無心に、何も考えないように、両腕を伸ばして芯まで濡れた和寿の髪をしっかりと拭きあげる。


 そのとき、ふと和寿の眼差しに気がついて、佳音の腕の動きが止まった。そして、向かい合う和寿を見上げて目が合うと、佳音はもうそこから視線を動かせなくなった。

 

 和寿の深く優しい眼差し。今日のそれは、いつもにも増して切なさをはらんで、言葉以上に和寿の想いを物語り、佳音を捉えて離さなかった。

 そんな目で見つめられると、胸が締め付けられて、佳音の中に押し込めて思い出にしようとしていた想いが、また溢れてくる。

 佳音は、もうそこから目を逸らせなかった。目の前にいる人は、ずっと会いたくてたまらなかった人、本当に愛しくて愛しくて、佳音が心から恋い慕う人だった。


 和寿の腕が動いて、両手のひらが佳音の頬を包む。それから自然と吸い寄せられるように、なんの躊躇もなく二人の唇が重なった。


 触れ合った瞬間、痺れを伴うようなその感覚が、佳音の唇から全身へと駆け巡っていく。

 ただ触れるだけではない、深い深い想いを表すためのキス。まさしく愛し合っている者同士が交わすキスだった。二人は溢れてくる想いのままに、キスを交わし続けた。


 和寿の手が佳音の長い髪をかき上げながら後ろ頭に回され、もう一方の腕は背中に回されて、和寿からのキスはさらに深められ熱を帯びていく。それに気づいた佳音は、途端に怖くなり、タオルを持ったままの手で和寿の胸を突き、唇を離した。


 緩く首を左右に振り、和寿に抱き寄せられたまま体をこわばらせて顔を背けた。

 キスの後の、お互いの荒くなった息遣いだけが響く中で、佳音は胸が詰まって、何も言葉にならなかった。どうにもならない苦しさが込み上げて、両手をぐっと握って懸命に堪えているのに、涙がにじみ出てくる。


 すると、和寿の方が、いつか佳音の耳元で囁いたように、静かで深い声色で語り始める。


「君がドレスを作っているのを、あの椅子に座って見ていたときもずっと……、こうやって君に触れたかった」


 それは、これまで聞くことのなかった、和寿の心情だった。

 和寿は、佳音が彼への恋情に気がつく前から、ずっと佳音のことを想ってくれていたということだろうか……。


「初めて工房に来たあの日から、君のことが頭から離れなくなった。僕には婚約者がいるのに、寝ても覚めても君のことしか考えられなくなった。それで、仕事が終わると自然とここに足が向いて、今日みたいにこの工房の窓から漏れる明かりを見て……、君の存在を確かめて帰るようになって……。だから、花屋で出会ったのも、偶然なんかじゃなかったんだ。あのときは、ほんの一言、君と言葉が交わせたら、それで心が満たされて諦められると思ってた。それから時間が経つほどに君と親しくなれたけど、結婚式も迫ってきて……、君も僕の結婚に関わる人だから、この想いは僕の心の内だけで終わらせるべきことだと思ってた。……だけど」


 切々と語っていた和寿はそこで言葉を切り、顔を背ける佳音の横顔を、いとおしそうに見つめ直した。


「……この前、君も僕と同じ気持ちでいてくれてると知って、もう自分が抑えられなくなった。君のことは、誰に指示されたわけでもなく、誰に望まれたことでもなく、僕自身の心が初めて欲したものだ」


 和寿の一言一言が、佳音の胸にくさびとなって打ち込まれるようだった。和寿の言葉を聞きながら、佳音は夢を見ているのではないかと思った。


 両親にも愛してもらえなかったこんな自分のことを、こんなにも想ってくれる人がいるなんて。

 こんなにも愛しい人が、こんなふうに想ってくれることなんて、もう二度と自分の人生の中で巡ってくることなどないだろう。

 愛しい人にこんなふうに抱きしめられることも、もう二度とあり得ないだろう。



「もう、心の内だけにとどめることなんてできない。……君が好きだ、……佳音」



「佳音」と名前で呼んでくれるその響きが、佳音の胸に沁みとおって、もうこれ以上自分を偽ることができなくなる。

 佳音は胸のところで両手を握りしめたまま、ゆっくりと和寿へと向き直った。そして、和寿の懐に潜りこむように、その裸の胸にそっと自分の額を押し付けた。


 佳音の想いを感じ取り、和寿も目を閉じて、深く息を吸い込んだ。

 佳音の肩と背中に回された和寿の腕に、いっそう力がこもる。佳音も手にあったタオルを落として、和寿の背中に腕を回し、力を込めた。



 ――今、このひと時だけ……。この人を愛することを、この人に愛されることを、許してください。



 和寿を抱きしめ、和寿から抱きしめられながら、佳音は、幸世にだけでなく自分の中の信念やこの世のすべてのものに対して、許しを求めた。


 抱擁が緩められ、再び唇が重ねられる。キスはすぐに次の衝動を呼び起こし、それから――、佳音はもう何も考えられなくなった。すべてを和寿の手に委ね、大きな渦の中に巻き込まれていく。

 

 いつの間にかベッドの上に横たわり、顔に首筋に胸元に、和寿からのキスの雨を受けていた。何にも隠されることのない白く滑らかな肌の上を、和寿の手のひらと唇がたどる。愛しい人から愛されない限り、もたらし得ない、佳音にとって初めての感覚。


「…あ…っ!……古川さん……!」


 繰り返される愛撫の波に溺れて、思わず佳音が和寿にしがみついて声を上げる。すると、和寿は息を荒げながらも、佳音を見つめて言った。


「古川じゃなく、下の名前で。僕に抱かれながら、僕の名前を呼ぶ佳音の声が聞きたい」


 そう言われても、そんなふうに呼んだことのない佳音は戸惑ってしまう。頬を上気させ、大きな目を見開いて、和寿を見上げてつぶやく。


「……和寿さん……?」


「うん」


 佳音がただ名前を呼んだだけで、和寿は満ち足りたように微笑んだ。

 その笑顔を見て、また佳音の中に想いが溢れてくる。切なさを帯びた佳音の眼差しに見つめられ、和寿のそれも切なくなり、お互いの指を絡めながらキスが繰り返される。


 真綿で包まれるような和寿の愛撫がだんだんと力強くなり、佳音の想いも体もますます熱くなって来たとき、鋭い感覚が佳音を貫いた。


「……!!あ……っ!」


 思わず体も表情もこわばらせて、佳音は悲鳴のような声を上げた。

 佳音のこの反応に、和寿は心配そうに眉根を寄せて、枕に頭を預ける佳音を見下ろして見つめた。


「……佳音?もしかして、初めて?」


 佳音は痛みで涙のにじむ目で和寿を見上げ、かすかにうなずいて、その問いに答えた。


「じゃ、痛かったね。つらいなら、もうやめようか?」


 優しい和寿は、佳音の頬をなでながらそう言ってくれたが、佳音は今度は首を横に振った。


「あなたとつながれて、うれしいのに……」


 佳音がそう言うのを聞いて、和寿はその表情から憂いを消し、また微笑んだ。けれども、すぐにその微笑みも消え、真剣な目で佳音を見つめ直すと、その想いを表すようにまた口づけた。



「好きだよ……」



 佳音が耳元でその囁きを聞いた後、和寿は再び動き始めた。いつもの優しい和寿とは違う、止められない想いと衝動がもたらす激しさ。痛みだけではない繰り返される甘い感覚に、佳音は圧倒されて自分が分からなくなる。



「和寿さん……!」



 その感覚が膨らんではじけ飛ぶ瞬間、佳音は思わず助けを求めるように、その名を呼んでいた。寄せては返す波が尽きるまで何度も何度も、佳音は愛しい人の名前をつぶやいた。



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