豚肉バーベキュー
照りつける日差しの下で、肉を焼いて食べるなんて馬鹿のすることだ。と、奉文はそう思っている。
貴重な休日。土曜日をつぶしてまで、会社の人間とバーベキューをするなんて、ただの馬鹿だ。大阿呆だ。
もちろん、楽しげに大声を張り上げる同僚たちに向かっては、口が裂けても言わないけれど。
「とーも君、食べなくていいのー?」
「いっす。俺、飲めないし、野菜切る方が好きだし」
名前もうろ覚えの女が、ビール片手に奉文の肩に腕を置く。たしか彼女は経理部の、新入社員だった。立場上は後輩でも年上のせいか、奉文に対しての態度がいつも甘い。
彼女の身体をさりげなくよけながら、奉文はひたすら目の前の食材を切り分ける。
会社から電車で20分。公園の中に作られた、形ばかりの小さなバーベキュー場。
今日は梅雨の合間、奇跡の晴れだ。天気がいいせいか、この季節の常識なのか、熱い日差しをうけて満員御礼。奉文の会社の人間はひときわ大きな声で、すでにできあがっている。
肉を焼いて食べるのは上司たちに任せて、奉文は材料を切ることに腐心していた。
人間の姿で料理をするのは久々なことだ。人の姿であることが、却って不思議なほどで、奉文は自分の手をじっと見つめる。
「とも君。すごい、若いのに、包丁の持ち方様になってる」
「でっしょー」
軽い女の声に惹かれるように、数人の女が奉文を取り巻いた。
同僚の男たちがそれをみて、あからさまに不機嫌な顔で舌打ちをするのが見える。が、奉文はかまわず人参の皮をむく。構っていては、きりがない。
「家じゃ俺が飯作ってますから」
「ともくんって、なんで会社の寮出ちゃったの?」
もったいない。と女は言う。
確かに寮なら家賃は格段に安く、会社からも近い。それなりに綺麗なマンションなので人気も高く、数も少ない。希望者が誰でも入れるとは限らない。
実際、奉文が部屋を出たあと、その部屋はすぐさま埋まったという。
「実家に戻ったの?」
「彼女と住んでまっす」
奉文が立つ調理場は、ちょうど緑の木陰である。先月までは初々しい淡い緑だったその葉の色も、梅雨に打たれてどんどん濃くなっていく。木陰にたつ人の顔に、緑の影が落ちていた。
みゆの家の裏にある森は、ここよりももっと深く静かだ。緑の陰も落ちない。ただ、暗く、湿って、そして心地の良い静けさである。
早く帰りたい。と、奉文は心中溜息を漏らした。
「彼女って幼なじみってきいたけど、ほんと?」
「あ、そっす。そっす。俺、小さい頃に親に捨てられたんで」
奉文の手は軽快に人参を刻む。できるだけ薄く輪切りにしようとして、それを止める。みゆ相手なら食べやすくも切るところだが、同僚の食べるものなら、厚かろうが食べにくかろうが関係もない。
「んで、育ててくれたのが彼女のお母さんで……まあ、高校卒業してすぐ就職して寮入ったから、その間は……遠距離恋愛ですけど」
ドラマみたい。と女達がまたきゃあきゃあ騒ぐ。それを横目に、奉文は冷たい笑みを咳で誤魔化した。
……遠距離恋愛などとんでもない。家を出て二年。みゆとは、顔も合わせず、声も聞いてもいない。
二年ぶりに帰ったところで、みゆは冷たい。いまだに、奉文を拒否する。
「で、なんで急に戻ったの?」
「久美……お袋が、病気で亡くなっちゃって。彼女が一人になっちゃうから。まあ、通勤できないこともない距離だし」
「えー彼女うらやましいな。優しくって料理つくってくれる彼氏って最高」
しなだれかかろうとする女を、年かさの女が留める。そして台にまだ余っている肉をいくつかそっと袋に詰めて奉文に押しつけた。
「とも君。余った食材持って帰って良いよ」
「え。でも」
「どうせみんな飲んでばかりで食べないし、毎年余らせて捨ててるから」
にっと笑った女の口から酒が香る。ここにいる人間は、ほどよくみんな酔っている。
「これで一品浮くでしょ……寮から出たんだから、物入りでしょ」
渡された肉は、タレにつけられた豚肉だ。透明の厚い脂に、赤い汁がしみこんでてらてらと輝く。赤身も分厚く、食べ応えのありそうな肉である。
が、朝から数時間も肉の煙を浴び続けた奉文は、見るだけで胃がずんやり重くなる。
……みゆが、肉気分ならいいのだが。
「でも彼女が何食べたいのか、顔見るまでわかんないからなあ」
「我が侭な彼女ねえ」
「そこが、可愛いんすよ」
「共依存になってるよ、あぶないあぶない」
のろけた奉文に、女たちがきゃあ。と沸く。肉を焼く男たちが睨んできても、誰も気にしない。もちろん、奉文も気にせず女達とともにへらへら笑ってみせた。
葉の隙間から漏れた光が地面にくっきりと緑の陰を生んでいる。それは、いやになるほど気怠い夏の色だった。
「共依存っていうか……」
肉をビニール袋の上から軽く揉んで、その冷たさを楽しむ。なぜか肉に対しては、嗜虐的な気持ちがわき上がるのである。
みゆもまた、奉文に対して、そんな気持ちを抱いていないだろうか。
(捕食者と、食材かな)
熱い日差しの中に、冷たい風を感じる。それは、みゆの冷たい目線だ。あの、泣き出しそうな赤い目と、小さな唇。
「……いたっ」
「あ、指!」
ぼんやりとみゆを思ったとたんに、包丁がゆらめき、それは奉文の親指を傷つける。騒ぐ女たちにかまわず、奉文は流れる水で血を落とす。
一瞬だけ痛みが走ったが、水で流せばそれもすぐに収まる。血はぷくりと浮かんだものの、傷はそれほど深くない。
「やだ。傷、深いの?」
「大丈夫っす、大丈夫っす」
赤い血を見ると、奉文は不思議と心和むのだ。まだ生きていたかと不思議に思うのだ。
「ああ。早く会いたいなあ……」
つぶやきは、水の音に紛れた。
勢いよく吹き出す水とともに流れていく赤い血は、どんどん薄くなり、やがて夏の光のなかで消えた。
「ただいま、みぃちゃん。ごめんね、土曜日なのに、会社の行事なんてさあ」
駆け足で自宅に付いたのは、もう18時半が過ぎるころ。仕事でもないのに仕事と同じだけ拘束されるなんて。と、奉文は暮れかける空をにらんだ。
部屋に駆け込めば、薄暗く冷たい部屋の中、所在なさげにみゆが座っていた。
「おかえ……」
奉文の顔を見て彼女は一瞬だけ、安堵の色を浮かべる。
存外素直な言葉を吐き出しかけて、彼女は慌てて首を振った。
「……り。じゃない。なんで帰ってきたの……」
が、続いて覗いたのは食への欲求だ。くうくうと、彼女の腹が鳴る。奉文のまとった、肉の香りを嗅いだせいだろう。
身体にいやになるほどしみこんだ、肉と脂と焦げたタレの香りだ。きっとこうなるだろうと予想して、奉文は周囲が止めるのも聞かずに思い切り煙を浴びてきた。
予想が当たったことに奉文は思わず目を輝かせる。
「みぃちゃん、もしかして、肉食べたい?」
訊ねる間もなく、奉文の腕が、肉になる。分厚い豚の三枚切り。脂と赤みのしましま模様。足は牛肉の巨大な塊だ。血が滴るほどの赤身は肩肉だろうか。むっちりと引き締まっている。顔は鶏肉へと変化した。歯ごたえもよさそうな黄色の脂身が、いかにも甘そうに輝いている。
いまや奇怪な肉の塊となった奉文をみて、みゆが腹をならす。いつもより、その目は獣に近い。まさに肉を見つめる肉食獣。腹が空いているのか、唇の端がふるえている。
獣に見入られた肉は、身を投げ出すほかのすべを知らない。さあ食べろと身を投げ出したい衝動と戦って、奉文はぎりぎりのところで打ち勝つ。
「……良かった。ちょうど、焼肉貰ってきた。台所で焼きながらバーベキューしよ」
台所には夕陽が差し込み、不気味に赤い。どろどろと血を流したような夕暮れ色だ。
赤色ほど食欲に直結した色はないと奉文は思っている。扇情的で、罪深く、魅惑的。満腹のはずの奉文まで腹が鳴る。
「やっきにく。やっきにく」
奉文は背後からの視線を味わいながら、いそいそと網を取り出し、コンロに火をかける。網に軽く脂を塗って、あつあつにしたところへ貰い物の肉を置く。タレにしっかり浸かっているせいで、肉の色が濃厚だ。
「あとの掃除は大変だけど、こうしてさ、立ったまま食べるのがおいしいんだよね」
じゅ。と音をたてて肉が煙を上げる。と、どろりとした脂が網の合間から下に落ち、炎の色をさらに赤くした。
その間に、小皿にタレと、茶碗には白ご飯をたっぷりと。
焼けた順にみゆの皿に移していけば、彼女は獣のようにそれに喰らいつく。とけた熱い脂が彼女の唇をてらてらと輝かせる。綺麗な焦げ目のついた脂身にからみつく甘い味。歯が、弾力のある赤身を断ち切る。彼女の口の中いっぱい、肉が溢れる。
一枚食べるごと、奉文の身体が人へと戻っていく。同時に、ようやくみゆの目に恥じらいらしき色がうかんだ。
彼女は取り繕うように、皿を机におく。タレのしみこんだ白米を恨みがましげに見つめて、耐えるようにうつむく。その彼女の向こう、水場が綺麗になっていることに奉文は気が付いた。
「あ、洗い物してくれたんだ」
今日は朝食を食べたきり、バーベキューにかり出された。皿とコップが積んであったはずだが、綺麗に片づけられているし、最近散らかしたままだった調味料も整然と並んでいる。
「ありがとね、みぃちゃん」
「……き、嫌いだけど」
口に付いた油を拭いながら、みゆはようやく口を開く。
「一緒に居る間くらいは、ちょっとくらい……わ、私の家だし……」
その口に浮かんだのは、あるか無きかの、ほほえみだ。
奉文は思わず、ひざまずいて彼女の顔をのぞき込む。
(二年前の、みぃちゃんの笑顔だ)
もう二度と見ることのないと思っていたほほえみである。
「……俺は」
「言わないで」
言い掛けた言葉を、みゆがとどめる。ほほえみは一瞬のことで、今の彼女に浮かんでいるのは泣き出しそうな顔である。
「その先は、言わないで」
お願い。と彼女は奉文の手をつかむ。その手はふるえていた。
そして奉文の掌をそっと自分の頬に押し当てる。久々に触れた彼女の頬は、小さく儚い。
「言わないなら、側に居られるから」
「みぃちゃん」
「おねがい……」
ふるえるようなその声は、いまにも泣き出しそうだ。お願い。お願い。獣が、餌に向かってそう懇願する。
指に触れて傷に気がついたのだろう。かすかな血の香りに、彼女の口が無意識に数回動いた。
「わかった」
だから奉文の中に残酷さが顔を出す。
「言わないよ」
「とも」
「……今日はね」
みゆの顔に浮かんだのは、絶望と喜びが混じり合ったような不思議な表情である。
薄暗い夕日に照らされたその顔をひとしきり眺めて、奉文は笑う。
「早く続き食べないと、焦げるよ。みぃちゃん」
梅雨の、生ぬるい空気が二人の間を優しくなでた。