#1
蒼白い月光が自分の右手を照らしている。
色んなものを触ってきた手だ。パン、スプーン、マウス、ハンドル、そして、性器。……すごい。すごい気持ち悪い。
階段を上がってすぐの所で振り返った。男はヨタヨタと覚束無い足取りでのぼってくる。
瞬きも忘れて男を刮目した。鞄は左の脇に、左手は手すりに、右手はかすかに上げていた。
黙って犯されるなんて冗談じゃない。廃人だから可哀想とか思ってられるか。誰にも頼れないなら尚さら。
俺の現実的な右手が待っている。早く、早くのぼってこい。そしたらいっそ一思いに殺してやる。絶望させてやると笑っている。
俺も笑った気がした。
男の手がこちらへ届く一歩手前で振り上げた右手。……それは、何故か後方に引き寄せられた。
「えっ」
咄嗟に身体も後ろへ倒れる。誰かに優しく抱き締められて、視界を奪われてしまった。目の前には何をするか分からない男がいるのに。
焦って逃れようとしたけど、男の叫び声が聞こえた瞬間手を引かれた。耳元で「逃げるよ」と囁かれる。
顔を上げて目を見張る。声がすぐに出なかった。その人は、やはり想像できないタイミングで現れるから。
「司さん! 何で」
「いいから早く! 走って!」
今までにない険しい顔で言われた為、彼の手を握り返して走った。途中気になって振り返ると、男はその場でうずくまっていた。
かなりの距離を走った。昨日から一台も走ってないんじゃないかと思う車道を渡って、誰も住んでなさそうな高層マンションを横切る。
無人の街を彼と歩いた。月はまだ光り輝いている。こちらを嘲笑ってるようで気分が悪い。
「ここまで来れば大丈夫かな」
体力のない由貴は後半ほとんど司に引き摺られた。実際靴は長いこと引き摺っていたせいで踵がすり減っている。
呼吸を整えることに精一杯の由貴と違い、司は前髪を直すと肩を竦めた。
「さっきの人に襲われてたんだよね? 申し訳ないと思ったけど、アソコ蹴っちゃった。アレが一番効くじゃん?」
「あはは……」
申し訳なさそうに話す司を見て、自然と笑いが零れた。まだ心臓はバスドラム並に音を放出しているけど、安心して涙が出そうだ。脱力して後ろの壁に寄りかかる。
「司さん、助けてくれてありがとうございます。でも何であそこにいたんですか?」
「ふふん、カン。由貴くんがあそこにいる気がした。あと、困ってる気がしたんだ」
「エスパー……」
「ああ。君限定のね」
冗談……だとしても、助かったことは事実だ。
元恋人だが、いつかの気まずさは消え失せていた。




