タルトタタン
生ぬるい雨が窓を叩く、そんな休日である。
「……とも」
だらしなく部屋に寝転がる奉文に、みゆの小さな声が届いた。
彼女はふすまを薄く開け、おそるおそると奉文を見つめている。朝一番にたっぷり食事をした彼女は、いまだ満腹なのだろう。目があっても、奉文の姿は形も変えない。
いまだ人の形を保っている自分の指を数度握って開いて奉文は、みゆを見る。
「みぃちゃんが来てくれるの、珍しいね」
「ケーキの支度……」
みゆはおずおずと、それでいて不機嫌そうに眉を寄せたままだ。
「忘れてるなら、別に……いいんだけど」
伏し目がちに呟く彼女をみて、奉文は慌てて起き上がる。
「あ、そっか」
奉文は目をこすり、壁のカレンダーを見た。
肌にじっとりと絡みつくような雨が降る、6月ももう半ば。そうだ。今日は久美恵の、誕生日であった。
「二年で忘れるとか、久美恵さんに怒られるよね。昨年とおととし、みぃちゃんは一人で作ったの?」
「……」
二人でエプロンなどつけて台所に並ぶのは、久々のことだった。激しい雨のせいで窓も開けられず部屋はサウナのように暑いが、奉文は爽やかに笑う。
久美恵の誕生日に、二人でケーキを作る。どちらが言い出したことなのか、今ではもう覚えていない。小学生の低学年。泣き虫のみゆは、ケーキが焦げただけで涙目になっていた。
毎年二人してお菓子の本をにらめっこ。ケーキの作り方と美味しい紅茶の淹れ方を勉強した数年間を、奉文はいまだに忘れない。
毎年少しずつ美味しくなっていくケーキを前に、久美恵は妖艶に微笑んだ。
大食らいの彼女は、平然とした顔で巨大なホールケーキをぺろりと平らげたものである。そして食べ終わると決まって二人を膝にのせて、かわりばんこに頬へキスをくれるのだ。
どんなに焦げても、どんなに不味くても、久美恵は大げさなほどに喜んだ。口にクリームを付けて美味しい美味しいと喜ぶ無邪気な母のために二人は必死にケーキを研究した。
ケーキの香りを嗅ぐと、思い出すのは蒸し暑い夏の空気と雨の音。そして久美恵の柔らかい唇の感触である。
それをみゆも覚えていた。それが奉文にとって、何より嬉しい。
「一人で……作った」
ずり落ちてくるエプロンを幾度も直しながらみゆは、不機嫌そうに呟く。
「おいしくできた?」
「……焦げた」
ぷ、と膨れる頬が愛らしい。触れたい衝動に戦いながら、奉文は子供を諭すようにできるだけ優しい声音でほほえみかける。
「じゃあ今年は美味しく作ろうね」
とはいえ、ケーキを作るのは奉文だって2年ぶりのことである。さて、と台所を見回して、棚の隅に懐かしい袋を見つける。
「ホットケーキミックスだって。今年はこれにしよっか」
軽く振るったホットケーキミックスの袋を慎重に切る。どれだけ慎重に封をあけても、白い粉が甘い香りをまき散らし湿気った空気に散った。
それは懐かしい香りである。
さらさらのホットケーキミックスを、ボウルに移し、袋に書かれている作り方より少しだけ牛乳をプラスする。心持ちさらさらの液体を作っておいて、奉文は林檎を2つ、できるだけ細めのくし切りにした。
「みぃちゃん、鍋見ててね」
鍋に多めのバターを落とし、林檎をちりばめる。その上からたっぷりの砂糖を加えて火を落とした。
「み、見る……?」
奉文の手元を真剣に見つめていたみゆは、突然かけられた声に困惑するように首を左右に振る。そして奉文から渡された木べらを堅く掴んだ。
「焦げそうに音が変わったら混ぜて」
薄く切った林檎は、すぐさま音を立てはじめた。じりじり、じゅわじゅわ、そしてぱち、ぱち、と音が変わる。
溶けたバターを身に纏い、ぬるぬる輝く林檎は砂糖の蜜の重さに耐えかねるように突然崩れた。
焦げる限界まで、二人して鍋を覗き込む。みゆは小さな唇をきゅっと噛んで、それを真剣に眺めている。
「今っ」
厳しく叫んだ奉文の声に応えて、みゆは慌てて木べらで林檎を混ぜる。と、甘い蜜をまき散らして、焦げ色の付いた林檎の赤が梅雨闇にてらてらと輝いた。
「完璧だよ、みぃちゃん」
良い感じに砂糖とバターを吸い込んだ林檎を、ケーキの型に敷き詰める。その上に、林檎ジャムとバターを少しばかり。最後に、ゆるめのホットケーキミックスを流し込んで軽く縁を叩く。
「あとは焼くだけ」
「だけ?」
「そう。子供の時も、これに気づいていれば、あんなに汗だくになって卵を混ぜなくて済んだんだけどね」
奉文が型をオーブンに押し込むのを、みゆは祈るように見つめている。その横顔は幼い頃のそれと、同じものであった。
「……あっつ」
籠もった空気は甘くて重い。思わずシャツの隅で顔の汗を拭うと、穏やかだったはずのみゆの顔に、一瞬の険しさが浮かんだ。
「とも……」
険しい顔立ちは続いて、泣きそうな顔になり、そして無表情になる。
「とも……それ」
彼女が凝視していたのは、奉文の脇。シャツの隅をめくりあげて頬の汗を拭う。そのせいで、彼の脇腹は剥き出しだ。
その剥き出しの場所には傷跡がある。
引っつれたような、小さな傷だ。
それは、薄く薄く膜が張り、今や小さな傷跡にしかみえない。しかし、季節の変わり目ごとにちくりと痛む。
「あ」
慌ててシャツで隠すが、遅い。すでにみゆは、引きつった顔で、それを見ている。彼女は怯えるように、一歩退いた。
「……跡、残ってる。残ったんだ。残らない……大した事ないって……」
彼女の声は一声一声、泣き声に変わっていく。そして震えながら、奉文から距離をとる。
「大した事無いって、お母さんも、ともも……だから、だから……」
先ほどまでの穏やかな空気は一変した。オーブンの中、良い香りをまき散らしながら輝くケーキだけが、浮いて見える。
「みぃちゃん、ごめん、大丈夫……大丈夫だから」
みゆは奉文から一歩、二歩と離れていく。やがて足が壁に当たり、彼女の肩が大きくふるえた。
「二年前、私、言ったよね。ともは、ここにいたら危ない目にあうから、だから、出て……行ってって」
二年前。それは真冬のことだった。年の明けたばかりのことだった。冷たいが、澄んだ空気が喉の奥まで染み渡る、そんな日だった。
きっかけは忘れてしまったが、その朝、奉文ははじめてみゆとキスをした。共に暮らして十数年。はじめて気持ちが通じ合った。触れた唇の柔らかさや、鼻をくすぐるみゆの匂いに、奉文はなぜか涙がにじんだ。しっかり抱きしめた彼女の肩の柔らかさ、細さ、小さくふるえた彼女の心音を心地よいと感じた。
その次の瞬間。奉文は自身の身体の変化を知る。
音を立てて、奉文の身体から甘さが香った。柔らかい湯気が目の前を支配した。先ほどまで抱きしめていたはずのみゆが、怯えたように数歩退いた。
彼女の背後にある鏡には、みゆの後ろ姿と、奇っ怪な卵焼きの化け物が映っていた。全身、柔らかい黄色に包まれた化け物だ。ふかふかの、砂糖と出汁の香る甘い甘い卵焼き。
しかしそれは誰であろう、奉文である。
その時、奉文がなにを考え、なにを思ったのか。その風景を理解する前に、みゆが動いた。
怯えていたはずのみゆの瞳に狂気の色が滲む。その小さな唇が餌を求める鯉のように蠢いて、かちかちと白い歯が鳴る。目がとろりと蕩けた。それは獣の目である。
まるで野生の生き物のように、みゆは卵焼きと成り果てた奉文に飛びかかった。小さな口に囓られたそこは、痛みよりも甘美であった……と、今更みゆに言っても信じては貰えないだろうけれど。
「だから、出て行ったよ」
「……でも、帰って来た」
久美恵が騒ぎに気付かなければ、一噛みどころでは住まなかっただろう。
みゆが噛みしめたのは、卵焼きの一部分だ。しかし、実際は奉文の身体の一部であった。
獣のように奉文の身体に襲いかかろうとするみゆを宥めながら、久美恵が作ったのは卵焼きである。急いで作ったせいで焦げ目のついた不細工な形ではあったが、みゆはそれを必死にかぶりついた。彼女が本物の卵焼きを一口食べるたび、その愛らしい口が黄色の塊を噛みしめるたび、奉文の身体は人のそれに戻って行く。
そして最後の一かけを彼女が飲み込んだあと、人に戻った奉文に残されたのは脇腹の深い傷であった。
口の形にえぐれた脇腹からは、赤い血が冗談のように流れて部屋を汚した。
みゆの唇の端にも、赤い血がまとわりついている。みゆは奉文の傷を見つめてふるえ、続いて自分の唇を拭って細い悲鳴を上げた。
久美恵がはじめてみせた悲痛な顔と、わき腹の激痛と、色を無くしたみゆの顔。
幸せな10数年はその日で終わり、噛みちぎられたわき腹は、2年経っても甘い痛みを伴う。
「ともは、母さんが、死んだから帰って来た」
2年前のあの日から、みゆが奉文に打ち解けることは一度もない。
厳しい顔付きで、彼女は奉文を睨む。
「もしも、母さんへの恩義で、この家に帰ってきたのなら」
「みぃちゃん、違う」
「ともは、馬鹿野郎だ」
「違う」
「だいっきらい」
どん。と突き飛ばされて奉文は尻餅をつく。みゆを追いかけられなかったのは、彼女の目に浮かぶ涙を見たせいだ。
掴もうと伸ばした腕は、宙を掴む。目の前で閉じられた扉の向こう、みゆはきっと泣いている。
呆然と床に腰を落とした奉文の頭の上、オーブンが呑気な音を立てた。同時に、甘いバターと焦げた林檎の香りが台所を包み込む。
「久美恵さん、俺」
今はもうない優しい母の手を、優しい口づけを奉文は思い出す。
あの幸せな誕生日の甘い香りは、もう遠い昔の物語。
「……いや」
挫けかけた心を奉文は叱咤する。よろめく足を必死に立て直し、オーブンを開ければ、顔に甘い煙が広がった。
取り出して皿の上にそっとひっくり返す。あら熱が冷めるまでそのまま。ケーキの熱が落ち着いた頃には、すでに外の雨は上がりつつある。
ますます蒸し暑くなった台所の中、そっと型から取りだしたケーキはスポンジの上に蜜色林檎が載せられた、美しいタルトタタン。
「久美恵さんなら、どんな風に、みぃちゃんを慰める?」
一切れ、切り分けてそれを久美恵の写真の前に置く。もちろん、彼女は笑うばかりでこちらにアドバイスなどしてもくれないが。
それでも奉文はつられて笑った。
「俺、負けないから。俺、みぃちゃんを、絶対に……」
仏壇の前に置かれた不格好なケーキをみて、奉文は苦笑する。きっとこんなケーキでも、もし久美恵が生きていたなら喜んでくれただろう。
ともちゃん。と囁く久美恵の声はいつでも優しかった。
「久美恵さん」
乾いた唇で、久美恵の、母の名を呼ぶ。写真の中から、懐かしい彼女の声が聞こえた気がした。
『奉文の、奉の字を意味を知っている? それは』
それは幼い頃に聞いた久美恵の声だ。
『それはね……』
「知ってるよ、久美恵さん。それでも俺」
皿に盛られたタルトタタン。上に敷き詰めた林檎の重さに負けるように、スポンジが崩れて倒れる。
それは、久美恵の前に身を投げ出す生け贄のようだった。
「守るから」
手を合わせ、深々と頭を下げる。そして、もう一つ切り分けてあったケーキを手に立ち上がった。
「みぃちゃん、ケーキできたから、一緒に食べよ」
みゆの部屋の扉は、頑ななまでに閉じられていた。そっと扉に額を押し当てれば、中からは音もしない。ただ、泣いているのか、湿った空気が感じられる。
「……みぃちゃん」
そっと扉をあけ、中にケーキを押し込むなりすぐ閉じた。
息を潜めるように静かな部屋の中、しばらくすると中の気配が少し揺れ、やがて皿を引き寄せる音がした。
「好きだよ」
呟いた言葉は、扉に吸い込まれる。が、中には届いたのだ。
気配が震えた。そして同時に、奉文の身体からふわりと甘い香りが漂う。みれば、扉に押しつけた手が、額が、蜜色の林檎に変わっていく。床についた足が尻が、ふわふわのスポンジに変わっていく。
しかし、変わったのは一瞬のこと。中からすすり泣く声とフォークが皿を叩く音が聞こえはじめると奉文の身体は人のものに戻った。
「……困らせてごめんね」
中からは返事もないが、気のせいか扉がかすかに暖かい。この向こうにみゆもまた座っているのだ。声もたてないが、扉一枚隔てただけで二人は寄り添い座っている。それが彼女にできる精一杯の、表現なのだ。
(ああ……)
奉文は扉に背を押し当てたまま、久美恵の笑顔を思い出していた。
(久美恵さんにお誕生日おめでとうって、言い忘れてたなあ……)
外はまた雨。じめじめと皮膚を舐めるような空気の中、ケーキの甘い香りだけがいつまでも家の中に広がっていた。




