第5話「嘘の仮面と、青い傘」
朝の教室には、いつも通りのざわめきがあった。
けれど、美琴の中では昨日から続く“ざわつき”が静まらないままだった。
(……やっぱり、見たよね、あれ)
放課後の教室。空気が揺れて、高城さんが苦しんでいた。契がその“何か”を祓っていた──そんな光景。
あれが幻じゃないとしたら。自分が巻き込まれているとしたら。
「おい、桜木。……次、移動だぞ」
クラスメイトに呼ばれ、はっとして立ち上がる。
教室のドアの外、夏目契が廊下を歩いていく姿が見えた。
思わず足が向いていた。声をかけようとして、躊躇する。
けれど──
「……昨日のこと、あれ……」
小さく言うと、契は立ち止まり、振り返らずに言葉を落とした。
「……見なかったことにしておけ」
そのまま、彼は人波に紛れて歩き去っていった。
(……やっぱり、何か知ってる)
そう確信するのに十分な、冷たく静かな声音だった。
午後の授業が終わり、帰り支度をしていると、ざわめきが教室を包んだ。
「え、新しい転校生!?」「二年って、また?」「最近多くない?」
扉の前には、担任の先生ともう一人の影。
「紹介するぞ。今日からこの学校に転校してきた、沢桐 海くんだ。みんな、仲良くしてやってくれ」
海は背が高く、制服もきちんと着ている。ただ、その顔は長い前髪に隠れていて、表情はほとんど見えない。
「……沢桐 海です。2年1組です。‥よろしくお願いします」
声は控えめだが、どこか凛としていた。
担任が別クラスへ連れていくその後ろ姿を見て、美琴は──ほんの一瞬、彼と目が合った気がした。前髪の隙間から覗いた片目が、まっすぐに彼女を射抜いたような気がして──なぜか、胸がざわついた。
⸻
放課後。掃除当番だった美琴は、ゴミをまとめて裏庭にある集積所へ向かっていた。
(誰もいない……静か)
木々が風に揺れ、葉の音がかすかに耳に届く。その奥で、制服姿の誰かがしゃがんでいた。
──夏目 契。
無言のまま空を仰いでいた契に、美琴は声をかける。
「……こんなとこで、なにしてるの?」
「風が……静かだったから」
「……ふぅん」
気まずい沈黙。美琴は自分でも、なぜ話しかけたのか分からない。
でも、聞きたかった。“あの日のこと”を。けれど、その言葉は、喉でつかえたままだった。
契は背を向けながら、静かに呟く。
「……気にしなくていい。オレは、ただここにいるだけだ」
その言葉の裏に何かを感じたとき、ふと──木々の陰から、異質な“気配”が揺れた。
気づいたのは、美琴ではなく読者だけ。契の視線がほんの少しだけ、その奥へと向いていた。
──その様子を、遠くから見つめる影があった。
沢桐 海。校舎の裏手に回り込み、木陰から二人の様子をそっと覗いていた。
その目には、確かな確信があった。
(……あの人。やっぱり、見えてる。“それ”を……)
海はその場から動けず、ただじっと息をひそめる。
(僕の“視えるもの”を……消せるかもしれない)
けれど、自分から声をかける勇気はなかった。足は震え、喉は渇き、息もまともにできなかった。
(もう少しだけ……様子を見てみよう)
その日の帰り道。
空が灰色に染まり、突然の大粒の雨が降り出した。
鞄を抱えて軒下で雨宿りする美琴。空はすでに薄暗く、帰路につく生徒たちの姿もまばらだった。
と、足音。雨の音にまぎれて近づく影がひとつ。
「……入るか」
目の前に、傘が差し出された。持ち主は、夏目契。
手にしているのは、見覚えのない、少し使い込まれた折りたたみ傘。
「……それ、拾った。多分、誰かの忘れ物だ」
ぶっきらぼうな言い方。けれど──
(……もう一本、背中に差してる)
長い傘が契のリュックに差してあるのを見て、美琴は気づいた。
「ふふ……うそ、下手だね」
言葉にした途端、契はわずかに視線を逸らし、耳のあたりが赤く染まった。
「……うるさい。あとで、返せ」
それでも、二人は傘の中で並んで歩いた。
家が同じ方向だと知ったのは、偶然だったのか、必然だったのか。
濡れたアスファルトに、水たまりが映す影は、ふたつ。
その距離は、ほんの少しだけ近づいていた。
⸻
その夜。
沢桐 海の自室。窓際で、彼は一人、小さく震えていた。
「……また、見えてる」
カーテン越しに、モヤのような黒い影が揺れる。
それは、何かを“見ている”ように、海のほうをじっと見つめていた。
(やっぱり……止まってない。前より、はっきりしてきてる……)
震える指で前髪をなぞりながら、海は唇を噛んだ。
──この“視えるもの”は、自分だけのものじゃない。そう、思い始めていた。