北風と太陽
パウダールーム
「あー。なんか今日ハズレ」
「そうかなあ、ミキさん。そこそこレベルは高いと思うけど」
「えー、そう?」
「うん… 私はそう思うけど。あっ、やだ。ピアスの穴が膿んでる」
「疲れてんじゃない?」
「そうかも」
「このあと、二次会とかあっても行かないでしょ」
「うん、そのつもり、かな」
「これさ、割りカンとかだったら、まじ最低だよね」
「いや、さっきヒロシ君がおごりだっていってたよ」
「本当に? だったらもっと料理頼んどけばよかった」
「ミキさんはこの後、どうするの? 家帰る? 」
「どーしよっかなー」
「じゃあさ、時間あるし駅前でケーキか何か食べない? 」
「そうね、全然食べてないしね。あー、でもなんか無駄な時間だった」
「まだ終わってないわよ」
「ていうか、何で今日のメンツ、あんなに若いの。一人は学生だし」
「若いって言っても、3つ下と6つ下なだけじゃない。別に……」
「そうかなー。ねえ、『別に』って、アンタもしかして、いいなと思ってる人がいるの?」
「まあ、いないわけじゃないけど。たとえば右端の男の子はかわいくて良いなと」
「へえー。あの学生が? なんかアイツ童貞っぽくね?」
「どうなんだろ。彼女いないって言ってたけど、ずっとなのかな。大学生なのに?」
「最近の大学生って、別に彼女いなくても平気らしいよ」
「そうなんだ。でもなんか大人しすぎるよね。女の子と喋るのが苦手って雰囲気がするし」
「慣れてないんだよ、女と喋るのも、こういう場も。アンタ、筆おろししてあげなよ」
「やだよ」
「あはは。いいこと思いついた」
「えっ、なに? 」
「あの子で遊ぼうよ」
「なにそれ、ミキさん」
「私たちがあの子に気があるようにみせてあげるのよ」
「それって遊び半分で、ってこと?」
「半分じゃなくて、完全に遊び。ゲームみたいなもの。ゲームなんだから、あなたも一緒にやるのよ」
「つまり、告白され勝負ってこと? もしかして」
「そう、勝負よ。わたしとあなたのどっちかが、あのウブな子から好きって告白されたら勝ちってことで」
「なんか可哀想な気が……。それにミキさん、彼氏いるでしょ」
「いてもいいの。あいつ、誰か知らないけど、いつも違う女と遊んでるんだから。私もたまには遊びたい」
「はは……。まじですか」
「まじですよ。あはは」
「じゃあ、やってみようかな。わたしは――彼氏いなくて暇だし……。ひさびさに若い子と遊びたいし」
「別にヤって損しそうな相手じゃなさそうだしね。まあ、どうせああいうタイプは、これからも絶対モテることなんてないんだから、良い思いさせてあげるってのもいいかもね。暇つぶしどころか、ボランティアみたいなものよ」
「ああ、でもなんか緊張してきた」
「まじで? やばい、うけるんだけど」
「えー、結構わたし、攻めるの苦手なのよ」
「あらそう。全然そう見えないけど。で、勝負なんだから、何掛ける? 」
「うーん。じゃあ――カレイドポップコーン二人分っていうのは、どうかな? 」
「は? それ安くない? でもまあ、並ばずにカレイドのポップコーンが食べれるのはいいかも」
「つまり、負けたほうが並ぶってことで。ミキさんと言えども、並んでもらうからね」
「いいけど、わたしのこと『ミキさん』って言うのはやめてもいいのよ。こういう場なんだから。なんかよそよそしいじゃん」
「ああ、つい癖で――。あっ、誰か来た」
「じゃあ、行こっか。いい? 勝負よ」
とある居酒屋のテーブル
「遅かったね、トイレ」
と二人の姿を確認するなり発言したのは、幹事のヒロシさん。この人は僕の兄と同じ会社の同僚だという。顔はイケメンの部類に入るほうだと思うこの人は、グレーのワイシャツに、少し緩めたブルーの水玉ネクタイという涼しげな格好で、テーブルの真ん中の席に座っていた。
「うん、なんかちょっと混んでて」
そう返事をしたのは、背がモデルのようにすらりと高く、顔立ちのはっきりとした女の人。とてもタイトで襟ぐりの深いシャツ型のワンピースを身につけているせいか、胸から腰にかけてのラインが素晴らしく綺麗で、その性的な魅力をかなり前面に出していた。顔も美人の部類に入るほうだと思う。合コンなんかしなくても十分、男には苦労しなさそうな容姿だ。
名前は確か――、ミキさん…って言ったかな。なんか皆にそう言われていたような気がする。今日、この人と僕はあまり接点が無かったので、名前がうろ覚えになってしまっている。というか、ここにいる人たちは、一度の自己紹介でよく相手全員の名前を覚えられるなあと感心してしまう。みんな、合コンに慣れている感じだ。
「ねえ君、ちゃんと飲んでる? 席を離れる前と比べて、全然減ってないけど」
トイレから帰ってきたもう一人の女の人が、僕にそう言ってきた。向かいの席に座るその人は、背も高いわけでもなく、ひときわ美人というわけでもなく、ふわっとした服装をしていることから、スタイルが特に良いわけでもなさそうだった。
でも、とても優しそうな笑顔が素敵で、僕はこのテーブルに座っている3人の女性の中で一番かわいいと思っていた。さらに、束ねた髪をお団子みたいにまるめて頭の上に乗せているのが、そのかわいらしさに拍車をかけていた。でも、好みだからと言って、僕のほうから積極的に話しかけているかといえばそうではなかった。なにせ合コンに来たのが初めてだったし、それに女性と話しをすることが苦手だった。
「あっ、飲みます…」
聞かれたことにそう答えて、僕は目の前の、グラス半分くらいの焼酎の水割りを一気飲みした。
「飲めるじゃん。お前の兄貴は全然飲めないのにな」
と今度は僕の隣の隣、つまりテーブルの反対の端っこに座っている体の大きい男性が言ってきた。名前はタツヤさんというらしい。僕のことを気に掛けて、何かと話しかけてくれるのがありがたかったのだが、ことあるごとにお互いの隣の、つまりテーブルの中央の席に座っているパーマをかけた女性の体を触っているのが気になっていた。
今日は男性三人、女性三人の合計6人での合コンだ。
その6人がけのテーブルの席順は以下のとおり。入り口を背にして奥側の並びは、僕、名前のわからないパーマの女性、タツヤさん。手前側の並びは、僕から遠い順にミキさん、ヒロシさん、そして、えーと――その、かわいい女性。名前は、なぜか忘れてしまった。なんだったかと必死で考える僕に対し、そのかわいい女性が再び話しかけてきた。
「ねえ、どこの出身なの? 」
僕に向かって優しく微笑んでいる。
「えーと……四国です」
目を見ることができず、うつむき加減に答えると、「四国のどこ?」と繰り出されてきた。ああ、この人の名前を思い出したい。
「えーと……愛媛です」
それに反応するように、ヒロシさんが愛媛って四国のどこだっけ、と言い、それに反応するように他の人たちも、四国にある4つの県の名前をそらんじ始めた。全国から学生が集まってくる大学の、新歓コンパでもよくある日本地図のおさらいだ。
ようやく四国のパズルが、それぞれの頭の中で完成したところで、対角線に座っているミキさんが、よく聞こえる張りのある声で、僕にこう言ってきた。
「愛媛ってさあ、昔みんなで行ったことあるよね? 」
その声に、残りの女性2人も「ある」と同調し、ヒロシさんが「えっ? 何? 3人で旅行したことあるの?」と大げさに反応すると、パーマの女性が3人を代表して言った。
「2年まえの会社の慰安旅行で行ったことあるの。なんとか温泉ってとこ――なんだっけ」
それに答えるように僕は言った。
「えーと、道後温泉じゃないですか」
「そうそう、道後温泉。私達そのころ、同じ部署にいたから部屋まで同じで。宴会で飲みすぎて、ヒトミが布団に吐いて大変だったこと思い出したわ」
僕のアシストを受けて、パーマの女性が色々と思い出したことよりも、そのお陰で向かいの女性の名前がヒトミさんであると思い出せたことがなによりの収穫だった。そのヒトミさんは、「えー。それ今言わなくてよくない」と困った顔を一瞬した後、おかしそうに笑った。
愛嬌のある、本当にかわいい人だった。
その慰安旅行について、別のエピソードを語り続けるパーマの女性へ、彼女は輝くような笑顔をむけていて、僕はその顔につい見とれる。
すると次の瞬間、僕の熱視線に気づいたのだろうか、ヒトミさんが、ふと目を動かす。ゆえに、期せずして目が合ってしまった。僕はあわてて、宙空に逃がした焦点を新しく運ばれた焼酎のグラスに落とす。
「で、愛媛の人って結構お酒つよいの? 」
ヒトミさんが、僕のほうを真っ直ぐ見ながら話しかけてきた。落ちつくために一回、グラスの焼酎で口を湿らせてから僕は、「えーと、普通だと思います」とうつむき加減に返した。すると、
「翔太くんは、あれだよね。いちいち『えーと』が多いよね」
と、テーブルの対角線上からモデルのような人――ミキさんが、厳しい口調の言葉を投げ込んできた。
「緊張してんだよ。仕方ないだろ、慣れてないんだから、こういうの」
僕を救ってあげようと思ったのか、幹事のヒロシさんがそう言ってくれた。
「でもさ、大学生っていうだけで、何かかわいいよね」
さらに、ヒトミさんもそうフォローしてくれた。
その後もどうやら、長く続く話題がなくなってしまい、僕のことを面白がって、みんなで根掘り葉掘り聞き始め、対応に困った僕はたいへん委縮した。
そして、僕の話題にも飽きてきたころ、ヒロシさんの「よしじゃあ席替え」という言葉をきっかけに、それぞれがグラスと皿を持って移動した。まあ、移動と言っても6人しかいないので、男女が交互になるように移動しても、代り映えはまったくしないのだが。
結局、男だけがシャッフルされ、女性は同じ場所で固定された。僕はヒロシさんがいた中央の座席になり、タツヤさんが僕が座っていた場所へ行き、タツヤさんが居た場所にヒロシさんが座る、ということになった。つまり、僕はヒトミさんとミキさんに挟まれて座ることになったのだ。僕はヒトミさんの隣に座ることができたことで、さらに緊張した。
「意外と背が高いのね」
とミキさんが座っている僕の頭からつま先まで、舐めるようにながめてそう言った。あまりにも僕の顔をじっと見てくるので、なんだか蛇ににらまれてるような気がして、照れるよりも先に、困った。
もともと、僕の6つ離れた兄がヒロシさんに呼ばれて、このコンパに行く予定だったのだが、おととい季節外れのインフルエンザにかかってしまい、その代替えとして夏休み前で暇をしていた僕が強制参加させられることになったのだった。兄の代わりなんて、他にたくさん居そうなところ、なぜ僕に兄からの白羽の矢が経ったのか知るところではないのだが、どうせ性格の軽い兄のことだから、「面白そうだったから」という理由を語るに違いない。
そんな感じで合コンはやがて、中盤から終盤に差し掛かり、テーブルの上にはいくつかの食べ残しと、お互いのことを話しつくした後の気だるい空気が滞留してはじめていた。
ヒロシさんは煙草をくわえながら、椅子の背にもたれるようにしてスマートフォンをいじっており、タツヤさんは相変わらず、パーマの女性と顔を寄せるようにして話しこんでいた。そんな状況だったから、僕はひとりで両側の女性ふたりを相手にするはめになっていた。
「ねえー、どうして彼女いないの? 」
とミキさんが僕の肩のあたりに手のひらを当てて、話しかけてきた。さっきから、ことあるごとに僕の体を触ってくる。別に嫌では無いのだが――。
「いや、その、出会いがないと言いますか――」
「ちょっとあれだよね。君、奥手っぽいよね」
「そうですかねえ……。僕の兄は性格が真逆で、とてもモテるんですけど」
「へー、そうなんだ。顔もカッコイイの?」
「どうなんですかね。兄弟だとそういうの、どうかなんて考えないですよね。たぶん、普通です」
「ふーん。そうなんだ」
こんな調子で僕はずっとミキさんに拘束されていて、反対側のヒトミさんと話をすることができずにいた。彼女のほうも、頬杖をついて、つまらなさそうに梅酒の入ったグラスの中の梅を、割り箸の背中で潰していた。
僕はなんとかヒトミさんに話を振ることを考えていたその矢先、突然ミキさんが僕の耳に口を近づけて、こうささやいた。
「ねえ、このあと暇? 」
ドキリとした。なぜこの状況で、僕に突然、そういうことを言うのか、意味がわからなかった。
「い、いや、家に帰ります」
「えー。帰っちゃうの? ねね、飲み直さない? おごるからさ」
耳にかかる吐息と、さらにその綺麗な顔が僕の真横すぐにあって、僕は体を硬くした。その言葉がもし、反対側のヒトミさんからささやかれていたならば、僕は間違いなく付いていく。しかし、美人だが気の強そうな印象のあるこちら側の女性に、正直なところ僕は本能的な苦手意識を持っていた。
彼女の機嫌をそこねないように、「いや、明日の朝からゼミなんで」と丁寧に断り、僕は焼酎を口に付けながら、またヒトミさんのほうをチラ見した。
彼女は相変わらず頬付えをついてはいたものの、顔はこちらを向いており、そのせいでまたしても目と目が合ってしまった。彼女はその瞳をまったく動かすことなく、にこりと笑った。
セミロングでゆるくウェーブのかかった茶色い髪。少したれた目尻。小さな鼻。厚みのある唇。白くてやわらかそうな頬。性格もおっとりとしてそうで、その全ての項目は完璧なほど、僕のタイプにあてはまった。
そんな彼女は、くしゃりとした微笑みを僕の顔に当てたあと、なにも無かったかのように前を向き、グラスの梅酒を飲んだ。
「あー、ヒトミちゃん、酔ってる」
隣のミキさんが、テーブルに身を乗り出し、からかうように言った。違う、と思った。この人は酔ってはいない。僕の確信をよそに、にこやかにヒトミさんは話しだす。
「若いっていいよねー。私たちおばさんになんか、興味なんてないでしょ?」
「いや、おばさんじゃないですよ。おねえさんです」
「あはは。ねえ、翔太くんは年上好き?」
それはもう、たまらないくらい好きです。今日、好きになりました。と返事をしたいところだったが、僕にはそんな勇気もなく、「憧れます」とだけ答えたら、間髪いれずにミキさんが、「なんだそりゃ」という言葉を、僕とヒトミさんの空間にねじこんできた。
その後もことごとく、僕のヒトミさんの会話に口をはさんできたミキさんだったが、口をはさむごとにだんだんと、僕との距離が近くなり、最終的には僕の左側面にぴたりと彼女の体が寄り添うような形になった。そうなると僕は、ヒトミさんとの話に集中することができなくなり、右側はヒトミさんとの会話を、左側ではミキさんの体を意識してしまう結果となった。
「おい、モテモテだな。そういうところは兄貴と一緒だな」
と、誰かとのメールのやり取りを終えたのか、ヒロシさんが僕に揶揄を飛ばしてきた。そして、短くなった煙草を灰皿に押しつけると、「じゃあ、そろそろ行きますか」と3時間ほどのコンパの終了を宣言した。
会計は全てヒロシさんとタツヤさんで済ませてくれた。僕の分の支払いは、兄貴にあとで払ってもらうからと言っていたが、それは本当かどうかはわからない。
店を出る間際、全員でメールアドレスを交換し、僕も形式的に女性3人のアドレスをもらった。忘れないように、その場でそれぞれの名前も一緒に登録したのだが、僕は別に積極的にアプローチする気も無く、年上の女性は高嶺の花だから、とそのときは思っていた。
だから店を出た後も、ふたりから「駅前でケーキ食べないか」と誘われたのだが、他の男性を差し置いて僕だけ、そういうところには行けないという理由で断った。同時にもう会うことはないだろうなという気持ちもあった。
とある日曜日
それから2週間後の日曜日。
僕は、たくさんの女性客がごったがえしているフロアで、大量のブランドのショッピングバッグを両手に抱えて歩いていた。
その中は、すべて女性モノの服やら鞄やらで埋め尽くされている。
そして、通路にあふれる雑踏の中を風のように進んでいく、すらりとしたその女性のあとをひたすら僕は付いていく。
「んー。すごい混んでる。さすがはセールの初日。ちょっとここで待ってて」
とエスカレーターの脇に僕を待機させると、黒髪のロングの女性はそう言って、テナントショップの人混みへと突入していった。
今日、渋谷駅でこの人と待ち合わせをして、そこからこのファッションビルへ向かう途中、何人もの男たちが彼女のことを見ていた。隣に僕がいなければ、間違いなくこの人はたくさんの男性から声を掛けられているに違いない。
「ありがと。私、男が隣にいないと、渋谷とか新宿とか歩けないの。なんかすぐ声かけられちゃうから」
とファッションビルの入り口で、彼女は僕の考えを見透かすように話した。
すでに7月に入ろうかというこの日、外は亜熱帯となり、店内も人だかりが生む熱気のせいで、エアコンたちの吐く涼風が殺されていた。
「はあ、暑い」
額に汗しながら、目の前の群衆の中から、またもや新しい紙袋を下げて出てきた彼女は、僕にそれを渡すと、肩から下げていた革のバッグの中からハンカチを取り出し、自分の額を拭いた。
そして次に、両手がすでにショッピングバッグのせいで不自由になっている僕の額を、その同じハンカチで拭いてくれた。僕よりも少し背の低い彼女の顔が、僕のすぐ前にきたせいで、拭いても拭いても緊張の汗は出続けることになったのだが。
「暑いわ。どこか涼しいとこ、はいろ」
そう言うと、彼女は襟ぐりの深いTシャツの胸元をつかんで前後にあおぎはじめた。その動きに合わせて、深い胸の谷間がはっきりと見える。僕はおもわず眼をそらした。
僕らは昼食も兼ねて、近くのファーストフード店に入った。
てりやきバーガーのセットに単品でチーズバーガー、それにチキンタツタのセット。これが2人で注文したメニューだ。会計は全てミキさんが支払ってくれた。店内はかなり混雑していたが、なんとか2人が座れる席を見つけて、僕らはむかいあわせに座る。
「ごめんね。今日付き合わせちゃって。私、女友達いないからさ」
コーラをストローで飲みながら、ミキさんはうわめがちに言った。この人は、喋るとき、相手の眼を凝視する人のようで、僕はその圧力にときどき負けそうになる。
「いえ、いいんです。僕も暇だったんで」
「あっそ、ねえ今日バイトあるの?」
「いや、今日はないんです」
「じゃあ、夜まで時間あるんだね」
「はい……まあ」
まだ昼過ぎだというのに、このまま夜まで付き合わされるという懸念が頭をよぎった。別にこの人のことを嫌いというわけではないのだが、常に自分のペースを握られているようで、少し苦手だった。なんというか、あまりにも彼女は大人すぎて、あまりにも僕は子供すぎるのだ。
あの合コン以来、ミキさんから毎日メールが届いた。「おはよう。今何してんの?」とか「今日も仕事いそがしかった。もう寝る。おやすみ」程度の一言メッセージだったのだが、僕がきちんとそれに受け答えしているうちに、「明日渋谷に集合。どうせ暇なんだから買い物付き合ってよ」と誘われたのが、つい昨日のこと。僕はそれに「夕方までならいいですよ」と返事してしまい、現在の状況に至っている。
同時に僕は、ヒトミさんともメールをしていた。そちらのほうは、出会った翌日に「昨日は楽しかったね。暇なときは、いつでもメールしてね」というメッセージをくれていたので、そのお言葉に甘えて、僕のほうからメールを2日おきくらいに送っていた。メールといっても「今日は暑いですね」とか「お仕事がんばってくださいね」などという中身の全然無いものだったのだが。でも、そんな内容にもヒトミさんは「うん、暑いね。翔太くんもちゃんと水分とるんだよ」とか「ありがとう。そっちも授業がんばってね」などと返答してくれて、そのたびに僕はニヤついた。声も聴けないし、顔も見えない分、出会った時の思い出の記憶は果てしなく広がり、ヒトミさんのつややかな声と、かわいらしい顔は妄想の中で膨らみ続けた。
そして昨日、ヒトミさんに一通のメールを送った。
それは、勇気を出して一歩踏み込んだ内容だった。
「もし良かったら明日の夜、電話してもいいですか。番号とか教えてもらえると嬉しいんですけど」
そのメールに、「まってまーす」と電話番号と一緒に返事が来たのは、僕がミキさんと今日の待ち合わせ時間を確約したすぐ後だった。
というわけで、いま目の前にいるミキさんに夜まで拘束されてしまっては、ヒトミさんと電話で会話する時間がなくなってしまう。あまりにも夜遅くの電話も失礼だと僕は思っていた。
しかしながら、買い物の用事も食事も済ませ、この時点でまだ14時だというのに、一体夜まで何をして過ごそうというのか。そんな風に思っていた矢先、
「カラオケいこうよ」
とミキさんからの提案。ふたりでカラオケって、付き合って長い人同士が暇つぶしに行う遊びのような気がしてならないのだが、ほかに代替案の浮かばない僕は、それに二つ返事で答えるのだった。
そして、18時。カラオケボックスを出る。
歌いすぎて僕の喉はガサガサに荒れていた。最初はふたりきりの空間に対して、気恥ずかしい思いで歌っていたが、歌というものは素晴らしいもので、順番を重ねるうちにだんだんと気持ちよくなってきて、最後はふたりで流行りの歌を一緒に競演するほどにまでなっていた。
そのせいか、なんとなく僕はミキさんに親近感を抱いていた。
でも僕はそろそろ帰らなければならない。なぜならば、ヒトミさんに電話したいからだ。
カラオケ店内は冷房が効いていて涼しかったが、外は夕方だというのにまだ蒸し暑かった。両手にショッピングバッグを持っているため、少し歩いただけで、ひいたはずの汗が出てくる。歌いまくったせいで、お腹もすいてきた。
「ねえ、晩ごはんも食べていっちゃおうよ」
と誘われて、僕は、
「いや、じつは僕、この後用事がありまして」
とやんわり断ってみた。すると彼女は予想どおり、というよりもむしろ、嫌な予感どおり、怒り始めた。
「は? 一人暮らしで彼女もいない学生のくせに、なに生意気なこと言ってるの。お腹いっぱいになったら、すぐ帰るんだから付き合いなさいよ」
そんな強引さに従わなけばならない腹いせに僕は、生意気ついでにこう言った。
「カラオケもおごってもらっちゃったんで、次は僕が払いますよ」
こうすれば自分のペースで、遠慮無くその場を切り上げられると思ったのだ。
しかし、彼女は、さっきの続きで、少し怒り気味にこう返してきた。
「なに言ってるのよ。私が払うわよ。こっちは働いてるんだから」
とはいえ、自分の買い物分もいれたら、今日の彼女の支払いはかなりの額に達しているはずだと思った。無理していないか心配にもなったので、僕は気を遣ってみた。
「そうですか。じゃあご厚意に甘えさせていただきます。でも店は安い居酒屋とかにしませんか?」
「うーん。そうねえ。そうよね。うんうん。だってあなた私の彼氏じゃないしね。なんか雰囲気いいとこ行かれてもね。じゃあ、どっかテキトーなとこで」
適当って、ちょっとそれは失礼な言い方のような気もしたが、自分で言った手前、僕が店を探すことになった。
非常に多くの居酒屋の中から、良い店を選び出すというのは意外と骨が折れることで、下手な店を選んで、ミキさんに不快な想いをさせるのも男としてダメだなどと考えたりしているうちに、全然店を決めることができず、僕たちはしばらくセンター街周辺をうろうろして、居酒屋の前で看板やら説明書きやらを眺めては、次にもっと良い店があるのではないかと移動し続けた。
そんな僕の優柔不断にいらついたのか、ミキさんは最初ため息をつきはじめ、しまいにはずっとスマートフォンを触り続ける始末で、僕の焦りはますます募るばかりであった。
「はあ、冴えないわね。もう、ここでいいんじゃないの?」
とさまよった挙句の道玄坂の途中の店で、看板を見ながらミキさんが呆れたように言った。
「君、結構決めきれないんだね。もてないよ、そういうの」
僕は「はい。自分でもわかってます」と心の中でつぶやいた。
こうして結局、ミキさんが決めた店に僕らは入店したのだった。
「あのさ、ずっと彼女いないの?」
ビールのジョッキを片手にすでにホロ酔いの彼女は質問した。
店内はそれなりに混んでいて、とても賑やかな感じだった。結果的にどうやら、なかなか良いチョイスだったようだ。4人がけの半個室のようなところに通された僕たちは、向かい合わせに座り、酒を飲んでいる。
「大学に入学してしばらくした時に、入ったばかりのサークル内で出来たんですよ。こんな僕にも。でも、2年生になったときに別れました。むこうにもっと好きな人が出来たとかで。その相手っていうのは、同じサークルの先輩だったんですけど」
僕も同じくほろ酔いで、自分でも驚くほどに饒舌になっていた。僕の身の上話はまだ続き、その先輩に彼女を奪われてサークルを辞めたこととか、その後も好きな人はいたのだが、なかなか付き合うまでには至らなかったことなど、色々と喋ってしまった。
ミキさんは、僕の話に意外なほどきちんと耳を傾けてくれていた。そして時折、曇天の夜空のような暗い顔になり、乱暴にビールをあおっていた。その間に空いたジョッキは4杯。合コンのときは遠慮していただけなのか、その時よりも明らかに速いペースで飲んでいて、この人はお酒に強いのだと思った。
確かに、このときはそう思っていた。
その後、ミキさんは変わらぬペースでお酒を飲み続けたせいで、口調もクダを巻き始め、眼もとろりとしはじめた。酔いに比例して、僕に対する物言いも厳しくなり、
「なんだ。あんた、童貞じゃなかったの。なーんだ。残念」
とか、
「あんたみたいな男は、これからも彼女できないわよ。私と今日一緒にいれてうれしいと思いなさいよ」
などと言い始めた。
もともとこういう飲み方をする人なのか、今日は酔いが回るのがたまたま早かっただけなのか、乱暴なほどにお酒を飲み、乱暴なほどに僕への口調は強くなっていた。それでも、僕はさっきまでのクールで強気な彼女よりも、こちらのほうが楽しいと思えた。
はたから見れば、ミキさんはかなりの美人、といえるが、僕にとってミキさんの顔は、ちょっと冷たい感じがして、可愛げみたいなものがなく、僕の好みではなかったが、いま目の前にいる彼女は酔いのせいで、ほのかな可愛げがあった。
僕も少し酔ってきていたので、言葉で攻められっぱなしというのも芸がないと思い、逆にミキさんにきいてみた。
「ミキさんは彼氏とかいないんですか」
結果、この質問から始まるありがたい反応はなく、返ってきたのは辛らつなものだった。
「は? それあんたに関係あるわけ?」
そういいながら、テーブルの上の刺身のツマを取ろうと持っていた割り箸の先端を僕のほうに向けながら、完全に据わりきった目付きで僕にそう言い放った。僕のことは童貞だなんだと言いながら、色々と人のことは聞いていたくせに、自分の事になると怒りはじめるとは。
「いや、関係ないです」
と僕も伏し目がちな低いトーンで言い返すと、その態度にさらにむっとしたのか、
「なに? いたらダメなの?」
と箸を置き、両腕をテーブルに重ねるように乗せ、こちらをまっすぐ見てきた。
その目は据わっていたが、大きな黒目はしっかりと僕を捕らえていた。すらりと長いまつげはやや斜め上に真っ直ぐ伸び、僕の顔に刺さりそうなほどその一本一本はきめ細かくとがっている。
その眼力の圧力に屈してしまった僕は、思わず自分の視線を、彼女の鼻、口、喉の順にゆっくり下げていった。そして、その終着地点には、シャツの襟からのぞく胸の深い谷間が待っていた。それは、テーブルの上に置いた両腕の、さらに上に乗っていた。
まずいものを見てしまったと僕は目をそらす。別にまずくはないのだが、その視線がたまたま偶然によるものではなく、故意に凝視している、と思われたくなかったからである。
しかし、下に落ちた視線がそこで一瞬静止し、そのあと急いで横に逃げていったせいで、むこうも気付いたのか、からかうように、
「しょうた、あんたいま、私の胸みてたでしょ」
とテーブルの上の両腕を引き締め、胸元をさらに寄せて、僕にさらなる圧力をかけてきた。
「いや、たまたま目に入っただけですよ」
「たまたまって、なにかと事あるごとに見てたでしょ。見られてるときって、女は分かるのよ」
「いや、いやいやいや本当に偶然ですって」
「はあー、まだ言い訳するわけ? でもまあ私の大きいし。よく知らないおっさんとかにちらちら見られるから別に何とも思わないけどね」
「ああ、そう……ですか」
「そうですか、じゃないわよ」
僕には彼女が怒っているのか、楽しんでいるのか、どちらなのかよくわからなかったが、結構酔っていることだけはわかった。そろそろ帰らないと、ヒトミさんに電話する時間なのだが――。
「いやー、飲んだし、食べたね。じゃあ帰ろか」
願いが通じたのか、ミキさんはおもむろにその場を締めようとしはじめた。僕が、その声に応じて会計票を取ろうとすると、察した彼女はさきに奪い取り、「私のおごりだから」と言った。この人は性格が良いのか、悪いのか。とにかく今日は一方的に責められっぱなしだった。
先に店のドアを出て、時間を確認すると22時だった。ここから自宅まで30分とちょっと。ヒトミさんに電話できるかどうか。あまり夜遅いと迷惑だろうし。タイムリミットは何時だろうか。
「ねえ、重いんだけど」
物思いに耽っていたら、後ろにミキさんが来ていた。その手にはたくさんの買い物袋があった。僕が入店時に座席に置いたまま、忘れて出てきていたらしい。当然、持つのは僕の役割のようだ。
「私さあ、酔ってるから、こんなにたくさんの荷物持って帰れないんだけど」
「ま、まじですか」
「本気で言ってるわよ。ねえ、どうする? 私のうちまでこれ運んでくれるか、あなたのうちに私が行くか」
「え? なんで僕のうちに? 」
「いいじゃない。酔いが覚めたら一人で持って帰れるから」
「い、いやー。それは……ちょっと……」
僕はたじろいだ。今日はそんな予定は頭に入れてなかったし、部屋も汚いし。
「いや、それにミキさん、明日仕事じゃないっすか……」
「休む」
「えーっ、えーっ、えーと、行ったほうがいいっすよ」
「じゃあ朝早く帰る。5時に出れば間に合うから」
なんとしても来る気なのだろうか。まずい。今日の僕の部屋は誰かを受け入れられるような清潔感とは皆無だ。ホコリもたまっているし、イヤらしいDVDなども転がっている。部屋に女性が突然やってくる、などという緊張感はまるでないのだ。
いや、もし仮に部屋が片付いていたとして、だったら僕はこの人を呼べるのか?
いや、ダメだ。それだと、ヒトミさんに電話ができなくなる。
「分かりました。じゃあ、送ります」
「へえー、そうですか。じゃあよろしくね!」
そうですか……じゃないわよ、と先ほど言われた彼女のセリフを思い出した。これだけ人を振り回しておいて。とにかく早く送って帰ろう。ミキさんの住んでいる場所は、路線で言うと僕と反対方面だったが、ヒトミさんには帰路の途中で、電話が遅れる旨をメールしようと考えていた。
「送り狼にはならないのかしら」
駅を出て、その家に向かう道中も、彼女はにやけた風で、そう言ってきた。足取りもしっかりとしていて、顔色も悪くない。この人はもう酔ってはいないと感じた。
「なりません。というかミキさん、もうこれ持てるのでは? 」
僕は両手に下げている買い物袋を高くあげて見せた。
「ばかね、あんた。夜道に女をひとりで歩かせる気なの? 」
僕は思わず「はあ」と漏らした。あなたの仕事は毎日、空が明るい時間に終わってるんですか、と質問したくなった。
そうこうしているうちに、彼女のアパートに着いた。美しい顔に似合わず、2階建ての木造アパートに住んでおり、イメージ的には高層マンションとかに住んでいそうなのだが、意外と庶民的なんだなと、ここで初めて彼女に好感を持った。
彼女は、アパートの階段の前で、僕から買い物袋を受け取ると、僕のほうにまっすぐ向き、淡々とした口ぶりでこう言った。
「来週、見たい映画があるからさ、また渋谷にいてね。わかった?」
とあるカフェ
それから2日後、僕は恵比寿のカフェでアイスコーヒーを飲んでいた。テーブルの上の大皿にはスモークチキンのベーグルサンドとポテトサラダが乗っていて、反対側にはスクランブルエッグとパンケーキの載った皿、それと紅茶のカップがひとつ。
向かいのその背の低いソファーには、小さくて可愛らしい女性が座っている。
肩にかかるかどうかという長さの少し茶色いその髪は、きれいなウェーブがかかり、丸っこい童顔とふっくらとした素肌をひきたてるような、やや薄めの化粧。
彼女はゆっくりとした動きで、カップに使っていたティーバッグの紐を人差し指と親指でひきあげて、皿に置き、連続した動きで隣の皿に乗っていたレモンを一切れカップに落とした。
「おとといミキちゃんと遊んでたんだってね。昨日、職場で聞いた」
そう言うとヒトミさんは、真夏だというのに、熱い紅茶を一口含んだ。
「遊んでたというか……まあ、そうなんです。だから電話が遅れちゃって……」
「ああ、いいのよ。あの人、結構強引だから。私もいつも引っ張り回されてるわ」
「よく一緒に遊んでるんですか? 」
「いやいや。毎日会社で会ってるから、休みの日まで毎回ってのは、さすがにね」
「じゃあ、休日は彼氏と――」
「あー。それもない。ないない。今、いないもの」
恐る恐る聞いてみた質問の答えが、希望に沿うものであったため、僕は安堵した。
そして、その安堵と喜びを顔に出さないように注意して、さきほど店の入口で会った時と同じセリフを口にした。
「しかし、仕事中なのに僕の相手をしてくれて本当に良かったんですか? 」
「さっきも言ったと思うけど、昼休みだから平気よ。いつもこの辺で食べてるから。ひとりで……」
「え? ミキさんと一緒じゃないんですか?」
「私のほうが昼休みが早いの。シフトの関係でね。うちの会社の受付って、人少ないから順番に回していて、普段ほとんどミキちゃんより私のほうが早いかなあ」
「へえ。そうなんですか。でもあれですよね。受付って結構モテそうですよね。来る人もお金持ちのビジネスマンみたいな人が多そうだし。ナンパとかされそう――」
「あははは。何そのイメージ。そんなにいい男はあんまり来ないわよ。中小企業の受付だからかもしれないけど、お金持ってそうな人もいない。平凡なサラリーマンよ、みんな」
またしても僕は安堵した。別に男の影を勘ぐっているわけではないのだが、話の方向がつい、そちら方面へいってしまうのだ。
「ねえねえ、それよりもさ。何買うの? 今日、買いたいものがあって恵比寿にきたんでしょ」
ミキさんのこの質問――買い物の用事。それは正直なところ、方便だった。
ミキさんを送ったあの日、大急ぎで家に帰って、息を切らしながらスマートフォンをつけて、ヒトミさんの電話番号を探した。初めての電話だった。だから、歩きながらなんてできなかった。きちんと落ち着ける場所で、腰を据えて話をしたかったのだ。
3コールくらいで、少し眠そうな声が聞こえた時、僕の心臓は弾け飛びそうだった。おそるおそるながらも、なんとか話を繰り出し、会話が盛り上がってきたところで、食事でもどうかと誘ってみた。
すると、彼女はちょっと考えて、肯定まじりに「ランチしよっか」と提案してくれた。夜の食事を期待していたのだが、とりあえずの取っ掛かりとしてはランチも悪くない。僕は明後日、恵比寿に買い物があるので、と適当な嘘をついた。早く会いたいということを隠すための、用事という名の大義名分が欲しかったのかもしれない。
だから、買い物の内容など決めていなかった。ほとんどの買い物ならば、渋谷や新宿で済んでしまう。わざわざ自分の家からそれらの駅よりも遠いこの恵比寿に、なにか特別なものがあるわけではないのだ。
「あ、えーと。お気に入りの雑貨店がありまして、代官山に行く坂の上のほうに」
と、僕は昔付き合っていた女性と一度だけ行ったことのある店をとっさに思い出し、それを伝えた。まさに苦し紛れだった。今日、ヒトミさんと会ったときに話す内容のことばかりを、ここに来る道中ずっと考えていたので、肝心の偽りの目的を何にするかなんてことは忘れてしまっていたのだ。
「へえー。雑貨ねえ……。あの辺あるよね。アメリカ雑貨の店みたいな……あそこよね。ああいうとこ好きなんだ。ねえ、そこってもしかして昔、彼女と行ったとか?」
ぎくり、である。それを隠すように僕は「違いますよ。僕、こう見えてもアメコミとかフィギュアとか好きなんですよ。見るだけですけど」と言いながら、落ち着きを取り戻すためにアイスコーヒーのグラスに口をつけた。その中はほとんど氷しか残っていない。いつの間にこんなに飲んだのか。
ヒトミさんは、「ふうーん」と言いながら、皿の上のエッグを食べた。背の低いソファーと同じく背の低いテーブルのせいで、前かがみになって食べなければならず、彼女はそのたびに左手で、体にフィットした制服の胸元を抑えて、右手のフォークを口に運んでいた。
その仕草は、胸の谷間をこれでもかと見せてくるミキさんとは対照的で、たとえば食べ物を口に運んだあとの唇についた油をナプキンでそっと拭く仕草など、僕はそのさりげない清楚さが好きだった。
「私もさ、部屋の時計が壊れちゃってさ。壁掛け時計ってそんな滅多に壊れないじゃない。でも壊れちゃって――。新しいの買わなきゃならないのよね」
ヒトミさんは、吹き終わったナプキンを丁寧に四角に折りたたみながら、ひとりごとのように言った。一聴すると、ひとりごとのようだが、これはお誘いの呼び水か。
「じゃあ、今度買いに行きましょうよ。行きたいとこあれば、付き合いますよ」
とりあえず、呼び水を我田引水してみることにした。彼女もその言葉に頷くと、にこりと笑って答えた。
「ありがとう。じゃあ、今週の日曜はどう?」
なんということだ。その日は――。
「ごめんなさい。その日は予定がありまして……」
さすがにミキさんに会うとは言えなかった。ミキさんのほうに気があると思われたくなかったからだ。
「あらそう。土曜日は私、用事あるしなあ――。部屋にある唯一の時計だからさ。すぐに無いと困るのよね」
と、ヒトミさんは困ったように言った。それに対して、僕は別の案を提案する。
「じゃあ、今度、ヒトミさんの仕事が終わったあとの帰りついでにどうですか? 新宿だったら乗り換えついでに駅ビルに寄れますし」
「え? 平日の夕方にわざわざ来てくれるの? 」
「もちろんですよ。火曜日か木曜日ならバイトもないので」
「木曜……あさってか。私達、受付なのに顧客リストの整理とかで残業させられたりするのよね。だから終わる時間がまちまちになっちゃうから、その日に時間をメールするってことでいいかな。お昼までにはわかるはずだから」
「大丈夫です。待機しておきます」
「ごめんねえ。無理に誘ってしまった感じになっちゃって」
「いえいえ、平気ですよ」
そう言い終わると、僕はベーグルをかじった。間に挟まれているチキンの濃い塩気をレタスの水分が中和して、絶妙な旨さを口の中に広げてくれた。しかし、その美味しさ以上に、次のデートの予定を決めることができた嬉しさが心の中に広がっていった。
とある受付
「ミキさん、なんだか暇――。今日、来客予定スカスカだもんね」
「最近、会社の売上が落ちてるからね。だから売り込みの業者も来ないんじゃないかな」
「そっかあ。冴えないなあ。ねえねえ、そういえばさミキさん、それからあの子とどうなの? 会ったりしてるの? 」
「私は買い物して、一緒に映画見にいったりしたかな」
「へえーそうなんだ。で、その後は? 」
「なんもなし。映画行った時なんてレイトショーだったから、館内のホットドッグとかで済ませちゃって、ちゃんとご飯も食べずに、その場で解散したわ」
「へー」
「だってその日の夜、急にカレが会いたいって言ってきたからさ」
「ああ……そう……案外ラブラブなんだね……。羨ましいわ――。わたしもちゃんとした彼氏ほしいなあ。浮気とか二股とかしない感じの――」
「あのさ、言っとくけど、翔太に対して、自分から付き合って、とか言ったらダメだからね。あくまでも向こうから言わせること。そういう勝負なのよ」
「――。大丈夫だよ。私から言ったりしないよ。でもあの子って奥手だよね」
「そうね。男のくせに押しが弱いのよね。ああいう男は、先にやらせてあげるのがてっとり早いのかもね」
「えー。そっちが先ですか」
「そっちが先よ。私もチャレンジしてみようかな」
「まじですか、ミキさん……」
「まじよ。あ、あとさ、話があるから今日の夜付き合ってくれない?」
「うん。わたしもちょうど言いたいことあったの」
とある日曜日
僕がミキさんと一緒に渋谷のスクランブル交差点を渡るのは、今日で三度目となった。
前回は約束どおり、一緒に映画を観に行った。鑑賞後、前回と同じく、どっちかの家に来るか行くか、という押し問答となり、困惑させられたことを思い出す。
そして今回は、それから二週間ほど、期間をあけての再会となる。どうやら体調を崩していたそうで、その間はあんなに毎日来ていたメールも減少ぎみだった。
そして今回、彼女はパソコンのプリンターがほしいらしい。機械に弱いから、一緒に選んでほしいとのことだった。
ミキさんは、肩と背中が思いっきり出たノースリーブシャツに、ホットパンツをはいていて、この猛暑と反比例するような露出度だったが、毎回こんな感じなので僕もだんだんと慣れてきていた。いつもは下ろしている長い髪を、今日は後ろでたばねていた。耳のピアスが太陽にまぶしく光る。
行先の場所については、電化製品を買うなら、秋葉原か新宿あたりのほうが大型家電店は多いので、そっちのほうが良いと、メールで再三言ったのだが、電車でのアクセスが便利という理由で、渋谷の狭い家電店を指定されたのだった。
データを小型機器に入れて持ち運べる昨今において、プリンターを何に使うのかは明らかにしなかったが、どうしても安いA4サイズのそれが欲しいそうなのだ。僕は、限られたモデルの中から、値段と機能のバランスが良いものを選ぶと、ミキさんはためらいもせずにそれを購入した。でも、購入する前に、「あんた男でしょ。値引き交渉してみてよ」と言いはじめ、そのわがままに答えるように僕は店員を呼び、幾らか値段を安くしてもらった。なんだか、自分は今日、この交渉のために呼ばれたのだと思ってしまう。
そしてどうやら、僕が呼ばれた理由のもう一つは、そのプリンターを手に持って帰ることだったようだ。それは店員がプリンターの入った箱に持ち手をつけて、手渡ししてくれた時に判明した。
「重いから、もってよ」
「まさか、家まで運べ、なんて言わないですよね」
「言うわよ」
ということで、しぶしぶ、電車に乗って彼女の木造アパートの前まで運んであげたら、今度は「設定してよ」と強い口調でお願いされた。僕は女性の部屋にあがりこむことに抵抗を覚えたから、拒否した。
「いや、説明書読めばできますよ」
「できない」
「だって、パソコンとコード繋ぐだけですよ。最近のは自動的に設定されますから」
「配線ができない」
「簡単にできますよ」
「できない」
「――彼氏にやってもらったほうが……」
「あのさ、設定してくれたら帰ってもいいから。ていうかさ、女子が困ってるのに、見捨てるわけ? ありえないんだけど」
「――そう、ですか」
「そうよ、わかったらさっさと設定しなさいよ」
そんな具合で、部屋にあげてもらった。今日はこんな予定ではなかったのだが。
ミキさんの部屋は、よくあるワンルームの間取りだが、全面的にピンクだった。カーテン、テーブルクロス、棚の色、ベッドカバー。すべてが桃色。こんなに乙女チックな部屋に住んでる人が、こんなクールで気の強い美人だとは……。意外に感じた。
「そこにパソコンあるから。やっといて。あと、麦茶しかないけど、いいかな。あ、ビールもあるよ」
「いや、お酒は大丈夫です。まだ夕方にもなってないですから」
梱包の箱を開けて、中から新品のプリンターを取り出し、ピンクのカラーボックスの上に配置して、となりの小さな机に置かれたパソコンの電源を入れた。パソコンは若干、ほこりを被っていた。
「どう? うまくいきそう? 」
「ええ、あとはこのUSBを差し込むだけです。使うときは、これを差せば印刷できるようにしときますので」
と、横を向いたら、パソコンの画面を一緒にのぞきこむミキさんの顔がすぐそこにあった。むん、とした甘い香りが漂う。部屋の空気感が少し変化つつあることを感じる。この感じは――。
「今、彼氏がここに来たら、誤解されちゃいます――よね」
プリンターとパソコンは一本のコードで繋がれ、自動的にパソコンが設定を始めた。パソコンの内部から聞こえるカラカラという音が、異様に耳につく。
もう、僕は帰っていいはずだ。
いや、帰らねばならないと思う。
パソコンの前でお互い立ったまま、しばらくの、無言が流れた。
「彼氏は、もう、いないわよ」
おもむろに彼女はそうつぶやいた。
「逃げられたの。二股かけられてた」
僕はなんと言うべきか、考えあぐねた。いままでの軽口ではすまされない雰囲気を、その時のミキさんは漂わせていた。
彼女のむこうの窓を通して、斜めに太陽の光が差し込んできた。逆光にたたずむその顔は、黒いシルエットを残して、すべてが消えていた。
「あ、麦茶いただきますね」
と場の空気を変えるため、僕は、部屋の中央にあるこたつテーブルへ向かい、上に置かれたコップを手に取った。そして、ぐいと一息で飲み、部屋の隅に置いていた自分のカバンを取ろうとしたとき、「座っていきなさいよ。どうせこの後、暇でしょ」と、いつもの強く明るい口調が僕の背中越しに聞こえた。さらに彼女は、僕に背をむけ、部屋の中を移動して、こう続けた。
「ねえねえ。せっかく来たんだから、アルバムでも見ない?」
僕の受け答えを待つまでもなく、本棚から分厚いアルバムを取り出して、僕を部屋の壁沿いに設置されたベッドに座らせ、その隣にミキさんが座ってきた。ベッドマットのスプリングが重さでたわみ、僕はここがベッドであることを強く意識した。
部屋の空気感はいまだに緊張していて、まったくアルバムの内容に集中できずにいたが、学生だった頃のページの写真を見て僕はドキリとした。そこには、まだ今よりも少しだけ幼い顔つきのミキさんとヒトミさんがふたり、並んで座っていた。
「若いでしょ。私たち。このころはすごく仲が良かったのよ。お互い彼氏がいたから、4人でよく遊んでいたんだ」
ヒトミさんにこのころ、彼氏がいたと聞いて、その男に対して嫉妬の炎がくすぶりそうになった。昔の話、であるにも関わらず。
そんな調子で一緒に眺めていると、彼女はおもむろに「で、女の部屋にあがりこんで、アルバムを見て、隣同士で、そのあとは何をするんだっけ?」と目線を落としたまま、意地悪そうに言い始めた。
僕にはそんな気はさらさら無いのだが、アルバムを閉じると彼女は、僕のほうに枝垂れかかるように頭を傾けてきた。僕は肩にかかる重みを支えようと、彼女の腰に手をまわしてしまう。
これはまずい。僕にはとある決意がある。その決意は、今日のこのミキさんの誘惑と、それを受け入れることで起こりうる行為のせいで泡と消える恐れがあった。だから、そうなる前に行動を――。
肩に彼女の頭を乗せたまま、少し腰をずらした。その動きに反応するように、ミキさんが僕の手を握ってきた。
「いいじゃん、やるくらい。据え膳くわぬは男の――」
「恥――ではないと思いますが……」
「――恥よ」
そして――。
唇。
柔らかい。
脳がとろけそうなほどの、柔らかさ。
はたから見れば、うらやましく思う男は多いに違いない。
でも、僕は――。
二人はそのまま、口をあわせたまま、ベッドに倒れこんだ。
このままでもいい。
いや、だめだ。
いい。
だめ。
繰り返される受諾と拒絶。
ミキさんとヒトミさん。
上半身の思考と下半身の興奮。
相対するふたつが、体のなかでどろどろに混ざりあった。
でも、決めたことは守らなければならない。
このままでは逃げられなくなる。
僕は、ミキさんを体の下に置いたまま、上体を起こした。
「ごめんなさい。無理です」
「え? ここまで来て、なに? 」
顔にかかった髪を耳にかきわけながら、ミキさんが僕をみた。
「いや、その――」
体裁の良い言い訳を、彼女を傷つけない言い訳を、ぐるぐる回る頭の中で考えて出した――その、言い訳。
「無いとダメなんです。その――」
続く言葉を「愛」と言うべきか、「気持ち」と言うべきか、それ以外の言葉をえらぶべきかと考えあぐねていたら、彼女はため息なのか、吐息なのか、どちらともつかない空気を吐きだし、僕の下をすり抜け、ベッドから降りると、タンスのほうへ歩き、その上の小さい引き出しの一つを開けて、中に手を入れた。
そのまま、しばらくごそごそやってから、僕のほうへふり向いた。
そして、その手に握ったカラフルな小さい箱を、カラカラと音をさせるように、自分の耳のあたりで左右に振ってこう言った。
「あるわ」
とある喫茶店
「話したいことがあるって、なに? 」
いつものカフェの、いつもの座席で、僕とヒトミさんは向かい合わせに座っている。そのわきに置いている英語の書かれた茶色い紙袋は、いま流行りのカレイドポップコーンという表参道に行列のできる店で購入してきた手土産だ。前回会ったときに、ヒトミさんが好物だというので、ここに来る前にひとり、並んで買ってきたのだった。
「いや、まあ、座っていきなりってのも何ですから」
「あら、そう。うふふふ。楽しみー」
「あっ。コーヒー飲めるんですね」
「そうよ。ほら、この前一緒に観た映画で、主人公がこういうの飲んでたでしょ。それに影響されたっていうか」
いつものように、暖かく、優しい笑顔で彼女は微笑んだ。すべて、いつもと同じ――。違うのは今日が平日ではなく、休日であることだけだ。
毎日メールもした、時々電話もした。平日しか会えなかったけど、映画も観たし、一緒に手をつないで歩いたりもした。この人と接するたびに、苦しいほどにせつなくなる。だから、今日、会ってきちんと話をすることにしたのだ。
僕の、決意を――。
「あ、そうだ。この前、ミキちゃんの家に行ったんだって? 」
いきなり、出鼻をくじかれそうな話題を振られてしまった。
「ああ……そうなんです。プリンター買いたいとかで、つき合わされてしまって……」
「ふたりとも、よく会ってるよね。好きなの? ミキちゃんのこと」
アイスコーヒーにソフトクリームの乗った、飲み物とデザートの中間のものを一口味わうと、彼女は面白そうにそう言った。またしても僕はどきりとした。
「いえいえ、違いますよ。あの人、お誘いが結構強引なもので」
「フーン。お似合いだと思うけどな。あの子、美人だし、申し分ないんじゃない?」
「いや、僕、ああいう――冷たい感じのする女性は好みじゃないんです」
「冷たくないよ実際。意外とああ見えて、熱い性格なんだよ」
「そうですかね、はは……」
僕の脳裏に、あのときのミキさんの裸体が浮かんでしまい、それを必死でかき消す。心の端がチクリと傷んだ。
ヒトミさんは、ソフトクリームとグラスの間にストローを差し込み、そのストローに口をつけながら僕のほうを、じっと見ている。
「どうしたんですか? 顔に何かついてます? 」
ひとしきり、コーヒーを吸い込んで、彼女は首をかしげた。
「なんか、雰囲気変わったね。自信がみなぎっている」
それは自信ではなく、覚悟から来ているのかもしれない、と思った。
僕は、その投げかけをやんわりと否定しながら、居住まいをただして、告げた。
「今日は、僕が想っていることを伝えたくて、だから、その決意が顔に出ているのかもしれません」
その発言に感じるものがあったようで、彼女は「はい」と神妙に答えると、椅子に座りなおした。もっといろんな話題を話しながら、頭を整理して、最後に言おうと思っていたのだが、なりゆき上、それを言うのは今、この時であると思った。
「えーと、あの……」
いざとなると緊張して、言葉がでない。この店に来るまでに、なんども頭の中で練習したのに、出てこない。
「好き」というための言葉が。
ヒトミさんは、黙ったまま、僕の顔を見てにこにこしている。その笑顔に、僕はそっと背中を押された気がした。
もう言うしかない。頭に浮かんだ言葉を言えばいい。
――僕は、あなたのことが。
「僕はあなたのことが――」
――好きです。
「好きです。付き合ってください」
――言えた……。当初、予定していた告白の言葉はもっと長く、回りくどいものだったが、土壇場で浮かんでこなかったせいで、シンプルでストレートな言葉が胸から口を通って、こぼれ出た。
その告白を受けてなお、ヒトミさんは微笑み続けていた。そして目を細めて、
「うれしい――。ありがと」
と満面というべき笑顔でこう言うと、さらにこう続けた。
「もう何年も、そう、男のひとから告白されたことなくて、とてもうれしいわ。ねえ、その言葉、ずっと残していたいから、メールでも、もらえない? 」
とりあえず、断られなかったことが、僕のなかで受け入れられたという勘違いを生んだ。
僕は、ポケットからスマートフォンを取り出し、画面を映しだすとメールのアプリを開く。
『四葉美樹』という名前から新着メールが来ていた。ミキさんからのものだ。
しかし、いまはそれを読んでいる場合じゃない。
ヒトミさんへの告白と同じ内容の文章を打ち始める。その途中で、ヒトミさんは僕にこう聞いた。
「ねえ、なんで私なの? ミキじゃなく――」
ボタンを押しながら、ちらりとヒトミさんのほうを見て、素直に言った。
「僕の好みだからです。最初に会ったとき、太陽みたいな優しさと、明るさを感じて、好きになりました」
「太陽かあ。――太陽ねえ……。そういえば、ねえ、『北風と太陽』っていう童話知ってるよね?」
「知ってます。北風と太陽が、旅人のコートをどちらが脱がせられるかっていう勝負をする話ですよね」
話をしながらからなのか、この時に限ってうまくメールの文章が打てず、僕は何度も言葉を消しては、打ち直す作業を続けていた。
「あれってさ、続きがあるの知ってる?」
「え? 北風が負けて終わりなんじゃないんですか?」
「そうよ、その続きっていうのはね――、太陽によって脱がされた旅人のその服を全部、負けた腹いせに北風が吹き飛ばしてしまうの。それで、もう勝負はついていたから、太陽も興味をなくして去ってしまって――。ほら旅人ってさ、真冬だったからコートとか着てたわけじゃない? だからその結果、旅人は全裸のまま凍死してしまうの。かわいそうでしょ」
なぜこのときに、そんな話をするのか?
「へえ……、そんな話が――。大人の童話ですね」
やっと打ち終わり、告白の言葉を送信する。
ほどなくして、ヒトミさんのスマートフォンが鳴った。
その画面を確認して、彼女はまたもや嬉しそうに微笑んだ。
その隙に、美樹さんから来ていたメールをこっそり開いた。
『三木仁美にだまされてるわ。あなた』
一瞬、息が詰まった。まだ、そんなことを……。
仁美さんは顔を上げて、ニコリといつものほほ笑みを見せる。
「ありがと。返事をする前に、最後に聞いてもいいかな」
「どうぞ」
「美樹とヤってすぐに、なんで私に告白してくるわけ?」
自分の部屋
ずぶ濡れのまま、床に座っていた。
シャワーを浴びて、なにもかもが嫌になり、タオルも持たずに、全裸で床の上。
つけっぱなしのエアコンの風が体を冷やす。
寒い。
これと同じ寒さを、美樹さんの部屋で感じたことを思い出した。
あの時、僕と美樹さんは最後まで行かなかった。
緊張のあまり、僕のほうがうまく機能しなかったのだ。
しおれたコンドームのいくつかが散乱したベッドの上で、裸のふたりは、そろって横になっていた。
「ごめんなさい」と僕の言葉に対して、
「いいよ」と美樹さんは僕に背を向け、壁のほうを見ながら答えた。
そしてこう続けた。
「この前観た映画、面白かったね。また行こうね」
「はい、でも――ごめんなさい。もしかしたら、もう行けなくなるかもしれません」
「三木さん……、いや、仁美と観る映画のほうが、面白いから?」
「――」
「あの子、彼氏いるよ。この前までその人、私とも付き合ってたの。ばれてないと思っていたけど、どうやら仁美は知っていたみたい……。でも、すぐに取り返されちゃった」
「――」
僕は何も言えなかった。それが本当かどうかはわからない。嫉妬で言っている可能性もある。そのまま、美樹さんは話し続ける。
「学生のころから、仁美とは仲の良い友達だった。でも、私、就職に失敗しちゃって、いろいろと転々とした挙句、彼女に拾われて同じ職場で働くことになったの。だから仕事の時は、彼女は先輩にあたるの。一応、職場では仁美のこと、『三木さん』って名字で呼んでるのよ。でね、仁美は同じ職場に彼氏がいて、その彼氏が私に言い寄ってきたから、私、てっきりその男の『別れた』っていう言葉を信じていたの。でもね、結局、逃げられちゃった。
そいつ私のこと、『お前は心が冷たい』だってさ。自分では自分のこと、そんなふうに思ったこと無いのに……」
その顔は僕からは見えないが、泣いてるような気がした。いつの間にか、外は夜になっており、薄暗いベッドの上で僕は、美樹さんの背中の、なだらかな曲線のみを確認した。
エアコンの風が、足のほうからからだを撫でて、体温をうばってゆく。
あの時と、同じ――。真夏にも関わらず、冬の北風のような冷気を今も、僕の部屋のエアコンが吐きだし続けている。
「君、遊ばれているよ」と玄関にむかう僕の背中に、美樹さんの声が刺さった。それが、最後の言葉だった。しかし無言のまま、ベッドのほうを見ることもなく、僕はその場を離れた。
今になって思うと、美樹さんのその言葉も、あのメールの内容も、すべて正しかった。
僕の決意も、あのカフェでの告白も、全部僕が仁美さんに遊ばれ、踊らされていた結果の行動なのだった。
カフェでの告白に、ナイフのような鋭利さで言葉を突き刺された僕は仁美さんへの弁解として、「美樹さんとそういう行為はやってみたけど、できなかった」と言えば良かったのだろうか。
いや、そんなことを言う勇気は無かったし、その答えが正解とも思えない。
仁美さんは、僕にその質問を投げた後、手元でスマートフォンを操作し続けていた。僕は返答に困って、黙っていた。ふたりが同じ職場である以上、下手な言い訳など通用しないわけで、美樹さんが、僕と寝たと言えば、それが事実だ。
「まあ、いいわ。どちらでも。返事は『NO』よ。だって私、彼氏いるから」
「え? じゃあどうして、この前、『いない』って――」
「先週、はっきり取り返したの。美樹から」
彼女は残りのコーヒーを一気飲みした。そして言い放った。
「もともと私とずっと付き合ってた人を、あの子が誘惑してちょっかいを出してたのよ。美樹は私が気付いてないと思ってたみたいだけど。で、ちょうどその時、あの合コンがあって、あなたのこと、あの子が気に入ってたから、勝負っていう形で敗北を味あわせてやろうと思いついたの。
仕返しにね。あなたが私に気を持ちそうな雰囲気だったから、利用させてもらったわ。でもさ、あなたも私と遊べて、楽しかったでしょ」
「え、そんな理由で?」
「理由なんてないわ。ただの勝負なんだもの。メールもさっき、美樹に転送したし、私の勝ちが証明できてよかったわ。ありがと」
仁美さんはそういうと、伝票を持って席を立った。その去り際に、何かを思い出したように笑いながら、僕に教えてくれた。
「ああ、そうそう。あなたと、この前行った雑貨店で買ったあの時計ね。偶然にも私のカレがくれたものと同じだったのよ。前のやつは、カレが私のトコからいなくなった時に、壁に投げつけて壊しちゃってたから、ちょうどよかったわ。それだけ、お礼をいうわね」
彼女がいなくなったその座席には、いまだ、暖かい光が差し込んでいた。
三木仁美――。
いま、僕の手もとで光るスマートフォンの画面に映し出されたその名前――。
この1か月を自問自答しながら、その名前をしばらく眺めていた。
濡れた体は乾いていたが、こまかな震えが止まらない。
「このままじゃ、凍死しちゃうな」
僕はそうつぶやくと、画面に表示されていた名前を電話帳から消去し、立ち上がった。
(おわり)