抱いていた夢
それから間もない週末のこと、工房の照明のランプが切れてしまったので、佳音は午後から工房を閉めて、商店街にある電器店へランプを買いに出かけた。
週末はたまに、ふらりと予約をしていないお客が訪れることもあるが、この日はあいにく梅雨の雨模様。しとしとと降り続く雨のせいでほの暗いこんな日は、商店街の人出も少なかった。
魚屋の前を通る時、例によっておじさんから声をかけられる。
「佳音ちゃん!この前の彼氏は元気かい?」
しかし、おじさんがかけてくれたこの言葉は、例によらなかった。佳音は顔色を変えて、魚屋へ駆け寄った。
「だからあの人は、彼氏なんかじゃありません!」
佳音が必死になって否定しても、魚屋のおじさんはそれを佳音が照れているからだと思い込んでいる。
「またまた!惣菜屋の息子の謙次が落胆してたよ。夜遅い時間に男が来て、『彼氏』だって言ってたって。この前一緒だった彼氏だろう?」
それを聞いて、佳音は言葉を逸する。ここで頑強に否定をしてしまったら、この前和寿がついてくれた嘘が無駄になってしまう。
「その彼氏って、前に花束を持ってきてくれた?白い花ばかりの」
横から口を出してきたのは、ちょうどその場に居合わせた花屋の店主。雨模様でお客の入りも悪く、佳音と同じく少し店を抜けて買い物に来ていたようだ。
「へえぇ?それが馴れ初めかい?キザなことをしても様になるような、イケメンだったもんなぁ!」
そう言いながら、魚屋のおじさんはニコニコと笑っている。
惣菜屋と花屋と魚屋と……。意外なところまで和寿のことが知れ渡っているようで、佳音は困ってしまう。どこまで否定して、何と言って言葉を返していいのか分からなくなった。
「……すみません。ちょっと急いでますので……」
佳音は小さく頭を下げると、逃げるようにその場を立ち去った。これ以上詮索されると、和寿の素性がいつ露見してしまうか分からない。
目的の電器店に向かって電球を買い、帰り道は商店街は通らずに、少し遠回りをして川沿いの道を歩いた。
堤防の上からは、草が繁茂する河原を川が音もなく流れ下っている光景を見渡せる。
こんなふうに雨の降りしきる中をただ一人歩いていると、自分なんてこの風景の中に紛れて、このまま消えてしまってもいいような存在に思えてくる。
本当は急いで工房に戻る必要なんてない。こんな雨の日に、誰にも忘れ去られているような工房に、やって来る人間などいない。
……来るとしたら、それこそ和寿くらいのものだ……。
和寿のことが心に過ると、佳音には言いようのない苦しさが立ち込めてくる。これ以上苦しくなりたくないから、もう和寿には会いたくない。
……会わない方がいいと思うけれど、心のどこかではまた和寿に会いたいと思っている。
こんな矛盾を抱えて、いっそう佳音の思考は和寿のことでいっぱいになる。佳音の目にはもう、雨の中の川も街の風景も映っていなかった。
唇を噛みながら、傘の持ち手に力を込めて苦しさを締め出そうとした時、雨が落ちる向こう、佳音の工房があるアパートの出入口にたたずむ人物が目に入ってきた。
その人物はスーツ姿ではなく普段着を着ていたけれども、確かめなくても和寿だと、佳音にはすぐに分かった。
和寿は、佳音が帰ってきたことに気がついて、ニコリと笑顔を向けてくれる。
「工房は留守でしたけど、しばらく待ってたら帰ってくると思っていました」
そう言って迎え入れてくれるような和寿の手には、今日も紙袋に入れられた小さな箱が携えられていた。会釈をして傘をたたむ佳音に、和寿が付け足す。
「今日も、ケーキ持って来てみました」
一緒に階段を上りながら、佳音が和寿を見上げると、和寿はかげりのない笑顔を返してくれる。この前とは打って変わって弾んだようなその雰囲気に、佳音は少し面食らってしまった。
まるで同棲している恋人同士のように、連れだって工房の中へ入ると、和寿は逸る気持ちをもう抑えられないらしい。
「すみません。お皿借ります」
と、かつて知ったるキッチンの戸棚から、皿を2枚とフォークを2本取り出した。
佳音がお茶を淹れるどころか、帰って来て落ち着くのも待たずに、和寿はダイニングのテーブルの上にケーキの載った皿を差し出した。
「どうぞ、食べてみてください」
佳音の前に置かれたケーキは、この前のような技巧が凝らされたものではなく、シンプルなチョコレートケーキだった。促されるままに、佳音はそのケーキをひと口食べてみる。
噛んで、飲みこんで…。それから佳音の顔つきが覚醒する。何も言わないうちに、確かめるように再びケーキを口に運んだ。
「これ……、美味しいです!すごく深い味で、この前いただいたケーキよりずっと……!」
そのケーキの味に、佳音はすっかり驚いてしまい、思わず思ったままをつぶやいていた。
佳音の様子をじっと窺っていた和寿は、その言葉を聞いて誇らしいような恥ずかしいような、何ともいえない笑顔を見せた。
「そのケーキ……。実は僕が作ったものなんです」
「え……!!」
和寿の告げた事実は、佳音の驚きをもっと色濃いものにした。驚いたまま言葉もなく見つめてくれている佳音に、和寿は言葉を続けた。
「……これが、僕の夢でした。……兄が死んでしまうまでは、僕はケーキ職人になりたいと思っていたんです」
それを聞いて、佳音はいっそう目を見開いた。それから手元に視線を移して、二口食べてしまったケーキをしみじみと見つめる。
そのチョコレートケーキには、粉砂糖がふられ、泡立てられたクリームとミントの葉がきちんと添えられて、まるでお店で出されるもののようだった。
このケーキを見ていると、佳音の胸が締め付けられるように震えた。決して悲しくはないのに、涙が込み上げてくる。
「……森園さん?」
突然涙ぐんでしまった佳音の様子に、和寿が覗き込んで、心配そうに声をかけてくれる。佳音はうろたえて、目を瞬かせて涙をごまかした。
「あまりに…、このケーキが美味しかったものだから……」
その涙の訳をそう言ってみたが、ケーキの美味しさに感動しているだけではなかった。このケーキに込められた和寿の思いに、佳音の心が共鳴していた。
……和寿が、自分の夢を思い出して、語ってくれたことがうれしかった。
「ありがとうございます」
と言って笑ってくれる和寿に、佳音はとてもうれしく感じている今の思いを伝えたいと思った。
けれども、「頑張って、夢を追いかけてください」と、口まで出かかっていた言葉を呑み込んだ。
和寿のこの夢は、今からでは実現不可能だろう。今の和寿の責任ある立場が、それを許さない。
「……こちらこそ、こんな素晴らしいものを食べさせてもらって、幸せです」
それが、佳音の精一杯の“気の利いた言葉”だった。それを聞いて、和寿は柔らかく微笑む。
「どうぞ、残りも食べてください」
佳音も頷いて、再びフォークを手に取る。
佳音の長いまつ毛で縁どられた大きく澄んだ瞳が、再びケーキを見つめる。細い指がフォークを握り、ひと口ずつケーキを切り取り、口に運ぶ。その度に、ゆるく一つに束ねられた佳音の長い髪の、耳元の後れ毛が揺れる。
バラ色の唇や栗色の髪は、普段日に当たることのない佳音の透き通るような肌の白さを際立たせた。
この工房という名の小さな箱の中に閉じ込められた、宝物のような女性……。
向かい合う佳音の、そんな美しく可憐な様の一つひとつに、和寿の視線は捕らえられたように動かせなくなる。
すると佳音は佳音は顔を上げて、その表情に笑みを浮かべた。その途端に花が咲くように、可愛らしさが加わる。
思わずそれに見とれてしまう和寿を、佳音は首をかしげて見つめ返した。
「古川さんは、召し上がらないんですか?」
佳音から声をかけられて、和寿は我に返りぎこちなくケーキに目を落とした。
「…ぼ、僕は何度も味見をしてるんで、もう美味しいのかどうか分からなくなってるんですけど……」
そう言いながら、無造作に一口パクッとケーキを自分の口に放り入れる。
少し照れくさそうにする和寿を微笑ましく感じながら、先に食べ終わった佳音は、紅茶を淹れにキッチンへと立った。
それから二人はゆっくりと紅茶を飲んだ。
時折交わされる会話も言葉少なで、静かな時間が流れていく。沈黙が漂っても不思議と気まずくはならず、穏やかな空気がダイニングを取り巻いている。しとしとと降り続く雨粒の規則的に落ちる音が響いて、二人でそっと耳を澄ませた。
「そろそろ仕事を再開します」
佳音がそう言って席を立ったのは、和寿がやって来て1時間が経とうかという頃だった。和寿は頷くだけで、その場を動こうとはしない。和寿が佳音の作業するところを眺めるのは、いつものことだった。
ところが、佳音が工房の電灯のスイッチを入れても、明かりが点灯しない。佳音は電球が切れていたことを思い出して、先ほど買ってきた新しいものを取り出し、取り換える作業を始める。
佳音が奥の部屋のドアを開けると、そこはベッドやチェストの置いてある佳音の生活の場だった。そこから小さなスツールを持ってきて、佳音はそれを作業台の上に置いた。
マネキンに着せられているウェディングドレスを扱わず、そんなことを始めた佳音を、和寿は驚いたような目で見ている。
そして、スリッパを脱いだ佳音が作業台の上に上がったのを見て、和寿はようやく状況を察した。
「電球を取り換えるんですか?そんなことは、僕がやりますよ」
「いいえ。お客さんに、こんなことをやってもらうわけにはいきません」
席を立って作業台の横にまで歩み寄った和寿に、佳音は首を横に振った。ぐらぐらして座りの悪いスツールの上に上がろうとする佳音を、和寿は心配そうに側で見守っている。
「それじゃ、古川さんに古い電球を渡すので、私に新しいものを渡してください」
「…分かりました」
和寿はそう答えながら、電球をはずしにかかる佳音の足元がぐらつかないように、スツールを両手で押さえていた。
はずされた電球が和寿の方へ差し出される。それを受け取ろうと和寿がスツールから手を離した途端、佳音の身体が揺れ手元が狂う。
「……あっ!」
和寿に渡されるはずだった電球が宙を舞い、佳音はそれを落とすまいと腕を伸ばした。
「あっ、あぶな……っ!!」
和寿は言葉を途切れさせながら、体勢を崩して落ちてくる佳音の下へと回り込んだ。
ガシャ――ン!!
電球が床に落ちて割れる激しい音とともに、和寿は仰向けに倒れながら、佳音をその胸に抱き留めた。
和寿の背中が床とぶつかる激しい衝撃が、和寿の身体越しに佳音へも伝わってくる。
間髪入れずに、和寿はスツールが作業台の上で転がっている気配を察する。思わず身を縮めて、佳音を守るようにその腕の中にギュッと抱きしめた瞬間、それは和寿の背後に落ちてきた。
一連の衝撃によって荒くなった息が治まる間、薄暗い工房の中で、二人は横たわったまま動けなかった
雨音だけが響く静けさの中、佳音の耳に和寿の心臓の音が聞こえてくる…。
しかし、佳音の胸の鼓動は落ち着くどころではなく、次第にこの出来事の衝撃よりも和寿の腕の中にいることを意識して激しくなっていく。
「……す、すみません。も、もう大丈夫です。ありがとうございます」
動揺しながらも佳音はやっとのことで、和寿の懐からそう言葉を絞り出した。そして、和寿の胸に手をついてその抱擁から抜け出そうとする。
するとその時、佳音の動きを遮るように和寿の腕に力がこもり、佳音の顔は和寿の胸に押し付けられた。
「……僕の方こそ……」
耳元で囁かれたその声の深さに、佳音の肌が粟立ち震えが走った。抱きしめられていることを感じ取って、全身は硬直するのとは裏腹に、息遣いだけが大きくなる。
佳音は、和寿の放った言葉の意味など考える余裕などなく、ただ動転していた。どうすればいいのか分からず、反射的に身をすくめながら、弾かれるように和寿の腕から抜け出して立ち上がった。
顔は赤くなっているとは思ったが、それ以前にどんな顔を和寿に向けたらいいのか分からない。当然、和寿の表情を確かめて、その言動の真意を読み取ることもできない。
佳音はそそくさと工房の奥からホウキとチリトリを持ち出して来て、飛び散った電球の破片を片付け始めた。
佳音の意識の端で、和寿も立ち上がる。それから、和寿は新しい電球を手に持つと、作業台に上がってそれを取り付けてくれた。
パッと工房が明るい光に照らされても、佳音の心は落ち着くどころではなく、このままでは和寿の前で普通にしていられない。きっと作業も手に付かない。
「……ありがとうございます。助かりました。実は今日はこの後、予約のお客さんが来るんです」
佳音から改まってそう告げられて、和寿も状況を察する。
「そうですか。お忙しいのに、お邪魔してしまいました」
残念そうに応えてくれる和寿に、結局佳音は目を合わすことができなかった。
和寿が工房のドアを閉め、その向こうの階段を降りていくのを見届けて、佳音は体の芯から湧き起こる震えを抑えきれずに、その場に座り込んだ。
本当は、お客なんて来る予定はない。だけど、この小さな工房の中で、これ以上二人きりでいてはいけないと思った。
ドキンドキンと、早鐘のように繰り返される胸の鼓動。
息ができないような苦しさに襲われて、涙が零れ落ちた。
気づいてはいけない。自覚してはいけない。
そう自分に暗示をかけて言い聞かせていたのに、今日の出来事……和寿の抱擁は、佳音の心の堰をあっけなく壊してしまった。
――古川さんのことが、好き……。
もうどうやっても、ずっと前から存在していたこの真実を、ごまかしたり否定したりできなかった。
でも、この真実に気づいても、甘く切ない想いに満たされて心が心地よく痛むわけではなく、ただただ苦しいばかりだ。
どんなに佳音が和寿に恋い焦がれても、和寿は同じ想いを決して返してはくれない。それは、古庄を恋い慕っていた時とまるで同じだった。
こんな思いを味わいたくなくて、ずっと心を閉ざして生きてきたはずなのに……。
その固く閉ざした扉を、ゆっくり開いて光を入れてくれた男性……。
簡単に人を好きにならなかったからこそ、引き返すのも簡単ではない。苦しければ苦しいほど、それだけ和寿への想いが深いということだ。
苦しみが嗚咽となって、口をついて溢れ出してくる。佳音は胸を押さえて、一人で時間を忘れて泣いた。




