第6話「囁く影と、閉ざされた記憶」
放課後、人気のない廊下。
美琴は一人、窓から差し込む夕陽を背に教室の前を通りかかる。
ふと、ドアがわずかに開いているのに気づき、何気なく中を覗いた。
──黒板に、赤いチョークで走り書きされたような文字。
「みてるよ」
「かくれたってムダ」
(……なにこれ)
息を呑み、教室に一歩踏み入れたそのとき。
机の影で、“黒い染み”のようなものがうごめいた。
一瞬にして鳥肌が立つ。背筋を冷たいものが撫でたような感覚。
(……気のせい、だよね)
不安をかき消すように、ポケットの中のペンダントを強く握る。
それでも、教室の空気は異様なほど重たく、静かだった。
* * *
「……桜木さん?」
その声に、美琴は振り返る。教室の入口に立っていたのは契だった。
「……忘れ物?」
「……ああ」
契は無表情のまま教室を見渡し、黒板の文字に気づくと視線を細めた。
「誰かの落書きだろ……気のせいだ。考えすぎ」
短く言って、すぐに目を逸らす。
でも、美琴は気づいた。
(今……私の背中のほうを見てた)
契の視線は、あきらかに“何か”を探るように──教室の奥を見ていた。
翌日、昇降口で沙耶を見かけた。
その顔は、以前より少し明るい。まるで、何か重たいものが取れたようだった。
「……今から桜木さん帰り?」
「高城さん‥あれから……眠れてる?」
沙耶はうなずく。
「夢も、変な声も、見なくなったの。すっと、消えた感じで……」
「……そっか、よかった」
(──契くん、だよね)
美琴はその名前を胸の中だけで呟いた。
昼下がりの渡り廊下。
美琴は偶然、2年1組の女生徒が保健室に運ばれる様子を目にした。
「誰かが……ずっと、耳元で……っ」
青ざめたその顔と、震える指先が焼きついた。
(また……)
歩きかけた足が止まる。でも、周囲の生徒たちの険しい空気と教師のぴりついた態度に、美琴はそれ以上近づけなかった。
その日の放課後。帰り道。
小さな鳴き声が聞こえた。
「……にゃあ」
振り返ると、塀の上に、一匹の黒猫が座っていた。
艶のある漆黒の毛並み。
金色の瞳が、夕日にきらりと光っている。
(……クロネコ?……どこかで……)
猫はぴくりと耳を動かし、美琴の視線を感じ取ったように、すっと塀から降りてきた。
近くで見ても、その毛並みはとてもきれいで、まるで誰かに飼われているかのようだった。
「……もしかして、前に神社で見た……?」
(そういえば‥契くんとも一緒にいたような‥)
呟くと、猫は小さく尻尾を振った。
「名前……あるのかな……」
美琴は考え込んでから、ふと微笑む。
「……クロちゃん、でいい?」
その言葉に、猫は軽く“にゃあ”と鳴いて──まるで肯定するように、美琴の足元にくるくるとすり寄った。
「最近、変なことが多くて……」
独り言のように話しかけると、クロちゃんは前足を揃えて座り、ふと顔を上げた。
「隠れてるものほど、よく見える……見える子にはね」
その言葉は、美琴の頭の中に直接響いた。
「っ……」
クロちゃんは続ける。
「でも、見えたからって……触れていいとは限らないよ?」
意味深な言葉と同時に、クロちゃんの姿はふいにかき消えるように消えていた。
──夕暮れの校舎。
2年1組の教室で、沢桐 海はじっと窓の外を見つめていた。
視線の先には、中庭を歩く契の後ろ姿。
(……やっぱり、この人……“視えるもの”を消せる)
その確信と同時に、背後からふいに声がした。
「ねぇ、見えてるよね?ボクのこと」
ぞくりとするほど近く、しかも確かに“耳元”で聞こえた。
海は振り返る。
でも──誰も、いない。
代わりに、窓の外に漂う黒い“モヤ”のようなものが、ゆらりと揺れていた。
(また……前より、近い)
ここ数日で、“それ”はよりはっきりと姿を現し始めている。
最初はただの気配だった。次に、影。今は──声すら聞こえる。
でもその影の奥に、今日は別の“気配”が混じっていた。
(……尻尾……?)
狐のような、細い耳と、長い尾。
その姿が、ほんの一瞬だけ、モヤの奥に見えた気がした。
(あれは……)
海は唇を噛み、拳を握る。
(……どんどん姿が濃くなってる……)
けれど、どこかで──ほんのわずかに、恐怖だけではない“予感”が、胸の奥で芽生え始めていた。
──その夜。
美琴の夢の中で、再びあの桜の木が揺れていた。
ひらひらと舞う花びら。霞がかった風景。
「さわらないで、近づかないで、お願い……」
あの声に、また胸が締めつけられる。
──けれど、今度の夢は、なぜかほんの少し“現実に近い”ような気がした。
おまけ──「無言の帰り道」
その夜。
人気のない坂道を、契はひとり歩いていた。
肩にかけたカバンの重さが、じわりと身体にのしかかる。
──けれど、彼の表情はいつも通り、淡々としていた。
ふと、茂みの影から何かが飛び出す。
「にゃっ」
黒い影が、すっと契の横を歩きはじめる。
「……」
「……」
契は一瞬だけ視線を向けるが、何も言わない。
黒猫は、まるで当然のように、彼の隣を歩き続ける。
ピタリと一定の間隔を保ちながら、まっすぐ前を見て。
「……ついてくるなよ」
ポツリと呟く契に、黒猫は耳だけピクリと動かした。
それでも止まらず、しっぽをゆらゆら揺らして歩き続ける。
契はひとつ溜め息をついて、歩調を少しだけ緩めた。
「……お前も、見えてるんだろ。あいつが」
黒猫は答えない。
けれど、金色の瞳が、月明かりにキラリと光る。
その瞬間だけ、まるで「もちろん」とでも言いたげに。
「……だったら、黙って見てるなよ。少しくらい……助けろ宵羽‥お前はいつもそうだ」
そう言った後で、契はふと口をつぐんだ。
黒猫はこちらをちらりと見上げる。
次の瞬間──
「にゃあ」
それは、どこか呆れたような、けれど少しだけ優しい声だった。
──そして、ふたりの足音だけが、静かな夜道に溶けていった。