インビジブルハート
扉の開く音に振り返ると、そこには誰もいなかった。ああ、また彼女か、と思う。
そのまま背を向けると、今度は二本の腕が私の背中を抱きしめる感触があった。振り向いても誰の姿もないことは、わかっていた。
「ちょっと、リリカ? 急に抱きつかないでってば」
「ちぇっ、ばれちゃったかぁ」
何もない空間から、いたずらっ子のような無邪気な声がした。彼女の姿は見えないけれど、そこにいる。私は彼女を、リリカと呼んでいた。
「離してくれない? 私、これから学校行くんだけど」
「えーっ? いいじゃん、しばらくこうしてようよぉ?」
更に強く彼女は抱きしめてくる。女の子特有の柔らかい体の感触と、ほんのりとした温かさを感じた。……いけない、と思う。このままだと歯止めが利かなくなってしまう。
「だーめ。今日は満月でしょう? 夜まで我慢しなさい」
「はいはい。藤香はまじめだなぁ」
ようやくリリカは私を離してくれて、ほっと息をついた。
そう、今日は満月だ。私とリリカにとって、待ちに待った特別な日。
「じゃあ、行ってきます」
「はーい。行ってらっしゃい」
玄関から出ていく私を、少し名残惜しそうな声が見送ってくれた。
「何か最近、藤香ったら綺麗になったよねぇ」
昼休み。お弁当を食べながら、不意に友達の美佳がそう言ってきた。
「そう? どうもありがとう」
「うん。いつもまあ綺麗なんだけど、最近は特にさぁ。何かあった?」
「別に何もないと思うけれど」
「あ、ひょっとして恋人でも出来ちゃった?」
思わず箸を止める。あ、図星でしょ、と美佳は得意げな顔になった。
「そんなことあるわけないでしょう。ここ、女子校じゃない」
「いやいやぁ、出会いというのは案外色々なところに溢れているものだよ、ワトソン君」
彼女の言葉に、私は吹き出しそうになる。出会いか。私の場合はそれが、自分の家の中だったのだけれど。
「仮に私に恋人がいたとしても、きっと美佳も誰も知らない人だと思うよ」
「えっ、何その含みのある言い方。もしかしてほんとに付き合ってたりする?」
「内緒」
そう、彼女は誰にも見えない。だから彼女のことを知っているのは、きっと私だけだ。
早く夜にならないかな。変な優越感を感じながら、私はまだ日の高い昼の空を見つめた。
「ただいま」
「あ、藤香っ! おかえり!」
家の玄関をくぐりなり、すぐにリリカが抱きついてくる感触があった。
「こら、リリカ。いくら母さんたちが仕事でいないからって、あまり大きい声だしたら近所に聞こえちゃうでしょう?」
「はいはい。わかってますよぉ」
この前だって、母さんに私とリリカが話しているのを聞かれたのだ。電話で友達と話していたと言って事なきを得たけれど、あまり不審に思われないように用心しなければならない。
「はぁっ、藤香の匂い……」
くんくん、と鼻を鳴らす音が聞こえた。リリカが私の匂いを嗅いでいるのだ。
「ちょ、ちょっと、リリカ! やめてってば!」
「えーっ、何で?」
「な、何か変な気分になっちゃうでしょう?」
「……別にアタシはいいけどなぁ。藤香がエッチな気分になっても」
ひゃっ、と私は声をあげた。背中を指先で下から上へとなぞられたのだ。指が触れた後から、ぞわぞわと何かがせりあがってくるような気がした。
「リ、リリカ、やめて……」
「どうして?」
「きょ、今日は満月でしょ? 夜まで待ってよ……」
「じゃあ、キスだけ。それならいい?」
ぎゅっと制服の袖が引っ張られる。少し考えて、私はぎこちなく頷いた。
「……うん」
「じゃあ、藤香。するね」
間があってから、唇にふわりと柔らかい感触がやってきた。それから、舌の温かさがそっと私の中に入ってくる。
私の前には何の姿もない。ただそこに空間が広がって見えるだけだ。だけど私は今、リリカにキスされている。何だか、変な感じ……。
それ以上考えるのはやめて、私は唇に全ての神経を研ぎすませた。
彼女と出会ったのは、いや、その存在に気づいたのは、私の部屋の中だった。
「あの……こんにちは」
やや緊張気味な挨拶が、彼女の第一声だった。最初、何もない所からそれが聞こえたときは、本当に驚いた。正体も姿も見えない彼女に、それはもう怯えたものだ。
「ねえ、お願い……嫌わないで。アタシ、誰も頼れる人がいないの……あなただけしか」
だけれど、その声が。縋るようなその声が、私の心に届いた。そのとき、わかったのだ。ああ、そうか。彼女はただ見えないだけで、普通の人間なのだと。
それから少しずつ彼女の存在に慣れていって、それが当たり前になっていって。
いつしか彼女が、愛おしくてたまらない自分の気持ちに気がついた。
リリカのことは、未だによくわからない。いつから彼女が、透明人間のようになってしまったのかも。
だけど、無邪気で、やや子供っぽくて、全力で私を愛してくれる。そんな誰よりも人間らしい彼女が、私は大好きだ。
それだけは、よくわかる。
静かな夜だった。部屋の中には、時計の針がせっかちに進む音だけが響いている。私は机に向かうフリをしながら、今夜のことで頭がいっぱいになっていた。
やがて、扉が静かに開く音がした。私は振り返って言う。
「リリカ。母さんたちは眠った?」
「うん。大丈夫」
「そう。じゃあ、始めましょうか」
私は部屋の明かりを消して、窓にかかっていたカーテンを引いた。満月の密やかな光が、ぼんやりと窓枠から入ってくる。
「さあ、リリカ。こっちへ」
私は月の光が入ってきている窓を指さした。足音がして、リリカがそちらに向かったのがわかった。
胸の鼓動を抑えながら、私はその瞬間を待つ。やがて、待ちに待った時がやってきた。
最初は、足から。ふくらはぎ、お腹、胸、そして顔。何もなかった窓際に、少しずつ女の子が現れた。
銀色の鮮やかな長い髪、豊かな胸、そして、ほんの少し凛々しいその顔。紛れもないリリカ自身が、生まれたままの姿で私の前に立っていた。
月に一度の満月。その光を浴びると、リリカの姿は私の目にも見えるようになるのだ。
「……久しぶり、藤香」
「うん、リリカ。……久しぶり」
一月ぶりに見た彼女の姿に、私はうっとりと見惚れていた。子供っぽい言動や声とは対照的に、彼女は大人びた風貌だった。身長も、私より一回り大きい。だから、見上げる形になる。
「リ、リリカ、あのね……」
「ん、欲しくなっちゃった?」
「うん……」
私は彼女に近づいていって、その体を抱きついた。私をそのまま包み込んでくれそうなくらいの温かさに、目の前がくらくらする。姿があるのとないのとでは、こんなに違うなんて、と思う。
「リリカ……」
私はつま先で立って、そのまま彼女の唇を奪った。彼女もそのまま優しく受け入れてくれる。
「リリカ、好き。好き、好き、好きなの」
自分でもびっくりするくらいの想いが、心から口へと伝わって、溢れだした。
「うん。藤香、アタシも大好き」
彼女から返ってきたまっすぐな言葉。私はもう、立っていられなくなるくらい、嬉しすぎて。
「……ベッド、行こうか」
「うん、いいよ」
月だけが見ている静かな暗闇の中。私たちは時が経つのも忘れて、お互いの気持ちをひたすらに確かめ合った。
「眠りたくないな……」
全てが終わった後のベッドの中。私は一糸纏わない姿でリリカに抱かれながら、ぼそりとそう呟いた。
「どうして?」
「だって明日になったらまた、あなたの姿は見えなくなってしまうでしょう」
こうやって愛し合った後は、いつもそんな不安に襲われる。日が昇れば、リリカの姿はなくなり、またいつもの日常に戻ってしまう。今、こうしてリリカと向かい合っている時間が、私には何より愛おしいのに。
「……大丈夫だよ」
リリカはにっこりと笑って、それから私の頭を丁寧な手つきで撫でてくれる。
「アタシはいつでも、藤香と一緒にいるからね」
そんな些細な言葉と、表情だけで。私の心はいとも簡単に救われてしまう。
例え姿は見えなくたって、リリカはきっとそこにいてくれる。大事なのは目に見えることだけじゃなくて、そう、私たちの寄り添い合っている想い。そういうことだ。
「ねえ、リリカ」
「ん、なぁに?」
「朝までこうやってくっついててくれる?」
「喜んで、お姫様」
「……ありがと」
確かにそこにある彼女の温もりの中で、私はゆっくりと目を閉じた。