#8
これらは全て空想の話で、自分には関係ない。それより無様に喚いたことで司が神妙な顔を浮かべてこちらを見ていた。
まずい……。
自分の価値が下がる一方と分かっているが、まずは食い止めることが先決。恥も外聞も捨て、由貴は司の胸に抱き着いた。
「お願いします!! 何でもしますので、俺と一緒にいてください!」
「ごめんね。何回言われても、これだけは譲れないよ……。俺は不幸になった方がいい。でも君のことは巻き込みたくないんだ」
司は立ち上がると財布を取り出した。
「とっ……とても失礼なことを訊いてもいいですか」
「何だい」
「司さんは、……マゾなんですか」
沈黙が流れる。今口を開いたら罰が下るような物々しさを感じた。手汗がすごい。動悸までしてきたが、……司は黙って支払いを済ませて店を出て行ってしまった。
呆然と立ち尽くす。猛烈にデジャブを感じた。そうだ、これは……あれだ。昨日の再現だ。
「司さんっ!!」
由貴は再びダッシュして司を追い掛けた。スーツでこんなに走るなんて、もしかしたら初めてかもしれない。生地が痛まないか心配だがそれも後回しだ。逃がさないよう彼の腕を強く掴む。
「マゾなんですか! もしかして、それが別れなきゃいけない理由ですか? 俺サディストの気はありませんけど、貴方が望むならそっちのプレイも真剣に勉強しますよ!」
「違うよ。とにかくおやすみ」
手からすり抜ける、柔らかい感触。額にも柔らかい何かが触れた。恐る恐る見上げると、離れていく司の顔。別れるとか何とか言っておきながら……また、キスしてきた。
「俺はちょっと、欲深くなったみたい。だからバチが当たったんだ」
何かの擦れる音が波のように押し寄せてきた。世界を壊してしまいそうなほど大きくなるけど、飲まれた後に待ってるのは静寂。いつもは賑やかなはずの夜の街も、今日は怖いぐらい音が止んでいた。
ビルから飛び出して、去っていく司を追おうとした。数歩走っては止まって、また走っては歩いて。結局、彼の姿が見えるギリギリの距離で追うことは諦めた。
不思議と怒りは湧いてこない。絶望しているわけでもなかった。憤ったり嘆いたりする前に、弱々しい司の姿を思い浮かべてしまうから。
「バチが当たった……か」
司の台詞。その背景は分からないが、バチが当たったのは自分の方かもしれない。
彼に復讐することに必死になった……結果が、この有り様だ。




