お子様ランチプレート
「お先でぇっす」
オフィスビルの入り口に置かれた、ニコチン塗れの灰皿付近。青い顔で煙草をふかす同僚二人の横をすり抜けて、草林奉文はまっすぐ外へと駆け出していく。
暗い冬が終わって気怠い春がきて、初夏から梅雨に向かうちょうどそんな季節。
すっかり昼が長くなった。6時前だというのに、外の日差しは遠慮がない。天は真っ青。少しのかげりもない、真昼のような青空だ。
焼き付くような青の色が奉文の目を刺さる。額に浮いた汗を拭う。腕にぶらさげたビニール袋が軽薄な音をたてる。中に潜ませた腐敗防止のドライアイスの煙が心地よく腕を冷やす。
(夏だなぁ……)
と、奉文は乾いた空を見上げた。
夏は好きだ。まぶしい青空も、朝から遠慮のない太陽も、突然吹き付けてくる雨も、夏の日差しを浴びたおいしい旬の野菜たちも。
「奉文、奉文、とーもーふーみー」
「……あっはい」
後ろからかけられた呼び声が自分に宛てられたものだと気づくまで、ほんの少し時間がかかる。
それが自分の名前だと気づいた瞬間、まるで踊るように振り返った。と、灰皿前の同僚二人が、まるで苦虫を噛みつぶしたような顔で奉文を見つめている。
「お前、仕事は?」
「俺の分は、終了でっす。なので、お先っす」
軽く言い放って、胸を張る。残れ残れと、呪詛のように睨んでくる同僚たちの顔はどこか青白い。つきあい残業が続いているせいだ。
二人ともお揃いの青いクマ。ご苦労様なことで。と口から出かけた嫌みを奉文は無理矢理飲み込む。
男たちはねちっこい目で奉文を見つめてくる。まだ、聞きたいことがありそうだ。
……いや、そちらこそ彼らが一番聞きたいことなのだろう。
「なあ、奉文。あ、いや。これ、噂で聞いたんだけどさ……お前、異動の話蹴ったって?」
「あ、はいっ。蹴りました」
思い切り笑顔で、突き出すピースサイン。それをみた同僚たちがあきれ顔で煙を宙に吹きだした。
「もったいねえ。お前、このチャンス逃したらもう二度と昇級ねえぞ」
若いのに。と、一人が小声で吐き捨てる。それはすぐさま煙とともに飲み込まれたが、垣間見えたのは醜い嫉妬の吐息だ。
同僚といっても、奉文は彼らより4つほど若い。
奉文が凄まじく有能……というわけではない。高校を卒業してすぐに入社したせいで、必然的に年上の同僚が生まれただけの話。
ただそれでも奉文は、彼らよりほんの少し優秀であるらしい。
今朝、人事部長直々に耳打ちしてきた異動の話。幹部候補のビッグチャンス。入社してまだ2年目、成人したばかりの若造にかけられるには、あまりにも奇跡的な昇級話。
しかし、奉文は人事部長の言葉が終わるより早く、それを一蹴した。
今朝、打ち合わせ室で行われたこの秘密会議はすでに社内に漏れたらしい。部長から「内密に」と言った癖に、このざまだ。やはり大人は油断がならない。
「異動したら残業、増えるっしょ。それに残業代もつかないし」
宙につきだした手は、いまだ誇らしげなピースサインのまま。初夏の日差しに晒された腕は綺麗な小麦色だ。それは焼き立て食パンの、皮の色に似ている。
「俺、基本給あがるより、早く帰れる方がいいんです。家で可愛い彼女が待ってるんで」
「……つか、お前その袋なに」
奉文が手を上下するたび音を立てる袋を見て、同僚の一人がいう。袋を開いてみせれば、ぴん。と尖った綺麗な茄子と赤い色が扇状的なトマト、そしてピンク色のミンチ肉が顔を覗かせる。
それを自慢げに見せつけながら、奉文は満面の笑みを浮かべた。
「晩御飯の材料。俺が飯係だから、食材も買いだしするんですよ。ビルの裏に八百屋あるっしょ、あそこオフィス街の八百屋って思えないほど品ぞろえよくて、なんか肉とかも売ってて、質もこれがなかなかの」
「みりゃわかるよ……で、お前、異動の話蹴って、残業も回避して、そんな馬鹿みてえな」
「……俺」
ふっと、声が低くなるのを奉文自身、気が付く。目が細くなるのを、自分自身が、理解する。そんな顔をすると恐ろしい顔になることも、重々承知で止められない。
「……」
同僚たちの目が泳ぐその直前、奉文は息を吸い込んで、無理矢理笑顔をつくる。そして、思い切り馬鹿っぽい声をあげてみせた。
「ほら俺、昨日、寮から彼女んちに引っ越ししたばっかでしょ。荷物まだ解けてないんでぇ。しばらくは残業、遠慮してるですよぉ……じゃ、そういうわけで、改めてお先っす」
あとはもう顔も見ずに駆けだしていく。
馬鹿な男たちだ。と奉文は心の中でせせら笑った。
奉文にとって、食事とは至福であり、恋であり、彼にとっての生きる道。
そんなこともわからない連中は、一生目の下にクマを作って青白い顔で働いていればいいんだ。
駅までの道を一直線に駆けながら、奉文は心の中で同僚の顔を数度踏みつけた。
電車の鈍行に揺らされて30分。あれほどまぶしかった青空は、どんどん暮れていく。ゆっくり西に下っていく太陽は、腐った色のオレンジだ。それに照らされて、空の青は濁った紺色になっていく。夏の夕暮れはさわやかさよりも、不気味さが先に立つ。
「いそげ、いそげ」
古い駅を降りて坂道をあがれば、目の前に鬱蒼と緑に茂る森が見える。その森のちょうど真正面、緑の園を守るように、巨大な日本家屋が鎮座しているのである。
巨大な平屋造りに、庭先にはいくつもの立派な木が見える。しかし古く、どこか寒々しい。
「ただいまー」
古くさびた門をこじ開けて、身体を滑り込ませる。地面に埋められた飛び石をひょい、ひょいと飛び渡り数メートル。玄関を開ければ、薄暗い廊下にひやりとした空気が広がっていた。
「みぃちゃん、みぃちゃん。ただいま。俺だよ」
台所に駆け込んで、まずは冷蔵庫に食材を片づける。そしてコップにいっぱい、麦茶を注ぐ。飲み干せば、一気に汗が噴き出した。駆け抜けてきたのだから、当然だ。
それを拭う間も惜しい。みぃちゃん、みぃちゃん。奉文は呼びかけて、なお走りはじめる。
和室が6部屋、洋室2部屋。台所にトイレにお風呂、そして茶道具なども置かれた広い客間。この家はとにかく広いのだ。
まるでかくれんぼに興じる子供を捜すように、奉文は歌いながらいう「みぃちゃん」。
やがて客間の一番奥、押入のふすまに奉文は手をかけた。
……気配がする。それは暖かい、気配だ。
「みぃちゃん、みっけ。またこんなところ隠れてる」
脅かさないようにそっと扉をあけて、覗きこめば赤い目が見えた。それは夕日の蕩けた赤に似ている。その目が、暗闇のなかで怯えるよう光った。
なにも入っていない押入の隅っこ。喪服姿の細身の少女が一人膝を抱えて座り込んでいる。
「出ておいで。遅くなってごめんね。今日はなに食べたい?」
そっと手をさしのべて、その細い腕を優しく握る。触れ合うと震えたが、振り払うことはない。そんな心の動きを感じ取りながら、優しく優しくそっと腕を引く。
「ほらほら、怖くないからさ」
「……出て行って」
優しく引っ張り出した少女……瑞希みゆが最初に発したのはその冷たい一言だ。しかし、奉文はくじけない。にこりと笑って、みゆの顔をのぞき込む。
細い身体に白い膚。暗闇だと赤く光る目も、明るいところでみると綺麗な茶色だ。
ただ、泣いていたのか、白目だけがかわいそうなほどに赤い。癖もない黒い髪はつややかで、まるで水でも浴びたよう。身にまとう喪服の黒よりまだ黒い。
おとなしそうな顔立ちだが、口調だけはひどく冷たく奉文を突き放す。
「とも……出ていって」
「出てって。っていっても、俺もう寮を解約してここに引っ越してきちゃったし、住民票、移しちゃったし」
「また移しなおせば、いいじゃない」
「会社にも言っちゃったし。俺、昇級蹴って残業もしてない主義だから、お金ないんだ。だから、引っ越せないし」
「お金くらい、私が出すし」
「おばさんの遺産はみぃちゃんとの食費以外、いっさい手をつけませんって、おばさんのお仏壇の前で宣言しちゃったし」
「馬鹿じゃないの」
「馬鹿なの、俺」
小さな顔をのぞき込み、にっこり笑ってみせる。すると、みゆの眉が八の字に垂れた。これは、困ったときの彼女の癖。その眉を優しくなでると、続いてみゆは泣きそうな顔になる。
「……俺が馬鹿なことくらい、知ってるくせに、みぃちゃん」
「とも」
「ねえ、なにが食べたい? 和食? イタリアン? いいトマトがあるから、ハンバーグに焼きトマト? 茄子をことこと煮込んで、とろとろのカレーにしようか?」
「やだ……とも」
おなかなんて、空いてない。吐き捨てようとした彼女の声がふるえて声にならず畳の上に落ちていく。
やがて、みゆの腹がくうくうと可愛らしく鳴き始める。家の裏の森からは、りいりいと虫の声が泣きはじめる。どこかで水の垂れる音がする。そして、奉文の身体が、不気味な音をたてはじめる。
「……ああ」
その瞬間、奉文はいつも恍惚となるのである。
腕が、足が、みしみしと音をたてる。じゅうじゅうとなにかが焼ける音に、おいしそうな煙と匂い。
良く見れば奉文の腕が、少しずつ変形していく。腕の先、掌が大きな白い皿に。一日キーボードをたたき続けた指が、エビフライに、ハンバーグに、ケチャップライスに変化する。なんて、おいしそうな色に香りに煙に音。
そしてそのケチャップライスの上には、いかにも子供だましの小さな旗がひとつはためく。
お子さまランチプレートか。と、奉文はいとおしさに思わずにやけた。
「なるほど、こういうのも、たまにはいいね」
「あ……あ……」
みゆは、後悔で泣きそうに顔を歪め、顔を覆う。が、指の合間から見える透き通った目の奥は、獲物を見つけた肉食獣のように不気味に輝くのである。いまや、彼女の顔には腹を空かせた野生の獣と哀れを知る菩薩のふたつの顔が共存している。
奉文は、そんなみゆの顔を見るたびに、ぞくぞくと背中がふるえるのである。
「やだ……とも、やだ……やめて……お願い……」
「ごめん、ごめん。もう見せないから、そこで待ってて。すぐ作ってくるからさ」
ふと見れば、足も巨大なエビフライに変化している。鏡を覗けば、顔は巨大なハンバーグ。髪の毛は、ご丁寧に半熟卵。
動く巨大なお子様ランチプレート。それが、奉文の今の姿である。
(こう、いい香りだと、ちょっとたまらないな)
自分の身体だというのに、見ていると腹が鳴る。このいい香りは、自分自身から漂っているのである。
(帰ってくる前に、軽くパンでも囓っておかないと、いつか自分で食べちゃいそうだ)
このポテトひとつ、ハンバーグ一つたべれば指がちぎれて肉が断ちきれ血が溢れることを奉文は知っている。
だから、食べない。食べられない。我慢の子だ。
「じゃ、つくりますかね」
暗がりの台所で包丁を握り、冷蔵庫から食材を取り出す。こんな姿になっても、包丁は握れるし、歩くこともできるのが不思議ではある。
「ハンバーグ、エビフライ、ケチャップライスに、ポテトフライ」
歌いながら包丁を振るう奉文の怪奇な姿の上、夕日が血の色をにじませてどろりと振りかかった。
「はい、みぃちゃん。召し上がれ」
「……やだ」
奉文の身体そっくりなお子様ランチを、そっとみゆの前に差し出す。と、彼女はまず否定の声をあげた。
その顔が怯えているのに気付き、奉文は自分の腕と頭を叩いて見せる。
「俺の身体のじゃなくって、作ったご飯だから大丈夫……ほら」
チキンいりのケチャップライスをすくい上げて、ひとくち口に放り込む。ぷりぷり柔らかいチキンがケチャップの甘さに混じり合い、とろけていく。
「美味しいよ」
お子様ランチに擬態した男がお子様ランチを食べる図は、ちょっと笑える光景だ。もちろん、悪趣味ではあるが。
みゆを怯えさせないように、奉文は敢えて明るく振る舞って見せた。
「ほら、ハンバーグも。焼きトマトと半熟卵乗せだよ」
ふちが焦げるまでしっかりやいたトマトは、酸味が飛んで甘さが残る。その上には、ちょうどいい蕩け具合の半熟卵。ふかふかのハンバーグと一緒に切り分けて、みゆの前に差し出す。
赤と黒と黄色の魅惑の塊を前に抗えない彼女は、ふるえる唇をそっとあけた。
白い歯が、ぷちりと肉をかむ。トマトと卵を吸い込む。小さな唇がいかにもおいしそうにほほえみ、細い顎が一生懸命に動く。この瞬間が、奉文にとっての至福のときだ。
「みぃちゃん、トマトが乗ったハンバーグ好きでしょ。昔……10歳のときかな、おばさんにつれて行ってもらったファミリーレストラン」
いまや巨大なエビフライになった肘を机について、奉文はみゆの顔を覗き込む。
「そのとき、一緒に食べたでしょ。焼いたトマト。それまでみぃちゃん、トマト大嫌いだったけど、あの焼きトマトでトマトが好きになったんだよね」
みゆの目が丸くなる。そんな顔をすると10歳の頃の彼女のまま。ちょっと気が弱いけれど、素直で可愛らしく、奉文のあとを一生懸命追いかけて来たあの頃のまま。
「……」
「おいしい?」
「……ともなんか、嫌い」
みゆはハンバーグを食べ、エビフライを噛みしめる。ポテトフライの熱いところをぱくりと飲み込む。彼女が皿の上を綺麗にするたびに、奉文の身体はどんどんと人間へと戻っていく。
まるで、逆再生をするように。足も、腕も、頭も、腹も、少しずつ人の姿を取り戻す。
一緒にケチャップライスをつつく奉文の腕はすでに小麦色のそれに戻っていた。戻る瞬間は、変化する瞬間よりも平凡で、つまらない。
それでも、奉文はほっと息を吐く。
「もどった、もどった」
「とも、嫌い」
嫌い。といいながら、彼女は必死に食事をがっついている。
口のはしについたケチャップをぬぐってやると、みゆは泣きそうな顔で奉文を見る。嫌い。というその言葉に彼女自身が傷ついているようだ。
「みぃちゃん、おなか空いてたんでしょ。ごめんね。明日からは昼飯もちゃんと作るから」
「……いらない」
「でもおなか空くでしょ。俺、帰りはいつもこの時間になるしさ……まあ昨日は越してきたばっかで、昼飯作っておくまで気が回らなかったんだよね」
振り返れば部屋には小さな段ボールが散乱している。といっても、数はそれほどはない。
この小さな箱に詰まっているのは、服に靴に少しの本と、ほんの少しの思い出の荷物だけ。2年間、会社の寮でできた荷物はたったのこれだけだった。
みかんの絵が描かれた段ボールの向こうに見えるのは黒塗りの仏壇である。不自然なほど綺麗に磨かれた仏壇の中には、線の細い綺麗な女の写真が一枚と小さな骨壺がひとつ。
「おばさんにも、ご飯持って来てあげようかな。ケチャップライスだけど、いいかな。笑ってくれそうだよね、おばさんならさ」
「……とも、なんでこの家に……戻ってきちゃったの」
机に箸を置く音が響く。見れば、みゆが泣きそうな顔で奉文を見ていた。
「2年間出て行ったあと、ほとんど顔も見せなかったくせに」
みゆは奉文と同じ年だ。成人をしているはずなのに、彼女の顔は幼いし細い。
「だから……だから、もう、会う事無いって、安心……安心してたのに」
子供のような肩がふるふるとふるえる。
「なんで、私なんて、かまうの……ともは、ともの、人生があるのに」
大きすぎる喪服の袖に、涙がいくつも垂れた。
「私に、かまわないで……出て行って」
今日、何度目かになる、出て行って、だ。昨日、奉文がここに段ボールを運び込んだその時から、彼女はあきもせずに同じワードを繰り返している。
「私、ともなんて、大嫌い」
「うん。大丈夫、わかってる」
出て行って、嫌い。何度言われても、奉文の心はおれないし、かえってその言葉は奉文を嬉しくさせてしまうのだ。彼女は、そんな男心をわかっていない。
最後のハンバーグの欠片を一生懸命噛みしめる彼女の顔をのぞき込み、奉文は笑顔を浮かべた。
「俺は大好きだよ、みぃちゃん」
その言葉に、みゆの顔に絶望と幸福の色が通り過ぎる。奉文は顔をそらし、窓の外を見る。外はすっかり真っ暗だ。初夏特有の、重い空が広がっている。
それはまもなく梅雨が訪れる頃。ぬるくとろける季節のはじまり。
食事を作ることは、食べることは、奉文にとって生きることであり恋だ。と、みゆの額に浮かんだ汗を、奉文は優しく拭ってやった。