第8話「気配の交差点」
放課後の教室。夕暮れが差し込む時間、人の気配はほとんど消えていた。
だが、美琴は感じていた。
誰もいないはずの空間に、微かに“視線”の気配が残っている。
椅子を引く音、カーテンが揺れる音、そして──背筋を撫でるような、ぞわりとした空気。
美琴は、自分の周囲に“何か”が寄ってきている気がしてならなかった。
(……私のせい?)
最近、妙なことが続いている。
沙耶が夢に苦しんでいたときも。
長谷が倒れて運ばれたときも。‥他にもあるはず。
そして今も──誰かが“何か”に取り憑かれて苦しんでいる、そんな空気がある。
(あのとき、長谷くんの倒れるところは見てない。けど……)
自分のそばにいた“誰か”が、次第におかしくなる。
幼少期にもよくあった事だった。
はっきりとした証拠はない。でも、心の奥がざわついていた。
教室を出ようとしたその時、廊下を歩く足音が聞こえた。
振り返ると、無言のまま契が立っていた。
「……桜木さん」
「……あ」
いつものようにぶっきらぼうな声音なのに、なぜか今日は、それが少しだけ優しく聞こえた。
「その顔……何かあったのか」
その声に、美琴は、ほんの少しの勇気を出して訊いた。
「……ねえ、夏目くんは、“憑き物”って知ってる?」
契が目を細め、静かにこちらを見たまま動かない。
美琴は、視線を逸らしながら言葉を探す。
「……昔、おじいちゃんが、そういう話をよくしてたの。“人には、時々、何かが憑くことがある”って……。子どもの頃は、ただの迷信だと思ってたけど……」
ふと、机に置かれた自分の手が震えているのに気づく。
「‥夢を見たって言う子がいたり、突然倒れた子がいたりして……そういう時、だいたい私、近くにいるんだよね」
ふっと、苦笑いが漏れる。
「……ううん、気のせいって言われたらそれまでだけど。バカみたいだよね。……でも、なんとなく……夏目くんなら、何か知ってるかもって、そう思っただけ」
「それで、“自分のせいかも”って思ってるのか?」
美琴は、黙ってうなずいた。
契は一瞬、目を伏せ、ぽつりと呟く。
「……バカだな」
「えっ……?」
「“視える”奴も、“引き寄せる”奴もいる。でも、それが悪いってわけじゃない」
「……引き寄せる?」
「放っておけば、もっと深く喰われる。けど、引き寄せられるってことは……“見つけてやれる”ってことでもある」
その言葉が、美琴の胸に深く残った。
「じゃあ、私は……」
「誰かの役に立てるかもしれない。でも、深入りするな。……命を取られるぞ」
その言い方が、やけに真に迫っていた。
まるで、何かを知っている──そんな瞳だった。
* * *
その日の夜。
沢桐 海は、ベッドに寝転がりながら、昼間に再び現れた“白い狐”のことを思い返していた。
(……また会えるって、言ってた)
狐は、昔から海にしか見えない存在だった。
子供の頃は怖くなかった。むしろ、唯一「見えるのに怖くない」存在だった。
けれど成長するにつれて、海は“視えるモノ”を避けるようになった。
狐すら見ないようにしてきた。──“もう関わりたくなかった”のだ。
(なのに……最近、あいつ以外の“ナニカ”が、ずっと近くにいる)
それは、“モヤのような影”──明確な姿を持たず、けれど自分の周りにまとわりついてくる気配。
(得体の知れないナニカは、前より“濃く”なってる。……声まで聞こえるようになった)
目を閉じた海の耳元で、ふいにあの狐の声が蘇る。
──見えるモノを怖がるな。それは、お前を試してるだけや。
──お前が変わらな、誰も助けられへん。
あの言葉が、子供の頃に心に刻まれていた。
──だから、もう一度会いたい。ちゃんと話したい。
──今度こそ、自分の足で近づきたい。
* * *
夜の町の一角。雑居ビルの屋上。
仮面のように無表情な男は、闇に溶け込むように風に佇んでいた。
顔を覆うのは、能面に似た白い仮面。目の奥に感情の色はない。
「……芽吹く前の蕾ほど、甘いものはない」
細く微笑んだその口元に、黒く揺れるモヤがふわりと絡みつく。
「喰らいがいがある。けど──もう少し、待てよ。なぁ?」
その“影”が、ゆっくりと姿を変え、どこかへと飛んでいく。
向かう先は、またしても──学園のどこか。
そしてその闇が、誰の心の隙を狙うのか、まだ誰にもわかっていなかった。