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雨の夜 Ⅰ

 


 どんなに夜遅くまで仕事をしても、……たとえ泣き明かした夜の次の朝でも、佳音はきちんと7時には目を覚ました。

 どこに勤めに出るわけでもなく、この工房を切り盛りしているのもたった一人。だからこそ、自分の中に一定の規定を作っておかないと、生活全体が緩んで仕事にも支障が出てしまうからだ。


 とはいえ、佳音が独り暮らしを始めて、こんなに眠れないほど泣いた夜はない。自分の体のどこに、こんなにも涙が詰まっていたのかと思う。しまいには、何が悲しくて、どうして自分が泣いているのかも分からなくなった。

 けれども、どんなに泣いても、こうやって朝はやってくる。コツコツと仕事をこなしておかないと、〝納期〟というものが迫ってくる。それが、今の佳音の現実だった。



 泣き腫らした顔を洗って朝食を済ませると、身支度を整える。それから工房やダイニング、玄関回りなどの掃除をして、花の手入れをする。昨日と同じことを繰り返して、9時には工房を開け、ドレス制作の作業に取り掛かる。


 ウェディングドレスを作り上げる膨大な過程は、佳音の頭の中で緻密に組み立てられていて、それを一つ一つ積み上げて、ドレスは形作られていく。佳音は毎日せっせと、その一つ一つに向き合って心を込めて作業を行った。


 ドレス作りに心を込めていれば、余計なことを思い出したり考えたりしないで済む……。そのために、佳音は以前よりももっとストイックに作業に没頭した。


 それでも、体に残る感覚は、ふいに佳音の意識の表面に浮かび上がってきて、その集中を乱した。


 和寿の腕の中の温かさ。唇が重ねられていた時の感覚。


 和寿につながるものすべては、佳音が求めてやまないものだった。

 追い求めるのはもうやめるよう、どんなに自分自身に言い聞かせても、自分の心に深く刻まれた想いは消すことができなかった。


「……あっ……!」


 鋭い痛みに覚醒すると、針先が指を突いて、血が球となって膨れ上がっている。ドレスの白い生地に血液を落として汚さないよう、佳音はとっさに指先を口に含んだ。

 佳音は一息ついて、立ち上がった。工房の戸棚にある救急箱から絆創膏を出して、指先に巻き付ける。


 思い返せば、抱きしめられたことも、熱くて深い視線を注がれたのも、和寿の感情を映した行為だったのかもしれない。

 いつから和寿は、そんな感情をその眼差しに潜ませていたのだろう…。

 和寿の心を思うと、にわかに佳音の心も乱れてくる。怪我をした指の痛みよりも、もっと痛みを伴う切なさに突き上げられて、胸が疼き、何も手につかなくなる。


 いっそのこと、そんな和寿の気持ちを知らなければよかったと思う。絶対に想いが届かないと思っていれば、このどうにもならない感情を自分の中だけで処理することも、もう少し簡単だったはずだ。



 そして、夜になれば、この葛藤はもっと複雑に佳音に絡みついた。

 気持ちが通じ合っていると知って、佳音の求める心はどうしても、以前よりもいっそう強くなってしまう。和寿に会いたくて会いたくて、体が震えて自然と涙がこぼれて落ちる。


 本当に自分のことが好きなら、なにもかも投げ出して、またここにやって来てほしい。自分だけの人になって、もう一度キスして……抱いてほしいと思う。


 ……でも、それだけは絶対に望んではいけないこと。


 和寿は『もう戻れない』と言ったけれども、戻れないならば、どこに向かって行くというのだろう……。

 幸世とのつながりを断ち切ってしまうと、和寿は会社にはいられなくなる。和寿が半生をかけて懸命に築いてきたものすべてが、瓦解してしまう。

 自分たちが向かって行ける場所なんて、どこにもない。それでも敢えて、暗い闇の中へ突き進んで行くのなら、和寿に待っているものは破滅だけだ。


 自分には、幸世のような力はない。……こんな存在している価値もないようなちっぽけな自分では、和寿を幸せにはしてあげられない。


 こんなふうに思い悩む以前に、和寿がこの工房に来ることは、もうないだろう。


 自分は和寿に「もう来ないでほしい」と言ってしまった。そして、律義な和寿はその言葉を忠実に守っている。あれから梅雨も明けて、もう半月が過ぎようとしているのに、工房には姿を現していない。

 半月どころではない。これから多分、もう二度と和寿に会うことはないだろう。きっとあの夕立の日が、和寿との最後の日になってしまうのだろう。


 本当にそうなってしまうのだったら、あの日のあの激しい雨の中で振り向いて、和寿の姿をきちんとこの目に刻み付けておけばよかったと思う。

 こんなに胸が痛くなるほど愛しい人なのに、その最後の姿が佳音にはうまく思い出せなかった。


 想いが通じ合う前よりもいっそう苦しくて苦しくて、痛みの波が絶え間なく打ち寄せて、佳音は眠れなかった。そして来る日も来る日も、涙で曇った眼で朝を迎えた。





 8月に入り、幸世のウェディングドレスも完成に近づいてきた。納期は8月の中旬にしているので、この調子ならば予定通り幸世の手に渡せそうだ。

 何とかここまでたどり着けて、佳音はホッと胸をなでおろしていた。


 幸世はデザイナーとしてのセンスも高いらしく、とても可憐でいて上品で、洗練されたドレスを思い描いてくれた。それに加え、物惜しみせず最高級の素材を選んで作られたこのドレスは、佳音がこれまで手掛けてきたドレスの中でも最高の出来になるだろう。



 工房の近くには大きな木などないのに、どこかしこから賑やかなセミの鳴き声が聞こえてくる。工房が面する通りは8月の焼けつくような太陽に照らされて、今日も暑い日になりそうだった。

 窓の外の景色を目にして息をつきながら、佳音は作業台の上にパターン用紙を広げた。今は、幸世のドレスの仕上げをしながら、新たな依頼主のためのドレス作りが始まっている。



 そんな、いつもと同じように淡々と終わっていこうとしていた日の夜だった。昼間の晴れ渡った炎天下が嘘のように、夜遅くなって突風が吹き始め、雨が降り出した。


 こんなふうに降る雨を見ていると、雨宿りのあと和寿のもとから逃げるように帰ってきた、あの日のことを思い出す……。

 唇を、そこに残る感覚とともに噛みしめながら、窓のカーテンを引き、佳音は無理やりに切なさを締め出した。



 シャワーを浴びて、余った布を利用した自作のネグリジェを着て、髪を乾かす。

 寝る前にパソコンのメールをチェックをして、これからの仕事の段取りを考えていたとき、佳音の携帯電話が鳴った。知らない番号からの着信だったが、ウェブ上でも公開し仕事にも使っている電話だったので、こういうことはたまにあることだった。佳音は、特に気に留めることもなく、その電話に出た。


「佳音ちゃんの電話かい?」


 いきなりそんなふうに呼ばれたので、佳音はギョッとして息を呑む。それに、この声には聞き覚えがあった。


「俺、惣菜屋の謙次だよ」


 その名前を聞いて、思わず佳音は身構えた。こんなに夜遅く、どうしてこの男は電話なんてかけてきてるのだろう。


「……なにか、ご用ですか?」


 佳音は自分の声色が険しくなっていることに気づきながらも、きわめて冷静を装って謙次に応対した。謙次もいつもの調子で、佳音に要件を話し始める。すると、その内容は、佳音がいつも危惧するものではなかった。


「佳音ちゃん、あの例の彼氏となんかあったのか?」


「……え?」


「さっき工房の前を通りかかったら、あいつ、この雨なのに傘もささずに、ずっと佳音ちゃんの工房を見上げたまま、道路に突っ立ってるぜ?なんか、目つきも危なくてよー。うちの母ちゃんなんか、警察に通報した方がいいんじゃないかって言ってるんだけど」


 それを聞いて、佳音の血相が変わる。電話を耳に当てたまま、通りに面する窓辺に行って、カーテンをめくって外を確かめた。

 激しく降る雨の中、謙次の言ったとおり、通りの街灯の下で濡れながらたたずむ男の人影が見える。顔は見えなくても、佳音にはそれが和寿だとすぐに分かった。


「もしかして佳音ちゃん、別れ話がもつれて、あいつにストーカーされてんじゃないか?いきなり警察もアレだから、今日のところは、俺があいつを追い払ってやろうか?」


「……やめてください!」


 もちろん、謙次は親切からそう言ってくれているのだとは分かっていたが、佳音は思わず大きな声を出してしまっていた。それから、少し冷静な態度になって、謙次が誤解しないように説明する。


「大丈夫です。……ちょっと、ケンカをしてしまって……、ストーカーなんかされていませんから。でも、教えてくれてありがとうございました」


 謙次にそう言ってから電話を切るや否や、佳音はネグリジェ姿のまま傘を持って外へと飛び出した。


 アパートの出入り口から降りしきる雨を横切って、和寿のもとへと駆け寄る。佳音がそっと傘をさしかけると、和寿はうつろに漂わせていた視線を佳音へと合わせた。


 雨の中にいた和寿は、当然いつものビジネススーツで身を固めた清廉さはなかったが、顔色は悪く頬やあごには無精ひげが生え、そのやつれ方はただ濡れそぼっているからだけではなかった。

 それでも、優しくて深い眼差しはいつもと変わらず、じっと見つめられると、佳音は胸が詰まって何も言葉が出てこなかった。すると、和寿の方が口を開く。


「……君には会ってもらえないと分かってたけど、もうどうにも我慢が出来なくなって……」


 和寿のその言葉を聞いて、佳音は胸が締め付けられて体が震えた。和寿の想いが現れたこの行動に、何と言って答えたらいいのか分からなかった。


「……とにかく、こんなに濡れてるから、工房へ……」


 とりあえず、佳音は和寿にそう声をかけたが、和寿は首を横に振った。


「……来ないでほしいって、言ってただろう?」


 つぶやくように発する和寿の思いつめた表情を見て、この半月もの間、佳音が悶えていた苦しみを、和寿も共有していたと覚る。

 佳音の中にも、和寿に対する想いが溢れ出してくる。想いとともに込み上げてくる涙を押し止めるように、佳音は手を伸ばして和寿の腕を取った。

 

 その瞬間、和寿の腕の冷たさに息を呑む。いつから、どのくらいの時間、和寿はここにたたずんでいたのだろう……?

 佳音は、和寿の冷え切った腕をつかんだまま、工房のあるアパートへ歩き出した。和寿はそれに抗うことなく、黙ったまま佳音に付いて、アパートの階段を上った。



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