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土鍋のお粥

 奉文はここ最近、昔のできごとをよく夢に見る。

 過去といっても彼の記憶は森の中、久美恵との邂逅からはじまるので、それより以前の夢を見ることは無いのだが。

 この家に戻ってからというもの、毎晩のように決まって久美恵の顔や幼いみゆの笑顔を思い出した。

 覚えてもいなかった些細な会話やできごとを、まるで今聞いてきたかのように思い出す。

 この家の香りが、音が、思い出を刺激するのだ。それは幸せの反芻だ。じわじわと、奉文の記憶が掘り起こされて、幸せの色に染まっていく。


「ともちゃん」


 今もまた、懐かしい声が聞こえる。

「久美恵さん?」

「ともちゃん、クイズをしましょ」

「クイズ?……駄目だよ久美恵さん。さきに種を埋めちゃわないと」

 まだ幼い奉文は、10歳かそこらだった。よく焼けた細い腕で、額に浮かんだ汗を拭う。そうだ。確か、それは梅雨の晴れ間の熱い日のこと。

 夏が来る前に、庭に植物を植えましょう。いつもの気紛れで彼女はそういった。

 蔓の植物を植えて、家を蔦で囲んでしまえば夏でも日差しが差し込まなくて、きっと涼しいわ。

 彼女はそんな、突飛なことをよくいう女性だった。幼い奉文でさえ、無理だと分かっていることを平気でいう。

 しかも、一度言い出せばけして引かない。だから奉文は大人しく彼女の言い分に従って、庭に植物の種を埋めるのだ。

 土まみれの奉文に構わず彼女は言葉を続けた。

「クイズ。あたしのおなかの中に、何があるでしょう」

 彼女は赤い着物を身につけて、黒い日傘をくるくると回す。

 庭の片隅に置かれた古ぼけた椅子の上。そこに深々腰を落とす久美恵はご機嫌である。

 白いレースの手袋をつけた指先で銀色の傘の柄をつまむのが、まるで人形のようだった。逆の手で彼女は自分の腹をなでた。

 帯の巻かれた腹周りは細い。

「おなかは、おなかだ」

 奉文は彼女を見上げながら言い返した。

 久美恵の隣ではみゆが小さな寝息をたてている。小さな額に浮かぶ汗が愛らしい。

 それを指で拭ってやると、みゆの眉がきゅっと寄って鼻に小さな筋が走る。

「そんなことより、久美恵さん。もう家に入ったほうがいいよ。外は熱いんだし、みぃちゃんが辛そうだ」

「みぃは、部屋の中よりともちゃんの側に居たいって、きっと言うわ」

 二人に日傘を差し掛けながら、久美恵はほほえんだ。

「それより、答えを言うわね」

 そして赤い唇が、こう言った。

「愛」

「あい?」

「そう、愛」

「おなかだよ」

「外はおなか。中は愛」

 くすくすと、彼女は楽しげに笑う。

「おなかに入ってるのは、朝ご飯だよ。久美恵さん、さっきの朝御飯、三杯も四杯もご飯をたべてたもん」

「そうね。あたしも、みぃも、大食漢なの」

「たいしょくかん?」

「たくさんご飯を食べるってこと」

 久美恵の言葉に奉文は深々頷く。それならば納得だ。

 今朝、机の上いっぱいに並べられた朝ご飯を、久美恵は文字通りぺろりと食べ尽くした。

 驚くほどに早く、そして綺麗に彼女は食べ尽くす。白い歯と赤い唇が食べ物をどんどんと吸い込んでいく。

 幼いみゆも、負けずと食べた。奉文は、そんな二人を見るだけで胸いっぱいだ。今朝だけに限った話ではない。この親子は、呆れるほどよく食べる。

「ともちゃん。ともちゃんもね、もし大人の男の人だったら、危なかったわ」

 久美恵は朝飯の詰まった腹を、優しくなでる。

「ここに、入ってしまうところだった」

 そして、少しだけ悲しそうな目で、彼女は眠るみゆをみるのだ。

「みぃもねぇ、いつかそうなるんだわ」

「みぃちゃんが?」

「因果な娘よね」

 続いて彼女は立ち上がり、眠るみゆを抱き上げる。そして開いた手で、奉文の手を握って歩きはじめた。

「久美恵さん、種は?」

「あとでね。さきに、見せたいものがあるのよ」

 奉文の手を取るとき、彼女は命より大事にしている日傘をあっけなく閉じる。その仕草が奉文は大好きだった。

「ともちゃん。あたしを、恨んで良いのよ」

「なんで? うらむ? 俺、久美恵さんのこと、大好きだよ」

 ありがとう。と呟く久美恵の声は遠い。

 やがて彼女がたどり着いたのは森の入り口。そこには小さな石がいくつも並んでいた。

 子供の頭ほどの白い石、ごつごつとした黒い石、赤みのある小さな石、さまざまだ。

 奉文がこの家に来たときから、石はそこにあった。二人の遊び場近くにあるものだから、みゆと奉文はこの石を遊び道具の一つに使ったものである。

 その石のひとつひとつ撫でながら、久美恵は歌うように呟く。

「これは、銀行員。こちらは、俳優の卵。こっちは……学生だったかな? そしてこれは」

 最後に、ひときわ大きな石がある。それは磨かれたように美しい石だった。

「……みぃの父親」

 切なそうに呟く久美恵の鼻に、皺が寄る。奉文は首を傾げて、その石を撫でた。石は、石だ。

「みんな、石なの?」

「ともちゃんをひろってきたのは、あなたを、みぃのお腹におさめてしまおうと思ったからなの」

 久美恵が腰を落として、真剣な顔で奉文を見つめる。奉文は訳もわからずぽかんと口をあけた。

 目の前の久美恵は優しく、気高く、誰よりも美しい。それなのに、なんこんなに泣きそうな目をしているのか。

「ともふみって、名乗ってくれたけど、漢字までは分からなかった……でも手紙をあけてびっくりしたわ。奉る。生け贄。ねえ。なんて、私達にぴったりな名前の子だろうって」

「手紙?」

「あなたのご両親から、私に向けたこの世でもっとも残酷なお手紙よ」

 むうむうと、みゆがむずがる。寝ぼけているのだ。小さなその頭を、久美恵がいとおしそうに撫でる。

 実の娘に向けられる手の暖かさと、奉文に向けられる手の暖かさは同じだ。彼女は、左手と右手に同じだけの愛を込められる人だった。

 今もまた、彼女の指から通ってくるものは、愛だけである。

「ともちゃんは、鬼婆の森の伝説を知っていて?」

 ざ、ざ、ざと森が音をたてた。風が吹くと、この森はひどく泣く。奥も見えないほどの深い森だ。

 この奥に何があるのか、奉文はよくしらない。ただシダの巻き付く巨大な木や、背ほどもある雑草がうねうねと続き、その先は闇しかない。

 ただただ緑が濃い森である。木の幹には濃厚な苔がびっしりとついているし、葉の大きさも不思議と巨大だ。

 雨が降ると土の香りがむせかえる。ここだけ、南国の森のようである。薄暗い癖に生気が宿る、夏の似合う森だった。

「この森に、子供を捨てれば、鬼婆が綺麗に食べて骨までしゃぶって、綺麗綺麗になくしてしまう……馬鹿ねえ。鬼婆にも、選ぶ権利があるのよ」

「久美恵さんは、婆じゃない」

「まあ。お口が上手ね、ありがとう」

 風は雨の予感をはらんできた。木の隙間から見える空は、先ほどまでの晴天から打って変わって厚い雲に覆われている。

 不意に不安を覚えた奉文は、久美恵の腕をそっとひいた。

「……久美恵さん。もう、帰ろう。俺、昼ご飯つくるよ。久美恵さんと、みぃちゃんの食べたいもの作るよ、だから」

「ともちゃん、あたし、ともちゃんに謝らなくっちゃ」

 しかし久美恵は身じろぎもせず、奉文をじっと見つめる。この森から連れ出してくれた日のように。

「きっとこの子は、みぃの美味しいご飯になってくれる。みぃの、お腹を満たす……子になってくれる」

「……俺」

 久美恵の顔を下から見上げていると、奉文はいつかのように恍惚となってしまうのだ。

 まるで身体がクリームのようにとろけて、膝から崩れ落ちそうになってしまうのだ。

「俺、いいよ。ご飯でも、なんでもなるよ……だから、かえろ。お家に、かえろう」

「いい計画だと思ったのに。変ねえ」

 風は雨を連れてきた。ひたり、と額に大粒の雨が落ちた。それは、久美恵の涙だったのかもしれない。

「最近になって、みぃには、人のように恋をしてほしいとおもったの……ともちゃんと」

 手が、痛いほどに握られた。

「今からでも遅くはないわ。あたしのように後悔しないように」

 みゆのむずがる声と、久美恵のふるえる声と。

「あたしたちは、ふつうに、人を愛せるのかもしれない」

 消え入るようなその声と雨粒が奉文の額に降り注ぎ、それはまるで久美恵の遺言のように響いた。


「……っ」

 

 額にかすかな冷たさを感じて、奉文は飛び起きる。全身に汗がじっとりと染み出して、額から吹き出した汗が顎から膝へと流れ落ちた。

 飛び起きた奉文の隣で、小さな悲鳴が上がる。

「みぃ……ちゃん……?」

 奉文は昨夜遅くから風邪熱を出して、夢と現を行き来していた。その間、幾度も断片的な夢をみたようだ。

 起き上がった今でさえ、夢の続きにいるのかそれとも現実か、自分が今どこにいるのか分からない。

 目の前に広がるのは天井の薄暗い色。枕元には、口を押さえたみゆ。

 そんなみゆを見て、はじめて奉文は夢の世界から現実まで一気に引き戻された。

 たっぷりの汗をかいた体は妙に軽い。頭も軽く、瞼の腫れぼったさも消えた。

「……とも……大丈夫……?」

 不安そうに、みゆが呟く。眉が下がると鼻に皺が寄るのは、幼い頃から変わらない。

「みぃちゃん……」

 奉文は自分の額をそっと撫でた。そこに残る感触は、柔らかくも冷たく、そして固い。

「我慢、できなかったの?」

 奉文の声は掠れていた。昨夜から籠もっていた熱が、まだ喉の辺りに残っているようだ。

 額に当たった冷たさは、唇だった。額に当たった固いものは、歯のようだった。みゆの、食欲のようだった。

「あ……ああ……あ……」

 みゆは口を押さえて、ふるえている。その小さな身体を見ていると、いとおしさに奉文の身体もふるえるのだ。

 久美恵の祈りの言葉も忘れて、浅ましくも思ってしまうのだ。

「いいよ。たべて、いいよ」

 いっそ、この少女に、食べられてしまいたい。

「違う……違う……!」

 みゆはぶんぶんと頭をふった。

 怯えるように、彼女はじりじりと奉文から身を離す。細い足が、腕が、薄暗い部屋の中に輝く。

 そして彼女は両目から、大粒の涙を落とした。

「ともの、馬鹿」

「あ」

 みゆは床を蹴って、駆け去った。その彼女の背後に残されていたのは、氷の包まれた冷たいタオルにたっぷりのスポーツドリンク。

 そして、いまだに暖かい湯気をたてる小さな土鍋。

 その重い蓋をそっと外せば、甘く暖かい湯気が奉文の顔を撫でる。

 それはどろどろに煮込まれた、柔らかな白粥である。

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