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ホットサンドイッチ

 梅雨終わり独特の、湿っぽい雨が降る。梅雨の終わりを嫌がって泣く雨だ。熱を含み、重いばかりの雨である。

 粘度の高い雨音を聞きながら、奉文は粥の最後の一滴を舐め終えた。

 みゆの置きみやげでもある粥は、どろどろとマグマのように煮たっている。その癖、塩味は足りないし底は軽く焦げていた。しかし、こんなにおいしい粥を食べたのは、人生で二度目である。

 一度目は、奉文がまだ小学生のころ。風邪を引いた奉文に、久美恵が作ってくれた粥だった。

 それもこの粥と同じように、米の粒がくっついてねっとり重い粥だった。料理の出来ない久美恵がみゆと並んで必死に作った唯一の料理。あの粥とこの粥は、どちらも同じ味がする。

 最後の粒を惜しむように噛みしめて、奉文は長い息を吐く。身体から熱が去った気配がする。頭の中もすっきりとしてきた。意識がよみがえると、生きたいと、身体の隅々がそう叫んだ。

 みゆとともに、生きたい。

「久美恵さん」

 仏壇の中で笑う久美恵は優しい顔をしている。

「俺さ、みぃちゃんを絶対、見つけるからさ」

 近づいて、写真を手に取った。生きていた頃よりもずっと軽い。そんな彼女を一回だけ抱きしめて、写真を仏壇に戻す。

「大丈夫。俺、絶対、みゆに後悔なんてさせないから。久美恵さんが心配していたようなことには、ならないから」

 底抜けに明るい久美恵だったが、心の底に後悔をいくつも抱えていた。その後悔は、彼女の人生に闇を落としたのだろう。この春、彼女は亡くなった。

 眠るような最後だったと聞いた。2年前、奉文がこの家を出なければ久美恵の最期に立ち会えたのかもしれない。

 しかし、奉文を追い出したのは久美恵自身である。

 これ以上、この家にいてはいけない。自分のような悲しい目に、きっとあってしまう。霧雨のふる冷たい冬の朝、彼女は絞り出すような声でそう言った。

 彼女の泣き顔をみたのは、あの時が最初で最後だ。

「久美恵さん……久美恵さん……母さん」

 だから奉文は、久美恵の顔は笑顔しか思い出せないのだった。いつでも笑顔で、それでいて不気味で、なにより優しい偉大な母だった。

「……ん」

 奉文はふと、自分の体の変化に気が付く。じわじわと、身体の関節と骨がきしむのがその合図。

 見おろせば、膝が、腕が、足が、白いパンへと姿を変えていく。

 いや、ただのパンではない。ふかふかの食パンに、ハムの赤、キュウリの緑。そしてマスタードの黄色に卵のミルキーな黄色。

「サンドイッチだ」

 ふかふか柔らかな固まりに変化していく自分をみて、奉文は笑う。

「ね。久美恵さん、みぃちゃんは、生きてる。お腹を空かせてるかもしれないけど」

 甘い小麦の香りとスパイシーな胡椒、マスタードの香りが食欲を刺激した。

「それで、みぃちゃんは今、俺のことを考えてる」

 久美恵が奉文に語った、彼女たちの秘密はあっけないものである。 

 彼女たちの一族は……それを一族といっていいのか、特別変異というべきなのか……かつてより、不思議な特性を持っている。

 それは、愛と食欲が直結しているということである。愛した男を食べ物に変えてしまうということである。愛しいと思う心が、腹を空かせる。腹が空けば愛おしさが加速する。胃が食べ物を求める。大食漢な彼女ら親子は、愛した男の姿を、今一番食べたいものに変えてしまう。

 そうなれば、耐えられない。食べたいと、歯がなる腹がなる心が騒ぎ血が踊る。

 そして、彼女たちは食欲に屈して男を喰らう。

 ……対策はただひとつ。同じ食べものを、彼女たちに提供することだ。

「でもさ久美恵さん。この姿になるの、俺は嬉しいんだ」

 いそいそと台所へすすみ、奉文はサンドイッチの手でパンを切る。ハムを軽くソテーして、塩胡椒。塩もみキュウリに、牛乳入りの卵やき。すべて具材をそろえたら、それをバターとマスタードを塗った食パンに挟んで、ケチャップをまぶし、きゅっと押す。

 奉文はしばらく悩んだあと、鉄のフライパンにたっぷりのバターを落とした。じゅ。とおいしい泡がたちこめたその中に、食パンをそっと落とす。

 そして両面をしっかり焼けば、食パンが焼きバターを吸い込んで黄金色に焼け焦げる。

「……みぃちゃんが食べたいのは白い食パンのサンドイッチかもだけど、焼く方が、美味しいよね」

 さくさくと切り分ければ、美しい断面が見えた。焼けたパンの黄金色に、具の赤に緑に黄色。雨曇りによく映える、きれいなサンドイッチだ。

「俺がこんな風に変化するのは、みぃちゃんが俺のこと、ただ好きなだけじゃだめだ。久美恵さんだって俺のこと、きっと好きでいてくれたはずだけど、ちっとも変わらなかった。みぃちゃんだって、小さな頃から俺のこと好きだったはずなのに、変わったのはあの日から」

 自分の身体と、手元のサンドイッチ。両方から漂う魅惑的な香りに、奉文はくらくらとめまいを覚える。おいしそうな身体になるたび、食べ物にかわるたび、奉文は喜びに身を震わせる。

「……つまり、みぃちゃんは俺のことを大好きなんだ」

 彼女が奉文のことを愛おしいと想うたびに、抱きしめたいと想うたびに、キスをしたいと考えるたびに、彼の身体は美味しくなるのである。

 いくら彼女が奉文を突き放してみせても、変化をするたびにみゆの本心が、いやでも聞こえるのだ。

 彼女は、奉文を愛している。

「便利だろ」

 だからこそ絶対に、自分の身体をみゆに食べさせるわけにはいかないのだ。と奉文は固く心に誓う。

「だからさ、母さん安心して。絶対に悲しませないから」

 可愛らしいバスケットに、サンドイッチをつめて、魔法瓶にはあたたかい紅茶をたっぷりと注ぐ。

 みゆはきっと、森の奥にいる。

「いってきます」

 外に飛び出し雨に濡れると、奉文の身体がじっとりと重くなった。

 ああ、自分の身体は今、パンなのである。水を吸えばぐずぐずと重くなる小麦の固まりだ。意外にパンの身体は不便だな、と奉文はのんきに考えた。

 重くなる身体を引きずって森の奥に進む。

 この森はいったい、いつ生まれたのか。小さな山の裾に広がる、濃い緑の陰を持つ森。奥に行けば、光もささない。光もささないくせに、きれいな花がよく乱れさく。

 葉が守ってくれるおかげか、奥に進むほどに雨の滴は減っていった。ただ、天井の木々が雨に打たれている音だけが響くのだ。

「……いた」

 どれくらい奥に進んだのか。奉文はゆっくりと足を止めた。

 それは、いつか二人で遊んだ森の奥。小さな神社の境内。

 管理する人間もいない、古ぼけて崩れかけた鳥居をくぐればちょこんと小さなお社がある。

 その前には、耳の欠けたおきつねが二匹座っているのだった。小さな頃には、みゆと二人で登って遊んだものである。

 苔むしたその二匹は、奉文と目が合うと困ったように微笑んだ気がした。

 お社の周囲には大きな木が二本。お社の屋根を覆うほど大きく成長している。

 巨大なその木には白い花をつけた蔓が、幹から枝、社の屋根までしっかりと絡みついている。太い蔓にぶら下がった花は、今が盛りだ。白い花が緑に映える、まるで宙に浮いた花畑だ。

 昔、久美恵が奉文にねだった蔓の植物は、不思議と家の庭では根付かなかった。試しにこの森の奥に植えてみると恐ろしく成長を遂げ、久美恵の望んだ植物の屋根が完成した。

 真っ白な花につつまれたお社の階段の隅。そこに見覚えのあるワンピースの隅っこが、雨に濡れてふるえている。

 驚かさないように音を潜めて木の陰に隠れて、奉文は彼女の様子を探った。

「みぃちゃん」

 彼女は奉文に気が付いたのか、慌てて逃げ場を探しているようだ。近づいて押さえつけることも抱きしめることもできるが、奉文は堪えた。

 そのかわり、バスケットを彼女の側に置いてすぐに離れる。

「みぃちゃん、こわがらないで」

 小動物のようにふるえる彼女はバスケットの中身に気が付いたのだろう。食欲と、それに対する浅ましさがみゆのなかで戦っている。

「知ってるんだ俺。これはみぃちゃんの、愛情だ」

 雨の降る木陰にたたずむ巨大なサンドイッチ。安っぽいC級映画の登場人物のようだと自分でもそう思う。しかし、この姿は奉文の幸せである。

「みぃちゃんが俺の事を好きになればなるほどに、俺の姿は変わる。ねえ、嫌いだって一生懸命いってたけど、言っても俺は傷つかないし、信じない。だって」

 みゆの中で食欲が勝利したらしい。彼女は泣きそうな顔でサンドイッチをつかむ。口に運ぶ。噛む。軽くソテーしてあるハムは香ばしく、キュウリはさくさくと彼女の歯を刺激する。

 まるで自分が食べられているようで、奉文の背がぞくぞくとふるえた。

「みぃちゃんの愛情だから」

 彼女にとって、食べることは愛することだ。

 これが愛情表現ならば、しかたがない。奉文はそう思う。

「だからいやがらないで。嫌いだなんて、嘘をつかないで、俺は」

 奉文は彼女の前に、膝を折る。花に囲まれた神社のお社。薄曇りの湿度の中で、生きるために食べる彼女は魅惑的だった。

「俺は、みぃちゃんが好きだよ」

 彼女の胃が満たされると、奉文の姿は人へと戻る。惜しむようにその変化を楽しんで、奉文は顔を伏せるみゆの頬をなでた。

「とも……とも……」

「うん」

「とも、私は」

 雨冷えした彼女の手に、暖かい紅茶を注いで渡す。と、緩い湯気が彼女の泣きそうな顔を包んだ。

「……好き」

 ささやくような声だが、それは2年ぶりに聞いた彼女の本音だった。

「うん、俺も」

 そっとその肩を抱きしめるようになでる。冷えた肩は、奉文が触れてももう逃げ出さなかった。

「俺も好きだよ。みぃちゃん」

 柔らかな唇に、おそるおそるキスをする。重なった唇の向こうで、みゆの命が香る。奉文の命も、きっとみゆに伝わった。

「悩む必要も、悲しむ必要も、なかったんだ。俺がきちんと、みぃちゃんのおなかがいっぱいになるまで、おいしいご飯を作るから」

 だから、みゆは一人で生きるだなんて悲しい選択をする必要はないのだ。させてはならないのだ。彼女の愛情表現が変化であるのなら、奉文が彼女へ示せる愛情表現は美味しい食事を作ることだけだ。

 ささやくと、みゆが久しぶりに小さくほほえんだ。

「みぃちゃん、せっかくだし雨が止むまでピクニックして帰ろう」

 木々の隙間から見える空は、薄い雲。そろそろ梅雨も終わる。次にやってくるのは本格的な夏である。

 夏はそうめん、西瓜に夏野菜。おいしいものが出回り、みゆの食欲も増えていくに違いない。

「帰ったら一緒に買い物に行って、そして一緒にご飯を作って、テーブルに並べて、いただきます、ってして」

 みゆの小さな手に掌を重ねても、彼女はもう震えない、怯えない。

 2年前までの日常がじわじわ音を立てて、戻りつつある。もちろん。2年前よりは少しばかりゆがんでいるかもしれないが。

「……一緒に美味しく、ご飯を食べよう」

 雨は、木立の隙間から滑り落ち霧のように二人を包む。

 愛を受けて美味しくなる身体を愛おしく撫でて、奉文は笑った。

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