赤い鼻のピエロ
「このクソピエロが!」
ガン、という衝撃音が辺りに響く。しかしそれはすぐにそこかしこから聞こえる騒音に掻き消された。その音に気付いたのは、彼の左隣りに座っていた老人と、右隣りに座っていた主婦くらいだ。両者は一瞬ビクッと肩を跳ね上げさせ、彼の蹴りつけた台を一目見やると、すぐに前へと向き直った。そして下皿からコインを三枚手に取りレバーを回す作業を再開する。主婦が図柄を止めると、ガコっという小気味良い音が台から鳴り、左についているランプが紫色に点灯した。ボーナス告知だ。主婦は気まずそうに7の図柄を目押しで止め、ボーナスを獲得する。
「お客様、困ります」
棒のように突っ立って、そんな主婦の様子を後ろから恨めしそうに眺めていた彼の傍に、いつの間にかスタッフが駆けつけていた。
「台を傷つけるような行為は――」
「うるせえ!」
気弱そうな若いスタッフは、彼のその威圧的な態度に萎縮してしまった。
「これを見やがれ!」
そう言うと、彼は台の上に設置されている表示器を指差す。
「回転数が千回超えるとか、どうかしてるだろ! お前ら裏で遠隔操作でもやってやがるんじゃねえのか?」
「そのようなことは……」
「じゃあどうして俺の台だけが一向に光らねえんだよ! 隣のババアなんて、百回転以内でボコボコかかってんのになあ!」
頭に血が上った彼は、目の前で体を震わせる店員の胸倉をつかんだ。しかし通路の先から別のスタッフが数人こちらへやってきたのを見て、彼は投げ捨てるように手を離した。
「こんな店、二度と来るか!」
最後にもう一度台を蹴りつける。台に描かれたピエロの顔に足の裏がヒットしたのを確認すると、彼は足早に店を後にした。もはや失うものが何もない彼だったが、それでも警察沙汰になることは面倒だったからだ。
店の外に出た彼は店内入り口を仰ぎ見る。そこには、先ほどまで彼が向かい合っていたスロット台のマスコットキャラクターであるピエロが、不気味な笑みを浮かべてこちらを見下ろしていた。バツ印の目に赤く膨れ上がった鼻、アメリカ国旗を彷彿させる帽子――これまでに何度も目にしてきたそんなピエロの容姿が、今の彼にはどうしようもなく憎く思えた。もう一度蹴りつけてやりたかったが、ピエロが描かれているのははるか上方だったため、彼は諦めて、店先に向かい唾を吐き捨てるにとどめた。
それにしても――――
まずいことになった。
自宅の方に足を向けながら、彼は今更ながら現在の自分の状況に途方に暮れた。歩きながら何度も財布の中を確認するが、札が増えているようなことはなかったし、過去の自分が未来の自分に向けて残したかもしれないへそくりがひょっこり見つかるような奇跡は起こらなかった。そんな当たり前の事実を確認するたびに、彼の心は醜く荒んでいった。
今日の勝負は、いつものそれとは重みが違ったのだ。
もちろん、今までの勝負がどうでも良かったというわけではなくて、これまでも幾度となく次の日の生活をかけてはパチンコ店に押しかけて勝ち負けを演出し、勝った時は豪遊、負けた時は親にたかるような日々を送っていた。これだけを聞くと全然切羽詰っていないように思えるかもしれないが、今まで親から金を拝借できていたのは、彼がギャンブルで儲けた時に親から借りた分を返済できていたからだ。金の貸し借りという点に目をつぶれば、お互いに損もせず、それなりに平和的な関係を築けていた。
しかし、今年に入ってから、彼の勝率は大きく低下した。
体感的には、十回に一度くらいしか勝てなくなった。
何が原因か本当のところはわからないが、彼が風の噂で聞いた話によると、普段カモにしていたホールの店長が変わり、これまでとは経営方針を大きく切り替えたから立ち回りが難しくなった――などということは、いくら考えても仕方のないことだったので、彼は思考を遮る。
とにかく、そういう状況になってからは両親からの風当たりが厳しくなり、先日とうとう絶縁宣言を下された。家から出て行けと言われ、彼は職も持たないまま一人暮らしを開始したのだ。
そして、明日は最初の家賃支払い日。
今朝の段階で、持ち金は五万円。
家賃は四万円だったため、払おうと思えば払えたのだが、光熱費やその後の生活を考えると、とても一万円を握りしめているだけでは危うかった。彼は仕事もやっていなかったし、だから元金があるうちに少しでも増やしておこう――そんな欲が生まれたのだ。
そして、今。彼の財布には数枚の小銭しか残されていなかった。
まさかこんなに大負けするなんて、彼は想像していなかった。大負けしないために、大きく勝つことは捨てて比較的軽くボーナスを引けるピエロに勝負を挑むことにしたというのに、台を転々としているうちに彼の五万円は跡形もなく消え去ってしまった。
一体俺は、明日からどうすればいいのだろう。
そんな答えのない問いを頭の中に浮かべているうちに、彼はいつの間にか自宅にたどり着いていた。築数十年の古いアパートだ。軋む階段を上り、自室の前に立つ。彼は扉を開けようとして――鍵がかかっていないことに気が付いた。
(鍵をかけ忘れていたのか)
しかし彼はそれほど気に留めない。不用心ではあったが、住んで間もない彼の家の中には取られて困るような代物は何もなかったからだ。しいて言えば、彼が唯一買い溜めしていたカップラーメンの最後の一つがテーブルの上に置いてあったくらいで、それが無くなれば明日の彼は何も口にすることができない。まあ明日を乗り切ったところでその後がどうにもならないわけなのだが――
絶望に満ちた今後に思いを馳せながら、少しだけカップラーメンの身を案じつつ、彼は扉を開けた。
そこには巨大なピエロがいた。
「あ、お帰り~」
その巨体に見合わない甲高い声を上げ、ピエロは視線を彼に移した。
「遅かったね~。あまりにも遅かったから、そこのカップラーメン食べちゃったよ~」
ピエロが向かい合っているちゃぶ台の上には、汁さえ残されていないカップラーメンの容器があった。
「……は?」
彼は状況を把握できなかった。今となってはカップラーメンの安否などはどうでもいい問題だ。
「何を驚いてるの~? 驚くことなんて何にもないじゃないか~」
ピエロはそう言うと立ち上がった。足がちゃぶ台に当たってひっくり返る。
立ち上がったピエロはとてつもなく巨大だった。2メートルはゆうに超え、もう少しで天井に頭がつきそうだ。ピエロの頭にはアメリカ国旗の配色が施された帽子が乗っかっている。バツ印の両目に、赤く膨れ上がった鼻――その顔に、彼は間違いなく見覚えがあった。
「お前は、誰だ」
しかし彼はあえて聞いた。するとピエロは大きくのけ反って大げさに驚く。
「えー! 酷い、酷すぎるよー! さっきまで一緒だったじゃないか~」
「俺が一緒だったのは、スロット台だ」
「だ~か~ら~、僕はそのスロット台のピエロなんだって~。見ればわかるでしょ~」
「そんなものが実在するわけがないだろうが。お前はそのピエロのコスプレをした変質者だ」
彼はピエロから目を離さずに、少しずつ後ろへ下がった。
「通報させてもらうからな」
あいにく彼は携帯電話を解約したばかりだったため、外に設置されている公衆電話を使って警察を呼ぼうとしていた。しかし――
彼の背後で開いていた扉は、外から力を加えられたように勢いよく閉まった。彼は慌てて扉を開けようとするも、どういうわけかそれは開かない。外から何者かが扉を押さえつけているかのように、びくともしなかった。
「通報したいのは~」
真後ろから聞こえた甲高い声に、彼は反射的に振り返る。
「僕の方なんだよお!」
それはとてつもない大声量だった。ピエロの鼻は彼の鼻とくっつきそうなくらい近づき、彼の倍以上大きな顔が彼の視界を奪う。
「この鼻を見てよ~」
両足に力が入らなくなってしゃがみこむ彼に合わせるようにピエロも姿勢を低くした。そして自らの鼻を指差す。
「君に蹴られて真っ赤に腫れちゃんたんだよ~。痛くて痛くて、辛抱ならないんだ~。これは病院に行って、治療をしてもらう必要があるね~」
一方的にそう言うと、ピエロは彼の目の前で指を三本立てた。
「治療費としてこれに0を5個つけた金額がかかりそうなんだ~。それを君に請求するよ~」
彼は瞬時に計算し、顔を真っ青にした。
「さ、三十万だって……?」
「うん~、それで許してあげるよ~」
「ふ、ふざけるな!」
パチンコ店で上げた声よりはるかに小さな声で、彼はピエロに言葉を返す。
「言いがかりもいいところだ。お前の鼻は最初から真っ赤だろ」
「……僕の鼻が最初から真っ赤だって……?」
直後、彼はもの凄い勢いでピエロに迫られ、扉に押し付けられた。
「そんなわけないだろう!」
口から内臓が出そうなくらいの圧力に、彼は言葉を失う。
「今までに何回も君みたいな人に痛めつけられてこんなに赤くなっちゃったんだよお!」
そう激昂すると、ピエロは彼を押し付ける力を弱めた。そして自らの鼻を大切そうになでる。
「もう昔みたいには戻れないんだよ~。悲しいな~。しくしく」
「……今の俺には、とても払えない」
彼はとうとう観念した。暴力に訴えられ、心を脅されれば、誰だって気持ちが折れてしまう。
「だろうね~。だってこんなにまずいカップラーメンしかここにはないんだからさ~」
そう言いながらピエロは床に転がったカップラーメンの容器を手に持って眺めた。
「でもね~。そんな君にチャンスをあげるよ~」
「チャンス?」
「そう~、とってもいい話だと思うんだ~」
「俺は何をすればいい?」
「簡単だよ~。僕とちょっとしたゲームをしてくれたら、鼻の治療費は払わなくていいよ~」
「……本当か?」
「本当本当、僕は嘘を吐かないからさ~」
彼はピエロのことを怪しむ気力もなく、促されるまま会話の波に乗る。
「わかった。やるよ」
「やった! ありがとう~」
ピエロは飛び跳ねて喜ぶ。巨体が着地するたびにアパート全体が揺れるような気がした。
「じゃあ、さっそくやろうよ~!」
「それで、何のゲームだ?」
「にらめっこだよ~」
「……にらめっこ?」
「そう、にらめっこ~。遊び方は知ってるよね~?」
にらめっこを知らない人は少ないはずだ。お互いに変な顔を見せあい、笑ったら負けというシンプルな遊び。彼も子供の頃に何度も経験したことがあった。
「ただね~、僕とするにらめっこは、ちょっとだけルールが違うんだ~」
「どう違うんだ?」
「今からやるのはね~、たくさん笑った方が勝ちなんだ~。心の底からたくさん笑った方が勝ちなんだよ~」
「たくさん笑う……」
彼はピエロの顔を見た。ピエロは口の端を上げ、常に笑っているような表情をしている。
「簡単だよね~。笑うのなんて~、生きていたら誰だって経験することだからね~」
確かに簡単だ。彼はそう思った。笑うには、目の前のピエロのように口角を上げていれば済む話だ。それが作り笑いであっても、笑っていることにかわりないのだから。彼は笑う練習をするように、口を吊り上げて笑顔を作ってみた。
「僕に勝つためのヒントはね~」
聞いてもいないのに、ピエロは勝手に口を開く。
「これから先のことを想像したら~、たくさん笑えると思うよ~。君はまだ若そうだからさ~、これから色々経験できるよね~。綺麗なお嫁さんを手に入れて~、子供を作って~、両親に会わせてあげたら~、最高な人生だよね~」
ピエロの言葉に、彼は思考を奪われた。
お嫁さん。子供。両親。
そのキーワードを頭の中で反芻する。
成人して職もなく、明日食べるものさえままならない。両親とは絶縁してしまった。そんな自分のことを愛してくれる人間なんて、この先現れるのだろうか。女どころか友人でさえ――自分のことを理解してくれている人間を思い浮かべようとするが、彼の頭には誰の顔も現れなかった。
そこで初めて、彼は自分の生き方に後悔した。
「は~い、終わり~」
自分の世界で底のない沼にはまっていた彼は、ピエロの高い声で目が覚めた。
「よくできました~。楽しかったね~」
「……もう始まってたのか?」
当然その間、彼の顔に笑顔は浮かんでいなかった。
「始まってたし、もう終わったよ~。勝ったのは僕でした~」
どういう基準で判定されていたのかはわからなかったが、彼にしても、その判決に意義はなかった。彼は自分の未来に心の底から笑える要素を見出すことができなかったのだから。
「敗者には~、ペナルティがありま~す」
「ペナルティだって?」
彼は冷や水を浴びせられたように驚いた。
「そんな話、聞いてな、」
「ペナルティは~、」
彼の言葉を遮るようにピエロはそう言って、そこで言葉を切った。直後、ピエロの口角は下がり始める。
「あ~、もう切れちゃったか~」
次第にピエロの顔は豹変していく。それまでピエロの顔に浮かんでいた陽気さや明るさは消え失せ、禍々(まがまが)しさが帯び始めた。
「な、なんだ」
「君には~、僕の次の笑顔になってもらうよ~」
「どういうことだ、意味がわからない」
「ペナルティは~」
醜悪になったピエロは、その顔を彼に限りなく近づけて、言い放った。
「お前の笑顔だ!」
直後、ピエロは口を大きく開けて、彼を顔から飲み込んだ。
そこで、彼の意識は途切れた。
――――――――――――――――――
「……あれ?」
目を覚ました彼は、自分が玄関先で寝ていることに気が付いた。ちゃぶ台がひっくり返っているのを見て、自分の寝相の悪さに思わず笑ってしまう。
「いつの間に寝ていたんだろう」
彼は今朝からの自分の行動を思い出す。確かパチンコ屋に行って、負けて帰ってきたんだったっけ。
「今日は運が悪かったな」
しかし、そう思うだけだった。それ以外のことを、彼は何一つ覚えていなかった。
彼は時計に目をやる。
「まだ四時か」
夕方の四時。ピエロを打つなら夕方からだと相場が決まっている。
そう考えると、彼は後ろポケットから財布を取り出し、中身を確認する。パチンコに行けるような金は入っていなかった。
「そういえば、明日は家賃を支払わなければならないんだったな」
そうひとり言を呟くと、彼は立ち上がる。
「物はついでだ」
そうして、今度は前ポケットからポケットティッシュを取り出す。そこには消費者金融の広告が載っていた。その消費者金融は、駅前に店舗を構えているらしかった。
それを知ると、彼は駅に向かって歩を進める。
その間、他の余計なことは一切考えなかった。
唯一彼の頭の中にあったのは、今から一時間後に、満面の笑みを浮かべているピエロと向かい合い、レバーを叩いてランプを紫に光らせている自分の姿だけだった。