現実
佳音の心の中の状況が、どんなふうに劇的に変化しようとも、現実は昨日と変わりなくそこに横たわっている。目の前には、やらなければならない仕事がある。
幸世のウェディングドレス――。
この次の日曜日に幸世がフィッティングに来る予定になっているので、それまでに2度目の仮縫いを終わらせておかなければならない。
好きになった人の花嫁が着るドレスを作るのは、初めてのことではない。
古庄の花嫁になった真琴のドレスを作った時のように、ただ喜んでくれることを思い描きながら、心を込めて作り上げさえすればいい……。
もう完成した姿は、佳音の中で像となって出来上がっている。このドレスを着て幸せそうに笑う幸世の隣には――、和寿も同じ笑顔で笑っている。
いつか訪れる現実が頭を過ると、にわかに佳音の心は乱れて、針を動かす手も止まってしまう。
そういった意味で、明らかに真琴のドレスを作る時とは違っていた。あの時は古庄と真琴の幸せな姿が早く見たくて心が逸っていたのに、今はこんなにも切なくて苦しくて、心が押しつぶされそうになる。
けれども、どんなふうに佳音が思い悩んでも、現実が変わるわけではない。
そして、この仕事を成し遂げないと、たちまち佳音の生活は立ち行かなくなる。生きていくためには、無心になるしかない。佳音はただ懸命に、自分の出来うる限り最高のドレスを作り上げるだけだった。
そんなふうに自分に言い聞かせていても、夜になって作業を終え、ドレスと向き合わなくなると佳音の自制心は途端にもろくなる。
静けさの中、雨の落ちる音を聞いていると、この前の出来事を思い出す。和寿に抱きしめられた時の感覚を、何度も何度も、体の中から呼び起こして噛みしめる。
柔らかく笑う和寿の優しげな印象とは対照的な、力強い腕……。
もう一度、あんなふうに抱きしめてもらいたい……。
和寿を恋い慕う心はそのまま、そんな願望となって佳音の中に充満した。
どうして和寿は、自分を抱きしめたのだろう。あの時、抱きとめて助けてくれただけではなく、確かに抱きしめられた感覚があった……。
その理由を考えると、佳音の心の中にほのかな明かりが灯る。自分が“抱きしめられたい”と思っているのと同じように、和寿も“抱きしめたい”と思っているのではないかと……。
けれども佳音は、その明かりを即座に打ち消さなければならなかった。和寿には、あんなに素晴らしい婚約者がいる。あんなに光り輝くような人を愛していないわけがない。
そして自分は、その人が幸せに結婚していくためのウェディングドレスを作っている……。和寿の愛は、そのウェディングドレスよりも、幸世の幸せのために絶対に必要なものだ。
それでも、幸世がいなければ、自分が幸世のウェディングドレスを作っていなければ、和寿とも出会えなかった。
運命のいたずらに翻弄されて、どんなに今の心が苦しかろうと、こんなにも恋しい和寿との出会いは否定したくない。自分の中から和寿がいなくなることを思うと、佳音は切なさで胸が張り裂けそうになる。
夜の街に落ちる雨を見つめながら、いつの間にか佳音の頬にも涙がこぼれていた。しとしとと降り続くこの雨のように、佳音の涙もなかなか止みそうになかった。
梅雨の晴れ間の、太陽のまぶしい日の午後、幸世のウェディングドレスの二度目の試着が行われた。
「こんにちは――!」
いつものように、はつらつとした声が響いて、この日の太陽のような笑顔の幸世が、工房のドアを開けて入ってきた。
不思議なことに、この幸世の明るさは佳音の辛く切なく、暗い心情も忘れさせてくれる。出来上がった仮縫いを幸世に見てもらい、その喜ぶ様を思い描くだけで、佳音の心はうれしさで満たされる。
自分の作り出したものが、ほかの誰かの喜びにつながっている……。それは佳音にとってこの上ない喜びでもあり、この仕事を続けていける原動力でもあった。
「いらっしゃいませ。こんにちは」
待ち構えていたように佳音も玄関に出て、幸世を迎え入れる。
「出来栄えはどう?素敵に出来上がった?」
「最初の仮縫いとは大きく変わっていませんけど、ずいぶん調整したので、着心地も見栄えもかなり良くなっていると思います」
「そうなの?着てみるの、楽しみよ」
そう言いながら靴を脱ぎスリッパに履き替える幸世の背後に、気配を察して佳音の目が自然にそこへ向く。すると、そこには和寿が立っていた。
和寿が一緒に来ることは思ってもいなかった佳音は、声も出せず、立ちすくんで和寿を見つめた。和寿の方も何も言葉はなく、意味ありげにニコリと微笑みかけただけだった。
幸世の背中越しに、二人の視線が複雑に絡み合う。
「……どうぞ」
その視線でのやり取りを幸世に気取られないよう、佳音は逃げるように和寿から目を逸らして、幸世を工房のドレスのもとへと導いた。
幸世のいる前で、どんな顔をして和寿と対面したらいいのか分からなかった。
「わぁ!前と変わってないとは言うけど、やっぱり何度見ても素敵!これで仮縫いなんて信じられないわ!!」
マネキンに着せられた仮縫いのドレスを見て、幸世が感激の声を上げる。その明るさに気を取り直し、佳音は仕事用の笑顔の仮面を被った。
「さあ、こちらで試着してみてください」
和寿がいるので、パーテーションを動かして目隠しを作り、その向こうへ幸世をいざなった。
髪の毛を簡単に結わえてアップし、佳音の手を借りながら、結婚式本番と同じようにビスチェやパニエを着けて、仮縫いのドレスを身にまとう。
仮の花嫁さんが出来上がっていくに連れて、幸世の浮かれた顔つきも、真剣なものに変化していく。身に着けたドレスの仕上がり具合を、余念なくチェックしているようだ。
そして、幸世は佳音に手を引かれて、パーテーションの向こうから和寿の前に姿を現した。初めて見せる自分のドレス姿。幸世はいささか緊張した面持ちで、恥ずかしそうに和寿に微笑みかけた。ダイニングの椅子に座って待っていた和寿も、その光景を見て、口角を上げて優しく表情を和ませた。
こんな二人を目の当たりにして、やっぱりこの二人は婚約者同士なんだと、佳音は痛感する。佳音がどんなに和寿のことを知って親しくなろうとも、この二人の間には立ち入ることができない空気があった。
佳音の胸が痛みを伴って、キュウッと締め付けられる。あまりの苦しさに息もできなくなりそうになる。佳音は何とかそれをこらえて、幸世に向き直った。
「それでは、これから細かいチェックと修正をしていきます」
この仕事はどんな事情があっても、失敗することは許されない。今日のこのチェックの後は、微調整をしていよいよ本縫いに入ることになる。
ダイニングにいる和寿から作業の様子を見つめられていることは、いつもと変わらなかったが、今日の佳音には多大な緊張を強いた。佳音はただ、目の前のドレスだけを見つめ、仕事に集中することに徹した。
「デコルテや、バストの周りはいかがですか?ラインの出方のおかしいとろこや、着心地がしっくりこないところがありましたら、おっしゃってください」
佳音に問いかけられて、幸世は姿見に映る自分の姿をまじまじと見つめなおす。同時に、佳音も幸世と向かい合うように立ったり、近づいてひざまずいたりして、細かい不具合も逃すまいと厳しい目でドレスをチェックする。
「……私、肩が厳つくてイヤになっちゃう。せっかくのドレスも、なんだか想像と違って見えちゃうわ」
幸世がそう口を開いたのを聞いて、ひざまづいて幸世を見上げる佳音の表情が曇った。
「……作り直しますか……?」
そうは言っても、幸世の想像通りのものということになれば、デザインを変える必要が出てくる。そこからやり直すことになれば、またパースを引きなおして仮縫いをする作業を繰り返さなけらばならない。費用の面もさることながら、結婚式までに間に合うかどうか、佳音は不安になった。
「いいえ。マネキンが着ていたものは、想像通りだと思ったのよ?私が自分の体つきを考えずに、ただ理想に走ったのがいけなかったんだわ。でも着たかったドレスだから、これでいいの」
これを聞いて、佳音はハッとした。そういうことはデザインを考える段階で、きちんとアドバイスするべきだったと、気がついた。依頼主が「思い描いた理想のドレス」を作ることばかりに、囚われてしまっていた。客観的に似合うものを提案して、依頼主の理想と擦り合わせていかなければ最終的な満足にはつながらない。
そんなことを思いながら、申し訳なさそうにしている佳音に対して、幸世はいつものように笑って見せた。
「大丈夫。森園さんのせいじゃないわ。この肩がこんなに厳ついのがいけないの。やっぱり、テニスをやってたせいかしら?」
「テニスをしてらしたんですか?」
佳音は幸世に仮のブーケを持たせて、腕の見え方などを確認しながら、気を取り直して合いの手を打った。
「そう、けっこう本格的にね。大学の時にはインカレにも行ったのよ。古川くんも高校時代にやってたらしいけど、私、古川くんだって負かしちゃったんだから!ねえ?古川くん?」
と、背後のダイニングにいて姿見の鏡に映りこんでいる和寿に、幸世は声をかけた
けれども、和寿はそれに答えない。不審に思った佳音は、振り向けない幸世の代わりに、和寿へと視線を向けた。
すると佳音は、自分を見つめていた和寿の眼差しに射抜かれる。いつも作業をしているときに感じるものよりも、もっと深くて熱い視線に、思わず佳音の息が止まった。
目が合っても、和寿は目を逸らさずにじっと見つめ続けるので、佳音は体が熱くこわばってくるのを感じながら、とっさに顔を背けた。
「古川くん?どうしたの?」
幸世から確かめられて、和寿は我に返る。「なんだい?」と答えるように、鏡越しに幸世と視線を合わせた。
「なあに?あんまり綺麗だから、もしかして見とれてたの?」
幸世がそう言って和寿に突っ込みを入れながら、また声を立てて笑う。和寿はそれに何も答えられず、決まり悪そうに肩をすくめ、チラリと佳音へまた視線を向けた。
和寿は、幸世に見とれていたのではない。幸世の側で作業をする佳音を、食い入るように見つめていた。
その視線の意味を考えると、佳音の胸が不穏にざわめいてくる。和寿に対して恋い慕う想いを抱いていることとあいまって、怖くなってくる。
幸世のいないところで、自分たちが何度も会っていることを、幸世に知られてしまうのではないかと……。
やましいことはなにもない。和寿は、ここへドレスの進捗を確認しに来ているだけだ。それでも、和寿が足繁くここに来ている事実を知ってしまうと、幸世はやはり快く思わないだろう。
「それでは、スカートの方に移ります。スカートの丈感やドレープ、後ろのトレーンのチェックをしてください」
佳音は再び、仕事に集中することに努めた。極力、和寿の方には視線を向けないように。
幸世は右を向いたり左を向いたり、鏡に映る自分の姿を余念なく確認し、ほんの些細な要望も逃さず佳音に伝えてくれた。
本縫いを始める前の最後の試着は入念に行われ、その後はいつものように佳音が紅茶を振る舞った。
「そういえば、テニス。最近一緒に行ってないわね?」
紅茶を飲みながら、不意に幸世が先ほどの話題を持ち出して、口を開いた。
「最近どころか、付き合い始めたころ一,二度行っただけだから、一緒に行ったのはもう半年以上も前のことだろう?」
和寿も息を抜きながら、半ば呆れたような受け答えをする。
「まあ、そうね。あなたはいつも忙しいんだもの。テニスなんかする暇ないわよね。私は週に一度はしてるのよ。腕が鈍らないように」
「君だっていつも忙しいじゃないか。それこそテニスやゴルフ、友達と買い物や女子会、朝から晩まで家にいることがないって、副社長も言ってたから」
「アハハハ!私たち結婚しても、きっとすれ違い夫婦になるわね」
和寿から事実を指摘されても、幸世はそれを悲観するでもなく高らかに笑った。和寿はそれに辟易したように眉をひそめて、テーブルの向かいに座る佳音へと目配せした。
こんな目線を送られても、佳音は困ってしまう。幸世に黙って和寿に会っていた後ろめたさに、心臓が押しつぶされそうになる。
しかし、幸世はそんな和寿を見て、佳音に向き直った。
「今日は、本当にこの人、珍しく一緒に来てくれたのよ?二度目の仮縫いができたから試着に行くって言ったら、即答で『行く』って言ってくれたわ。きっと、森園さんに会いたかったんじゃない?」
幸世は笑いを漏らしながら冗談のつもりで言ったのだろうが、幸世のその言葉は佳音の心臓に追い打ちをかけた。ドキンドキンと大きな鼓動が体中に響き渡って、自分が今どんな顔をしているのかさえ意識できなかった。
「また。そんなことを言うと、森園さんが困っているじゃないか。そうやって、周りにいる人間を誰彼かまわずからかうの、君の悪い癖だぞ」
和寿がそう言って、なんと言って答えようかと窮している佳音を助けてくれた。
「アハ!からかっているつもりはないんだけど、ごめんなさい。……あっ!もう四時になるわね。この後レイコと約束があるのよ、映画見にいくの」
幸世は悪びれずに小さく舌を出して謝ると、椅子から立ち上がった。和寿は相変わらず忙しい幸世に呆れて、諦めのため息をつき、幸世はそんな和寿に振り返って笑いかける。
「あなたも一緒に来る?」
幸世と目が合って、和寿は即座に首を横に振った。
「とんでもない。遠慮しておくよ」
せっかく久しぶりに一緒に過ごせる週末なのに、この二人にとってお互いと一緒にいることは、一番大事なことではないようだ。
「それじゃ、あなたはここで森園さんとゆっくりして帰るの?」
幸世からそう言われて、和寿は目を丸くして幸世から佳音へと視線を移した。いつも和寿がこの工房に来ていることを、まるで知っているかのような幸世の言葉に、佳音も息を呑んで固まってしまった。
「とんでもない。なに言ってるんだ、またからかってるんだろう?」
「アハハハハ!あなたこそ、なに焦ってるの?おかしい」
幸世は屈託なく笑いながら、玄関へと向かった。それに伴って、和寿も席を立つ。
「それじゃ、森園さん。この後は本縫いになるのね?」
幸世と和寿のやり取りを側で聞いていた佳音は、不意に仕事のことを話しかけられて、自分を取り戻した。
「はい。これから細かい修正をして、本縫いになります。 幸世さんに選んでもらった生地を使えば、もっと素敵なドレスになりますよ」
玄関まで幸世を見送りながら、佳音も答える。仕事のことになると、しっかりとした口調で受け答えをする佳音を、和寿は表情を緩めて見つめる。
「いよいよね!出来上がるの、とっても楽しみよ!」
幸世は、頬を上気させてその表情を輝かせた。本当に、和寿の花嫁になるのを心待ちにしているようだ。
工房のドアを開けて先に幸世が出ていくと、和寿が佳音へと振り返った。
「お邪魔しました」
それから何も言葉を交わさなかったが、その眼差しで佳音に語りかけていた。「また、来ます」と。
佳音はその視線に微笑みさえも返せずに、ただ黙って会釈をした。
幸世と和寿が連れ立って階段を下りていくのを見送って、佳音はフーッと息を抜いた。重苦しい緊張から解放されて、一気に体が脱力し、ダイニングの椅子に座り込んだ。
テーブルに肘をついて手のひらを広げてみたら、小刻みに震えている。それを抑え込むように、両手をギュッと握って唇に当てる。けれども、震えは収まることはなく、唇から全身に伝わった。
こんなにも緊張しなければならないのは、秘密を抱えているからだ。幸世には告げないまま、和寿と何度も会っていたこと。そして、幸世の婚約者と知りながら、和寿を好きになってしまったこと。
こんなにも緊張してしまうのは、少なからずそこに罪の意識があるからだ。
テーブルの上に、和寿と幸世に出されたティーカップが、並んで残されている。そこに並んで座り、会話を交わす二人を思い出す。
一緒に来て一緒に帰っていったように、行動を共にする和寿と幸世は、まさに婚約者同士で、これから結婚するべき二人なのだと、まざまざと思い知らされる。
佳音がどんなに願いを込めて祈るように和寿を想っても、この事実は変わらない。
強く強く想っていれば、必ず叶えられる――。
そんな幻想を抱いても、決して叶えられないこともあると、古庄を恋い慕っていた時に思い知ったはずだ。
もう、和寿と二人きりで会ってはいけない。
佳音は、心が切り裂かれるような辛い決断をするしかなかった。これ以上幸世を裏切り続けるようなことをしてはならないと、今日の無邪気な幸世を見て思った。
この想いを抱えて和寿に会い続け、関わりを持てば持つほど、もっと想いは深まってしまう。そしていつか、この想いを持て余して、爆発してしまうのが怖った。
和寿の感情など関係なく、一方的に想いをぶつけて、泣きわめいて駄々をこねて……。――かつて、古庄に対してそうしてしまったように。まだ高校生だったあの時、感情が暴走して、自分で自分を制御できなくなった。
またあの時のようになって、和寿を困らせてしまうかもしれない。
だからもう、これ以上、和寿への想いを募らせてはいけない。
自分のこの恋は、存在してはいけないもの。
自覚してしまった想いを消してしまうのは、とても辛いことだから、せめて自分の胸だけにしまって、切ない思い出のひとつにすればいい。
目を閉じた佳音のまぶたの裏に、夢を語ってくれた和寿の笑顔が浮かぶ。
「……好きです。……だけど」
その和寿に語りかけながら、佳音は握った両手の拳を額に押し当てた。震える唇を噛むと、涙が雫となって、テーブルの上に幾粒も落ちた。
――……もう古川さんとは会わない。
それが、自分自身の幸せを模索する今の佳音にとっての、ただひとつの選択肢だった。




