第4話『囁く声、ほどける闇』
* 夢 *
霞がかった世界の中で、美琴は、ひとり桜の木の下に立っていた。
風もないのに、枝が揺れ、花びらが舞う。
けれど、それはどこか異様だった。
──だれの、せい?
背後から響く少女のような声に、振り返ったその先。
そこには、黒い何かがいた。
花弁を食らうように蠢く、禍々しい影。
姿かたちは定かではない。ただ、確かな“気配”だけが、皮膚の内側まで染み込んでくる。
──さわらないで、近づかないで、お願い。
その声が美琴の胸に突き刺さる。
切ないような、痛ましいような、どこか懐かしい響きだった。
「……っ」
目が覚めたのは、朝の陽光がカーテンの隙間から差し込む時間。
額にはうっすらと汗。喉が渇き、呼吸が浅い。
(……また、変な夢)
夢の中の桜の木も、囁く声も。
どこか現実で見た気がするのに、思い出せない。
美琴はゆっくりと起き上がり、机の上に置かれたペンダントにそっと目をやった。
指先が、自然とそれに触れる。
* 放課後 *
その日の放課後、教室を出ようとしたとき。
クラスメイトの高城沙耶が、遠慮がちに声をかけてきた。
「桜木さんってさ……その、変なものとか、見えたりしない?」
美琴は足を止め、沙耶を振り返る。
沙耶は、普段あまり目立たない子。けれど今は、どこか切羽詰まったような顔をしていた。
「……どうしてそんなこと、聞くの?」
「わかんない。でも、最近ずっと、誰かに見られてる気がするの。……夢にも出てくるし、黒い影みたいなのが……」
その声が、微かに震えていた。
教室にはもう人がいない。ふたりの言葉だけが、空間に浮かぶように響いていた。
(‥‥この感じ‥‥誰かに見られてる気がする‥)
美琴の背中を、ぞわりとした寒気が走る。
音もなく、空気が揺れた。
ポケットの中のペンダントを、無意識にぎゅっと握る。
「……気のせいじゃないと思うよ」
思わず出た言葉だった。
でも、美琴の声は不思議と落ち着いていた。
「もし、怖かったら……誰かに頼ってみるのも、いいと思う夏目くんとか?」
「え?!‥なんで夏目くん?」
沙耶は、冗談だと思ったのかほんの少しだけ安心したように笑った。
それでも、瞳の奥に宿る影は、完全には消えなかった。
* 放課後、校舎の奥 *
教室を出た沙耶は、一人きりで昇降口へと向かっていた。
夕暮れの空が、校舎の窓から茜色を差し込ませている。
その時──
どこかで、誰かが囁いたような気がした。
(──さや)
誰の声かもわからない。
けれど、確かに聞こえた気がして、足が止まる。
──そして、次の瞬間。
ざぁっ……と、空気が変わった。
何かが、背後からすり寄る気配。
声にならない叫びをあげようとしたとき、廊下の先に黒い影が“立って”いた。
高城沙耶の意識が、ぐらりと傾く。
──その時、黒い制服の少年が、音もなく現れた。
「……もう、やめろ」
夏目 契。
その瞳には、迷いも恐れもない。
彼は沙耶と影の間に立ち、懐から数珠を取り出した。
数珠には薄く光が宿っている。
「これは……お前の心の奥に棲む悔い。‥闇が餌を探している‥だが、まだ戻れる」
静かな声とともに、契は手を掲げる。
「『……還れ』」
数珠から淡い光が漏れ、影を包み込んだ。
影は軋むように揺れ、やがて霧のように消え去った。
沙耶は、その場に崩れ落ちる。
──その様子を、廊下の隅で美琴は見ていた。
(……やっぱり、夏目くんは……)
言葉にはできない。けれど確かに、“普通じゃない”何かを見た。
彼の存在が、この世界の“外側”に繋がっているような気がしてならない。
ふと、気配に気づき、美琴が顔を上げると──契の姿は、もうそこにはなかった。
「……いない……?」
驚きに言葉を失う。
その時、足音が近づいてくる。
「桜木さん?まだいたのか」
教師が廊下に現れ、倒れている沙耶に気づくとすぐに駆け寄った。
「高城さん!? ……何があった」
「……わかりません。……急に、倒れてて……」
先生は慌てて沙耶を支えながら、美琴に言った。
「保健室はもう閉まってる。職員室へ運ぶよ。桜木さんも、もう下校時間だ。帰りなさい」
美琴は頷きながら、さっきまで契がいた場所に視線を向けた。
──彼のこと、もっと知りたい。
だけど、それは同時に、何かとても“危ういもの”に触れる気がしていた。