第3話:揺れる心
選ばなかったはずの道に、引き戻されていく。
夜。
部屋の中は静かだった。
テレビの音もついていない。
ただ、夫のいびきだけが響いている。
私は布団の中で目を閉じていた。
――眠れない。
何度も寝返りを打つ。
でも、頭の中が落ち着かない。
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思い出すのは、昼間のこと。
喫茶店でのやり取り。
あの男の言葉。
そして――
テーブルの上に置かれた金額。
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「……無理やって……」
小さく呟く。
あんな条件、普通に考えたらありえない。
自分には無理。
そう思っているはずなのに。
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(でも……)
頭の中で、計算してしまう。
借金の額。
毎月の支払い。
生活費。
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このままじゃ、どうにもならない。
それは分かっている。
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「どうしたらええんやろ……」
誰に聞くでもなく呟く。
答えなんて出ない。
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隣を見る。
夫はぐっすり眠っている。
缶ビールの匂い。
無防備な寝顔。
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「……なんで……」
ふと、言葉が漏れる。
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昔は違った。
ちゃんと働いて、笑ってくれていた。
一緒に将来の話もしていた。
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それなのに今は。
仕事は続かず、酒ばかり。
生活はどんどん苦しくなっていく。
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(この人のために……)
そう思ってきた。
今も、そう思いたい。
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でも。
心の奥で、別の感情が浮かぶ。
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(なんで私だけ……)
その考えに、自分で驚く。
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「違う……」
すぐに否定する。
そんなこと思ったらダメだと分かっている。
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でも、一度浮かんだ感情は消えない。
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スマホを手に取る。
画面を開く。
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あの男とのやり取りが、そこに残っている。
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指が止まる。
しばらく画面を見つめる。
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「……消そ」
そう呟く。
でも――
消せない。
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(これ消したら……終わる)
なぜかそう思った。
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しばらく沈黙。
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他の相手ともやり取りをしていたことを思い出す。
メッセージを開く。
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条件が合わない。
金額が低い。
話が噛み合わない。
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どれも決め手に欠ける。
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「無理や……こんなん……」
スマホを握りしめる。
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時間だけが過ぎていく。
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翌日。
ポストを開ける。
また一通の封筒。
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見る前から分かる。
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督促状。
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「……もう……無理……」
膝の力が抜ける。
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部屋に戻る。
封筒を開ける。
中身を見る。
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現実が突きつけられる。
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(間に合わへん……)
頭が真っ白になる。
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スマホを手に取る。
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何度も迷う。
開いて、閉じて。
また開いて。
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「……一回だけ……」
また、その言葉が出る。
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自分に言い聞かせるように。
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「これで終わりにする……」
そう決める。
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震える指で、メッセージを打つ。
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「やります……その条件で」
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送信。
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送った瞬間、心臓が大きく鳴る。
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すぐに既読がつく。
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「ありがとうございます。では日程を決めましょう」
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あまりにもあっさりとした返信。
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現実が、一気に動き出す。
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日程が決まる。
時間も場所も決まる。
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全部が、止まらない。
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スマホを見つめたまま、動けなくなる。
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「……ほんまに、やるんや……」
小さく呟く。
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怖い。
不安。
後悔。
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でも――
どこかで。
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(これで助かる……)
そう思っている自分もいた。
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その瞬間。
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何かが、確実に壊れた気がした。
この決断が、戻れない道の始まりだった。




