第7話「白き影、軋む夜(きしむよる)」
放課後の教室は、まるで時間だけが取り残されたかのように静かだった。
沢桐 海は、一人きりの教室で窓の外をぼんやりと眺めていた。陽の傾きがガラスに反射し、机の影が長く伸びる。
ふと、視界の端を何かが横切った。
白い何か。風に舞った紙屑かとも思ったが、違った。確かな“気配”があった。
静かに視線を落とすと、机の下──そこに、小さな“白い狐”がうずくまっていた。
艶やかな白い毛並みに、金色の瞳。どこか神聖で、けれど不思議と怖さはない。
「……君は、ずっと……」
思わず呟いた言葉に、狐は一度だけ首を傾げ、目を細めた。まるで、微笑むように。
次の瞬間、狐は影に溶けるように姿を消した。
その場に残されたのは、静けさと、海の鼓動だけ。
* * *
──記憶の底。
小さな自分が、廃神社の境内で箒を持っている。
あの日、偶然見つけた古い狐像。その周囲を掃除していたら、弱った白い狐が現れた。
普通の狐だと思っていた。だから、丁度持っていたキャットフードをあげてみた。
けれど、次の日に見たら、餌は減っていなかった。しかし、狐は弱らず、逆に元気になっていた。
不思議だと思いながらも、なぜか怖くはなかった。
成長するにつれ、“視えるもの”に怯え、前髪で目を隠すようになった自分。
それでも、あの白い狐だけは、ずっと傍にいてくれた気がする──。
(……また、あの狐が……)
最近、再び姿を現すようになった白い狐は、あの頃と同じ様にはっきりと形を持ち、海にだけ見える存在になっていた。
* * *
渡り廊下。
契と美琴がすれ違う。
どちらも目を合わせることはなかった。けれど、美琴は何かを言いかけて──結局、口を閉じた。
その様子を、少し離れた場所から沢桐 海が見ていた。
「……やっぱり、あの人(美琴)の周りには……何かがある。でも違う。一方で、あの人(契)は、“視える”だけじゃない……」
2人の雰囲気を静かに見つめながら、海は確信を強めていく。
* * *
その夜。月のない住宅街の路地。
沢桐 海は、いつものように下を向いて歩いていた。けれど──何かの気配に足が止まる。
顔を上げると、路地の真ん中に、あの白い狐が佇んでいた。
街灯の光に照らされたその姿は、どこか浮世離れして見える。海を、まっすぐに見つめている。
一歩──だけ、近づいた。
狐は、一瞬だけまばたきし、まるで待っていたかのように静かにその場を離れ、闇の中に消える。
その瞬間、海の耳元で、かすかに声が囁いた。
「……また、すぐ会える。次はちゃんと、話せるで」
狐の姿はもうなかった。けれど、その声ははっきりと海にだけ聞こえた。
──それが、白い狐が再び“人の言葉”を話した夜だった。
オマケ:白い神使と、ちいさな手
海がまだ幼い頃のこと。
友だちと遊ぶことが苦手で、よくひとりで近所の道や空き地を歩いていた。人の視線も、声も、苦手だった。
物心ついた頃から、「変な子」と言われてきた。
“見える”ものが普通と違うらしいと、誰かに気づかれてから、輪はどんどん狭くなっていった。
その日、沢桐 海はひとりで町はずれの廃れた神社に迷い込んでいた。
木の葉が積もり、鳥居はひび割れ、社殿ももう崩れかけている。
だけど──そこに、いた。
「……きつねの置物?」
小さな社の隅。苔むした石の上に、まるで狛犬のように座っている白い狐。
けれど、それは本物だった。金色の瞳が、じっと海を見返してくる。
(……目が合った)
その時、誰かの“心の声”が、ふと響いた。
「おぅおぅ……子どもやのに、よう来たなァ。えらいえらい」
海は思わず後ずさった。けど、不思議と怖くはなかった。
神社のまわりを少しだけ掃除して、家からこっそり持ち出したキャットフードを小皿に盛る。
(カラスにあげようと思ってたんだっけ)
「……猫じゃないのかもだけど、これしかなかった」
「気ィつかってくれたんか。うれしいで。……できたら、油揚げとか、日本酒とか……なァ?」
(なにか言ってる?……わかる気がする)
その日から、海はときどき神社に通った。
誰にも言わず、静かに、誰にも見られないように。
その狐はいつもそこにいて、疲れた海の横にそっと寄り添ってくれた。
喋ることはなかったけれど──いや、たしかに聞こえていた“心の声”が。
「お前が来ると、ワシ、元気になるんや」
気づけば、海の心の奥に、白い影がひとつ棲みついていた。
誰にも理解されなかった少年が、初めて心を許した“異形”──
それが、白い狐の神使だった。
成長するにつれて、狐と交わした言葉は忘れ去られていた。