戻れなくなるキス
生地屋さんから特別に取り寄せた、佳音も滅多に扱わない最高級のシルク。その上質な手触りと優しく白く輝く光沢感にドキドキしながら、何度も確認して慎重に生地に鋏を入れた。
幸世にフィッティングしてもらった試作品の細かい点を修正し、いよいよ本物の生地を使っての本縫いに入った。
無垢な純白な生地を前にすると、佳音も自然と無心になる。
ここからドレスを作り上げていく過程……、それはどんな状況にあっても、佳音にとっては待ち望んでいること、“喜び”に違いなかった。
逆に、佳音は無心になれるドレス作りに没頭した。夜になって押し寄せてくる、恐ろしいほどの切なさと苦しさから逃れるために、寝る間を惜しんで作業を続けた。
折しも、新しい依頼が舞い込んだ。また、何もないところからのドレス作りが新たに始まる。幸世のドレスやほかの細々とした小物づくりなどと同時進行で仕事をこなさねばならず、佳音は他のことは何も考えられないほど忙しく、息つく暇もないほど働いた。
必然的に、自分の生活のことは後回しになる。なかなか商店街の方まで足を運ぶことができず、食事も近所のコンビニで買って済ませることが多くなった。
「お!佳音ちゃんじゃないか」
夜遅いコンビニで、いきなりそう言って声をかけられた。男の声に、佳音は返事をするよりも先に、思わずビクッと体をすくめた。声の主を確かめると、魚屋のおじさんだった。
「……こんばんは」
佳音は幾分肩の力を抜いて、おじさんにほのかに笑いかけた。
「この頃、姿が見えないと思ったら、こんなところで弁当なんか買ってるのか?コンビニの弁当なんか食っちゃだめだよ。添加物だらけで体に悪いぜ?」
と、おじさんは、弁当を並び直していたコンビニの店員や、今まさに弁当を買おうとしていた客にも筒抜けの大声で話しかけてくる。
その無神経さに苦笑いしながら、佳音は肩をすくめた。
「そう言う魚屋さんも、お弁当買ってますね」
佳音が突っ込んだ通り、おじさんの手には小さな弁当があった。おじさんは佳音に一本取られたとばかりに、ガハハ!と豪快な笑い声はコンビニに響き渡った。
「俺もちょっと、小腹が減ってな。俺みたいなオヤジは、今更何食べたって構やしないんだよ。だけど、若い娘はこれから子どもも産むだろうから、体は大事にしなきゃな」
おじさんの言葉が、キュッときしみながら胸に沁みていった。父親のように心配してくれるありがたさと、子どもを産むことなんてないだろうと思ってしまう寂しさを伴って。
「……はい。気をつけます」
佳音が素直にそう言ってうなずくと、おじさんもニッコリと笑いかけてくれる。
コンビニを出て、おじさんは何気なく佳音の工房の近くまで送ってくれて、魚屋の方へ向かう分かれ道の街灯の下で別れた。
こんなふうに、縁もゆかりもない自分のような人間に優しくしてくれる魚屋のおじさん――。彼のような人柄が、佳音はとてもうらやましかった。
工房へ上がる薄暗い階段を踏みしめながら、佳音は思う。魚屋のおじさんからのものに限らず、人の優しさを心から快く感じて、自分も同じものを返したい……と。まずそれができなければ、誰かのために生きていくことなどできはしない。だから、それができない自分には、本当の幸せなど訪れはしないのだ。
だけどそうなるには、佳音の心を覆う鎧があまりにも強固すぎた。自分を守るためだった心の鎧が、却って本当に強くなることを阻んでいた。それは分かっていたけれど、一度まとった鎧を脱ぎ捨ててありのままの自分をさらけ出すのは、佳音にとって簡単なことではなかった。
仕事が立て込むときにはそれが集中するもので、ネットで依頼を受けて制作している細々とした小物づくりの仕事が立て続けに入ってきた。
佳音はこの日も、注文を受けたヴェールとリングピローを丁寧に梱包し、依頼主へと発送した。
出かけるときには、初夏の晴れた空から照り付ける太陽がじりじりと熱いくらいだったのに、天気はあっという間に急変して、佳音が郵便局を出るときには、厚い雲に覆われ辺りはどんよりと暗くなった。
――……わ、降ってきそう。
荷物を発送した後でよかったと思いながら、工房への道を急ぐ。けれども、工房にたどり着く途中で、大粒の雨が落ち始めた。
視界さえも見通せなくなって、佳音は、開店前でまだシャッターの閉まった居酒屋の軒先に駆け込んだ。
荒くなった息が落ち着く間もなく、佳音と同じように、そこにビジネススーツの男が駆け込んでくる。
顔を確かめる前に、佳音の心臓がドキンと反応した。その男も佳音を見て目を丸くし、そしてひと息つくより前に、佳音に微笑みかけた。
「……急に降ってきたから、ビックリしましたね」
和寿は、肩を上下させながら、優しく語りかけてくれる。幸世の前では決して聞くことのできないその言葉の響きに、佳音の胸がキュンと痺れた。その感覚に耐えながら、ほのかに同意の意味の笑みを浮かべる。
「今日は、次の会議までに少し時間が空いたので、ちょうど工房へ行こうと思っていたところでした」
それを聞いて、佳音の中にチクンと痛みが走った。
「もう和寿には会わない」と、この前固めた決意が、佳音の心に過る。
「ちなみに、今日は手ブラです」
佳音の決意など知る由もない和寿は、そう言いながらおどけるように肩をすくめて笑った。
その笑顔を見て、佳音の心の中の決意が揺らぎそうになる。
今のまま何も告げなかったら、和寿との楽しい時間を過ごすことができるだろう……。この愛しい笑顔に、まだ何度かは会うことができるだろう……。
「あれから、海外への出張なども入って忙しくしてて、しばらくご無沙汰でした。森園さんは、お変わりありませんか?」
いつものように語りかけてくれる和寿の穏やかな声を聞きながら、佳音は唇を噛んで思い迷った。
……でも、一緒にいられる刹那的な時間の先には、何もない。これ以上、和寿と一緒にいても何も生み出せない。却って後からもっと辛くなるだけだ。
それに何よりも、このままこういうことを続けていたら、和寿の周りの人間がそれに気づいてしまうかもしれない。そのことが幸世やその父親の耳に入りでもしたら、和寿の立場に関わり、彼自身のためにはならない。
和寿は、自分の問いかけに佳音が答えないので、水滴がついた顔から笑みを消し、問い直すように佳音の表情を確かめた。
考える佳音からは、依然として何も言葉が出てこない。激しく打ち付ける雨音に取り巻かれて、佳音にはいっそう追い立てられているように感じられた。
佳音は、噛んでいた唇を緩め、覚悟を決めるように一息深く吸い込んで、口を開いた。
「……もう、工房へは来ないでください」
佳音の心の奥底では反対のことを叫んでいるのに、口の方が意思に反して勝手に動いているみたいに感じた。
和寿の表情が佳音の言葉に反応し、途端に暗く曇っていく。
和寿も黙ってしまい、二人の間には言葉が消え、ただおびただしい雨粒が落ちる音だけが辺りに満ちていた。
和寿は真剣な目で佳音に向き直り、沈黙を破って切り出した。
「なにか……、僕は気に障るようなことをしましたか……?」
そんなふうに和寿が自身のことを責めてしまうと、これまで和寿が示してくれた親切を踏みにじっているようで、佳音は申し訳なさで胸が押しつぶされそうになる。
加えて、愛しい人から離れていかなければならない現実に、心が悲鳴を上げて、あまりの切なさに目には涙が浮かんでくる。
「……そうじゃありません。古川さんがなにかしたとか、そういうことじゃないんです。……ただ、このままだと、戻れなくなってしまうんです……」
どこに戻れないというのだろう……。
こんな説明の仕方では、和寿には何も伝わらないと、佳音は思った。けれども、今ここで自分の心のすべてを、吐露するわけにもいかない。
大きな音とともに路面をたたきつけている雨を見つめ、涙をこらえて言葉を詰まらせる佳音の横顔を、和寿はじっと見つめている。
「僕は……、もうとっくに、戻れなくなってる」
絞りだされるようにつぶやかれた和寿の言葉が耳に入ってきて、佳音は和寿を見上げた。和寿の眼差しに射抜かれて、佳音はその意味を探るように見つめ返す。
すると、和寿は自分の言葉を補うように、佳音の両肩に手を置いて抱き寄せると、その唇に自分のそれをそっと重ねた。
佳音の唇の柔らかさを確かめながら、自分の想いを語るような和寿のキスの間、佳音はそれに対してどう反応していいのか分からなかった。思ってもみなかった突然のことに、心も体も固まってしまっていた。
佳音がずっと心の中に抱えていた想いを、和寿も共有してくれていたということだろうか……。
このまま、和寿の背中に腕を回して抱きしめ返したら、和寿はもっときつく抱きしめてくれるかもしれない。想いのすべてを語って和寿を求めたら、和寿はそれに応えてくれるかもしれない……。でも……。
キスを受けながら、佳音の思考は葛藤で満たされた。迷いの中で唇が離されたとき、佳音の両目からは知らないうちに涙がこぼれ出ていた。和寿に見つめられて、佳音は自分の心をどうやって言い表すべきが、本当に分からなかった。
「……私は、幸世さんのドレスを作っています。私は、幸世さんが幸せに満たされてあのドレスを着てくれることを、心から願っています」
ふいに口をついて出てきたこの言葉が、佳音の本心だった。
このとき、佳音の心を覆い尽くしていったのは、自分の出口のない恋情よりも、幸世とウェディングドレスのことだった。
和寿も、二人の間に横たわる重大すぎる現実を再認識して、切ない目のまま何も言えず、口をキュッと一文字に引き結んだ。
佳音は一歩二歩と後ずさりして、和寿の両手から逃れる。ブラウスの胸のところをギュッと握りしめて、哀しみに耐えようとした。力を込めるほど涙がこぼれてくる両目で、佳音は和寿を見上げる。
「だからもう、これ以上先に進んではいけないんです。……だから、もうあなたには会いません。もう二度と、工房へも来ないでください」
佳音はやっとのことで、ずっと心に決めていたことを和寿に告げると、背を向けた。そして、和寿が応えるよりも先に、白くけぶる雨の中へと駆け出した。激しく降る大粒の雨に痛いくらいに打ち付けられたけれども、佳音は脇目も振らずに工房への道を走った。
とめどもない涙が、雨に溶けて流されていく。どんなに激しい雨にさらされても、佳音の唇に残る感覚は洗い流せなかった。
優しく触れ合った唇、心から愛しいと思う人とのキス――。
それは、佳音にとって生まれて初めてのキスだった。




