じゃがいもグラタン、ロールパン
奉文の持つ一番古い記憶は、暗い森の中に響く泣き声だった。
それはあまりにも哀れな泣き声なのだ。泣きわめき、錯乱する声ではない。……ああ、ああ、ああと言葉にもならない泣き声なのだ。それは絶望の声だった。
これは自分の泣き声だ……と、気がついたのはずいぶん後になってからである。
まだ幼い……といっても5歳ほどだろうか。この泣き声から、彼の記憶は唐突にはじまる。
光も差し込まない森の奥。どろどろの格好で天を見上げて泣く奉文に向かって、綺麗な女が手を差しのべる。
彼女はぞっとするほど美しい赤の着物を身に纏い、黒いレースの傘を差していた。薄暗い森の中ひらめく傘は、コウモリのようだ。と思ったことを覚えている。
そして傘の下から覗く目は、まるで炎みたいに赤いのだ。
彼女は奉文の手をそっと握る。見た目より細く、冷たい手だ。そのくせ、泣けるほどに優しい肌だ。
そして、彼女は優しい声で名を訊ねた。
奉文はおずおずと名乗り、泥にまみれた手紙を差し出した……ああ、奉文は思い出す。そうだ、それはこの森に入る前、誰かに手渡されたものである。
この森で出会ったものに、この手紙を渡しなさい。
そういったのは、女と男だった。もう顔も思い出せない。握られた手は暖かいが心の通わない肌だった。今、奉文の手を握るこの女の手のような優しさが無かった。
「そう」
手紙に目を走らせた女は、嬉しそうに言った。
「奉、文。奉、文。奉文、奉文、ともふみ、とも……」
そして、彼女はにぃと笑った。
「いい名前ね」
その赤い唇からちらちら漏れた赤い舌が白い歯と柔らかそうな唇を一舐め。
そして、彼女は奉文を森から連れ出し一軒の家へと連れ込んだ。
それは森の入口にある巨大な家である。その庭では、奉文と同い年くらいの少女が手まりをつきつき一人、遊んでいる。
その少女は奉文を見ると、嬉しそうに笑ったのだ。それは愛らしく、そして引きつけられる笑みだった。
たぶん、奉文はその日から、恋をしている。
「……ん」
奉文は小さな音を聞きつけて伸びをする。その手が、枕元の目覚まし時計をころりと転がした。文字盤の長針が刺すのは9時過ぎ。
「……いけねっ! 遅……」
思いきり腹筋を使って起き上がったが、今日は土曜だ。と気付くと同時に彼は再び布団に沈み込む。
「ああ、今日土曜……いてっ」
勢いよく起きあがったせいで、右のわき腹にちりりと焼けるような痛みが走る。おそるおそるシャツをたくしあげれば、腹の脇に、数センチの傷跡が見える。
それはもうすっかりふさがっているが、引きちぎれたような赤い跡だ。傷をふさぐ薄い膜がひっつれて、皺が寄っている。そっとなでると甘美な苦みが口の中に広がった。
「……寒いな」
剥き出しの腹がひやりと冷たいのは、外が雨のせいかもしれない。先ほどからひたりひたりと、雨の音が聞こえてくる。寒いせいで古い傷が痛んだのだろう。
こんな音を聞いていると、この家に来た日のことを思い出す……と、奉文は天井の染みを見つめた。
はじめてこの家に招かれたのは、ちょうどこんな冷たい雨の日。暖かいご飯と暖かい風呂、そして布団に寝かし付けられたとき、奉文は幸福の二文字を知ったのだ。
少し大きくなってから知らされた真実は、奉文が両親の手によって森の奥に捨てられたことだけである。
絶えかけた奉文の命を救ったのはこの家の主……みゆの母、久美恵であった、そして、どんなからくりを使ったのか、奉文はこの家で育てられた。
だから奉文は父の顔を知らない、母の顔を知らない。生まれた家を知らない。
記憶にあるのは、綺麗な久美恵と、可愛いみゆと、この家だけだ。
なぜ森に捨てられ、この家に拾われることになったのか、知らされたのずっとあとのこと。
「……生きてるなあ」
湿気った空気の中、差し出された腕はしっかりと筋肉がついて力強い。
細くて細くて折れそうだといつも久美恵にからかわれていた腕である。そんな言葉を吹き飛ばすように、奉文はずっと立派に成長した。
思い返せばいくどかの命の危機があった。生き残れたのは奇跡だ。ここにいることも奇跡だ。ならば生きている今は、おまけのようなもの。
「……久美恵さん。俺さあ、帰って来たよ」
寝転んだまま顔を上げれば、部屋の隅に黒い仏壇がみえる。仏壇の真ん中に置かれた写真の中、微笑むのは奉文の命を繋いだ久美恵である。
森で見せたあの不気味な顔はそこにはない。赤の着物と黒い日傘こそ手放さなかったが、蛇のような赤い舌をみたのはあのときが最初で最後。
奉文は布団にだらしなく転がりながら、懐かしい人の顔を見上げる。
「ねえ。俺が帰って来て、困ってる? 嬉しい? どっちかなぁ」
彼女は天真爛漫に微笑んでいる。みゆも、昔はこんな顔で笑っていた。あの笑顔を見るまでは死ねないぞ。と、奉文は腹の底に力を込める。
「大丈夫、任せてよ。うまくやるからさ。俺、意外に器用なんだ」
腹筋の力だけで起き上がると起き上がった自分の足がぐつぐつと音を立て始める。おや、と目をこらせば、足の先から少しずつ、熱々のグラタンになっているのである。白いマグマが湧き上がり、漏れたマカロニとチーズの薄茶色に焦げたところがぱりりと音を立てている。ふつ、と割れた泡から甘い香りが広がって、奉文の腹がぐうと鳴る。
鳴った腹は、美味しそうなロールパンに変化した。
「みぃちゃん」
振り返れば、部屋のふすまがほんの少しだけ開けられて、そこから二つの目玉が覗いている。薄暗い中で見ると、どこか血の色に似た赤い赤い、綺麗な色。
その目は蕩けるような視線を送りつけてくる。口元もだらしなくぽかんと開き、これが垂涎のまなざしというのだろう。
「マカロニとジャガイモのグラタンと、パンが食べたいの?」
「ちが……」
「炭水化物ばっかりだと、ふとるよ」
起き上がり鏡を覗けば、顔はじゃがいもの塊に変化していた。ごつごつとしたジャガイモの顔とグラタンの足とマカロニの腕に、ロールパンの腹。賑やかな自分の姿に思わず噴き出す。
相変わらず、何度変化しても変な気分だ。こんな姿だというのに、体は熱くもなんともないし、目も見える。歩くことだって走ることだって、物を持つことだってできる。
もちろん、この恰好で外に出れば、ただの化け物だろうけど。
「まあ。いっそ太った方がいいけどさ、みぃちゃんは細すぎるし」
「うるさいっ! 違う……起こしに、起こしにきただけで……」
「俺のことみて、お腹減ったんだね。顔洗ったら朝御飯を作ろうと思ってたけど、これじゃ洗っても意味ないかなー。どうおもう? ねえ、みぃちゃん……」
「だから、嫌いだから、出てけ……出て行けって行ってるのにっ! なんでいるの、ずっといるの。もう、もう一週間も……嫌いっ」
どん、とみゆが、床を蹴った。古い家は、それだけで天井からはらはらと埃が散る。
その言葉に、奉文は目を細めた。もう、この家に帰ってきて一週間経ったのか、と改めて実感したのである。
「一週間っていうけどさ、俺は2年前までは、毎日ここにいたよ?」
みゆのヒステリーなど構わず立ち上がり、奉文は伸びをする。腕を伸ばすとグラタンの良い香りが鼻をついて堪らない。ぐっと堪えて、奉文は立ち上がった。
「俺の部屋だったでしょ、ここ」
いまや久美恵の仏間となっているこの部屋は、もともとは奉文の部屋だ。この部屋で、みゆとトランプで遊んだり喧嘩をしたり、昼寝をした。家を出たのは2年前。しかし、その断絶さえ感じないほど、この部屋は奉文にすんなりなじむ。
「だから俺がここにいるのは当たり前で、俺からすると、ただいま。って感じなんだけど」
動けばグラタンの甘い湯気が湿気った空気の中に広がるのが魅惑的だ。
じゃがいもはホクホクとよく煮崩れている。このほくほく具合は、ただ火を入れただけではないだろう。コンソメミルクで煮崩れる直前まで煮込んで、甘さを加えてみよう。胡椒もたっぷりひいて、入れて。
そうすれば、きっと、パンにもよく合う味わいだ。
パンチをきかせるために、ニンニクを少し刻んでもいい。朝から少し刺激的過ぎるだろうか。最後にたっぷり振りかけるチーズが、きっとうまくまとめてくれる。
「はいはい。今から作るけど、グラタンって割と時間かかるんだからさ」
いまや、食卓の化け物のようになった身体を引きずって、奉文は台所に向かう。みゆの隣を抜ける瞬間、彼女の腹がぐうと鳴り、口が歯がかちかちと鳴った。
「みぃちゃん。その間に、俺の方を食べないでよね」
「嫌いっ」
「俺は好きだよ」
反射的にかけられた言葉に、奉文はすぐさま言い返す。その言葉を聞くと、決まってみゆは泣きそうな嬉しそうな不思議な顔をする。
だから、何度でもいうのだ。
「みぃちゃん、大好きだよ」
小さな頭を撫でた手を、彼女の歯が無意識の内にねらう。それを咄嗟に回避して、奉文は泣きそうな喉をぐっと堪えた。
(俺は、多分、とんでもなく意地悪だ)
外は雨。家の裏にある森に雨が降りしきって、激しい音を立てている。
夏なのに肌寒く、奉文は無意識に腕をこする。今やそこは、でこぼこのマカロニだけれど。
「確かにこんな日はグラタンが美味しいよなぁ」
予定通りミルクと胡椒で煮込んだ優しいじゃがいもとマカロニに、たっぷりのチーズをかけてじっくり直火にかける。
あつあつのそれにロールパンを添えてテーブルに載せるなり、みゆの顔から尖りが消えた。
角が取れてとろけたじゃがいも、甘いにんじん、ぴりりと口に広がる胡椒に、飲み込んだとたんに香るにんにくの風味。
奉文が食べてみせると、みゆも恐る恐る噛みしめるのだ。ひとくち、彼女の愛らしい口が歯がじゃがいもを噛みしめ、マカロニを食いちぎり、パンのふかふかしたところを口にするたび、奉文の身体は人に戻っていく。
腕が、足が、顔が、腹が。みゆの胃が満たされるごと、人に戻って行く。同時に香りも煙も薄れて、最後に残ったのはテーブルの上、みゆが一生懸命に頬張っている料理の香りだけとなる。
(残念、と思うのはよくないんだけど)
奉文は自分の朝食を食べることもわすれて、みゆの赤い唇を、白くて小さな歯を見つめる。
その歯がぷちりぷちりと食材をかみ切るたびに、それが自分の身であれば、と妄想してしまうのだ。それは甘美に身を焦がす妄想である。
「……ご飯食べたし、お昼寝しよっか」
食事が終わると時刻はすっかり昼を回っていた。グラタンを作るのに時間がかかりすぎたのだ。
しかし今日はどうせ雨の土曜日。やることもなく、今の二人には会話もない。
奉文は湿気った布団に寝転がり、開いた隣をぽん。と叩いてみせる。が、みゆは一歩も部屋には入ってこなかった。
「残念」
「……とも」
……と、ふすまが薄く開いて、そこから白くて細長い手がちょろりと飛び出した。
それはみゆだ。廊下に寝転がって、腕だけをそっと差し入れているのである。
「みぃちゃん」
好きだ。という言葉を飲み込む。言えば、きっと彼女は逃げてしまう。
だから音もなくふすまに近づいて、その細い手をそっと握る。小さくふるえたが、彼女は逃げなかった。
「風邪引くよ」
冷たいが血の通った手だ。遙か昔、奉文の手をとった久美恵の手の皮膚に、温度に、よく似ている。優しさの通った手だ。
彼女のその手を祈るように両手で握り、その香りを嗅ぐ。
その遠く遠くに、薄く香る血。思わずその手を噛みしめたくなり、奉文はそのかわりに掌にそっと口づけた。