どこにも行けない世界
ぼんやりとモヤのかかった焦点がゆっくりと合わさったとき、最初に目に移ったのはわたしを心配そうに見つめる少女のヒスイ色の瞳だった。
彼女は黒い腰まである髪を赤いりぼんで結んでいて、白い簡素なブラウスとスカートを身に着けていた。その表情は子どものように幼くて一瞬彼女は十歳も満たないのではないかと思った。けれども夢の中にあった頭が少しずつ、少しずつはっきりするに従って小柄ながらも15、6歳くらいだとわかった。わたし自身もそこまで身長はないのだけれども、彼女はさらに低かった。
そしてそこでふっとあることに気づいた。
彼女はわたしが意識を取り戻したのに気がついて、その幼い表情に安堵の色を浮かべた。
「安心しました…ずっと意識が戻らなかったのですから」
『あなたは誰なの?』
そう尋ねようとしたけれども、出てきたのは空気が抜けるような間抜けな音だけだった。そして激しい頭痛がした。
「あ、声帯がまだきちんと治っていませんから無理して声を出さないでください。それに体もまだ充分ではありませんから」
彼女の声はその表情のように幼く穏やかであるのだけれども、なぜか微妙に怯えを含んでいるように感じた。そして彼女は古い万年筆と小さなノートを手渡した。それを奪い去るようにして手に取ると白い余白に乱暴に書き殴った。なぜかその万年筆は手になじみがあるように感じた。
「えっと…わたしは、だれ?…あなたはだれ?」
ノートにその顔をよせるとゆっくりとその文字を声に出した。最後まで読み終わったときに浮かんだのは、不思議な安堵と何かを感じさせるものだった。
「はか…いえ、レヴィンさん。これまでの記憶がないのですか?」
わたしは再び万年筆を紙の上に走らせた。
『そうよ』
そこで彼女は何かを考えるようにうつむいた…そこに浮かぶ表情には何か葛藤しているような色があった。やがてひとつの答えにたどり着いたようだった。
「わかりました。ではちょっと用意するものがありますので、しばらくお待ちください」
そういって彼女は名前を告げないままに、部屋を出て行った。
彼女を待つ間、部屋を見渡した。そこは簡素ながらもしっかりと快適なつくりで、わたしが今横になっている寝台も決して豪華ではないものの、しっかりと体を支えていて布団も毛布も肌に心地よいものだった。
ふっと横を見ると鏡があった。
そこに映る姿は少し間抜けなものだった。先ほど出て行った少女に比べると可愛げもなく、愛嬌もない女の顔。瞳は焦茶色で相手を睨んでいるようなキツイものだった。さらにはあちらこちらに貼られた包帯やら布が痛々しさを強調していた。体も痩せていて男を魅了するようなものから程遠かった。とはいうものの、何となくだけれども20歳はまだ越えていないように感じた。あの少女よりもほんの少しだけ年上なだけ…頭のなかで何かがそう告げていた。それはただの希望かもしれないのだけれども、なぜかそれは正しいと感じた。
少女はわたしをレヴィンと呼んだ。きっとそれがわたしの名前なのだろう。それにしても最初の『はか…』は何を告げようとしたのだろう?すぐに浮かんだのは『博士』という言葉だけれども、いくらなんでもこの歳で博士はないだろうし、そもそも助手をつけるにしても、もう少し年上を選ぶだろう。では、他に何があるのか?
それを考えていたときに静かに扉が開いて、彼女が戻ってきた。
その表情は固かった、そして右手は後ろに隠されていて何かの金属がこすれるような音がかすかに聞こえてきた。そのときなにかが、彼女の表情なのかその音なのか、とにかく頭の中で警報が鳴らした。わたしは慌てて寝台から飛び降りて逃げ出そうとした…けれども体の傷はそれを許さなかったし、彼女もすぐに行動を起こしていた。
寝台に体を押し戻されたかと思うと左手首に、冷たい感触を感じた。やがて耳障りな音がした。
わたしの左手首は鎖によってしっかりと寝台の端にくくりつけられていた。
唖然とするしかないわたしに、彼女は寂しそうでいて何かの希望をこめた瞳でどもりどもりに口を開いた。
「すみません…でも、こうするしか…決してわたしを許してはくれないと思います…でも、これだけは…」
緊張なのか混乱なのかその言葉の結びつきがめちゃくちゃだった。けれども最後の言葉だけは真実だとなぜか確信が持てた。
「でも、決してあなたをわたしは傷つけることはありません。本当にあなたのことは大切に扱います、ですからそれだけは安心してください」
そしてそこで彼女は名前を名乗った。
「わたしの名前は…まだありません。だからあなたが名づけてください」
彼女はたしかにわたしのことを大切に扱った…どちらかというと拘束しているはずのわたしのことを恐れているように感じた。
食事はしっかりと、これまた簡素ながらもしっかりしたものを準備してくれたし、時計がないからはっきりしないものの体内時計の感覚からいうと、きちんと三食分定期的に用意しているようだった。それに拘束はとかないものの、風呂やトイレにも不自由はなかった。
彼女はわたしの痛みまくった髪の毛に、何かしらのオイルをなじませるとゆっくり、丁寧に髪を弾力のある櫛で梳かしつける。
熱い湯を張った手桶に、上質の厚い白いタオルを浸すとそれを固く絞って、わたしの顔や手や背などを大切に拭う。
さまざまな種類の食事と飲料を、それこそわたしが無茶をいっても出来るだけ用意するし、もしそれが出来ないときは本当に申し訳なさそうに許しを請う。そしてそのときには怯えがあった。
拘束はされてはいるものの、わたしはまるでどこかのお姫様のように彼女は大切にしてくれた。
けれども、そんな彼女でもひとつだけ頑として願いを聞き入れてくれないことがあった。
わたしは何者なのか、そして少女がわたしにとって何者なのかを。
それを尋ねるといつも彼女は悲しそうな表情でその答えを出すことを、礼儀正しいながらもはっきりと拒否するのだった。それはまるで、彼女が作り出した世界を壊すことを恐れているかのようだった。
彼女は過去に関することを徹底的に明かすことはなかった。記憶というものが、ほんの少しのきっかけで戻ることを知っているのかあくまでも今のことだけしか口に出さなかった。
けれども、ささいな行動や言葉、それに動作が心に眠る過去に何かをささやきかけるのだった。だけど、不思議なことにわたしはそれを最初の頃に比べると特に呼び覚まそうという気持ちはなかった。
どことも知れない心のどこかから、このままでいいと強く囁きつづけるのだった。そしてその囁きは彼女に名前をつけるように語りつづけるのだった。
未だに彼女は名無しのままだった。
けれども過去はあっさりと戻ってきた。そのときわたしは夢の中だった。
乱暴に叩き起こされた意識は、強い光で目の視覚がくらんでしまた。
「誰なの?」
「申し訳ありません、レヴィン博士。ご無礼はお許しください」
その声は慇懃で、少女と比べると思いやりがないものだった。
「わたしはレン・キリヴァス、あなたの救助作戦の隊長をつとめる者です」
そういうと部下に何かしらの指示を与えたかと思うと鎖が切り取られる感覚があった。
「博士、さあ行きましょう」
「ちょっと待って、これはどういうことなの?あの子は?」
そこでレンと名乗った男は怪訝な顔をした。
「何を言っているんですか?あなたは覚えていないのですか?」
「申し訳ないけれども、そうなのよ。今も自分が何者なのかわからないのよ」
レンは面倒な顔をしながらも仕方なさそうに話し出した。
「そういうことでしたか。では、ここから抜け出しながら説明します。ついてきてください」
そう言うと乱暴にわたしの手を引っ張った。
「乱暴ですがお許しください、あの化け物はいくつもの防犯装置を仕掛けていてあまりこちら側に余裕がないのです」
そして駆け出した。
「あなたは政府の重要な研究についていたのです。わたしもよくは知りませんが、何でも人間の命や肉体の強化に関することだったのだとか」
わたしの都合に構うことなくどこかへと引っ張りながら、レンは淡々と語りつづける。あちらこちらからは警報音と何かが爆発する音が断続的に響きわたっていた。
「その際にあなたが作り出した実験体の一部が反乱を起こしたのです。そのせいで重要な研究施設が壊滅状態になりました。幸いにもその研究所に常駐していた部隊がすぐに行動を起こして実験体のほとんどの殺害に成功したのですが、あなたを人質にとっていたため一体だけ仕留め損ないました…ええ、あなたの世話をしていたあの化け物、たしか4600だったか4700だったかそれくらいの番号でしたね」
彼はなおも言葉をつづけようとしたけれども、その言葉も歩みも止まった。
その視線の先には、あの少女が傷だらけの血まみれという凄惨な姿で立っていた。
「いいか、見かけに騙されるな。あれでもまだ致命傷は負っていない」
わたしはてっきりその幼い姿に騙されるなと言っているのかと思っていたのだけれども違った。そして何よりも驚いたのはあの姿でもまだ致命傷ではないということだった。レンの部下は隊長の言葉にすぐに手に持っている武器を改めて構えた。
だけどそれは無駄なことだった。それはあまりにも一瞬のことで、わたしの目には何が起こったのかわからなかった。
気がついたときには人間だった彼らはただの抜け殻になっていた。
そしてその中で彼女…いや、実験体4589号は震えて立ち尽くしていた。
「4589号」
自分でもその声は冷え冷えと感情のないものだったと思う。その声に反応して彼女は、さらに俯き体を震わせた。
彼女の前に立ってもなお彼女は顔を伏せたままだった。わたしは両手でその顔を上に向かせた。その瞳には涙と、絶望的な色がありありと浮かんでいた。
「あなたは何を求めたの、4589号…いいなさい」
あくまでもわたしは冷静に言った。それで充分だとわかっていたから。
「わたしは…わたしは家族を…もとめて…いました」
その声はあまりにもか細くて、頼りがなかった。
「人間ではないあなたが家族を求めたという?」
「そう…です。レヴィン…博士」
わたしの視線は彼女の血だらけの体に向かった。白い服はあちらこちら無残にも破けていて、血にまみれたその白い肌を見せていた。そしてその上に浮かぶ、わたしがつけた無残な傷跡。
結局彼女はわたしがつくりだした存在なのだ。だからこそわたしがどうしょうと問題もないのだ。道徳や倫理なんてものはあってないようなもので、特に必要なものでもないのだ。そう、すべてはわたしが決めることなのだ。
わたしは彼女の唇に自らの唇を重ねた。
そのときにわたしの左手首にぶら下がっていた鎖の残りが耳障りな音を響かせた。
もともとからわたしも彼女も、どこにも行けない世界にいたのだ。ただこれからその場所が変わるだけにしかすぎないのだ。
もともとは昔書いたものを大幅に改稿したもので、当時は普通に主人公は少年で相手は少女というものだった。そのあたりは自分の趣味の変化もあるのだけれども、書いていくうちにもともとの結末とは違う方向に着地してしまったのだけれども、ある意味これはこれでよかったのだと思う。
問題はそのための物語の作り方が未熟だということである…当初はすべての謎は明かさずに、あくまでも「もしかして?」と推察する程度に留めるつもりだったのだけれども、未だにそのあたりの説明をいれないとただでさえ、文章が下手なのにさらに物語が混乱してしまうと入れたのだけれども…
自分の未熟ぶりに悲しい思いをしてしまう。
何よりも問題は題名と本文がうまく噛み合わせることができなかったことである…
さて最後につたない本作を読んでいただきありがとうございました。ほんの少しでも楽しんでいただけると幸いです。