第3話「静寂のページと、ふたたびの影」
放課後の校舎は、昼間の喧騒が嘘のように静まり返っていた。
桜木美琴は、革のブックカバーに手を添えて、静かに図書室の扉を押し開ける。ぎしり……と鳴る蝶番の音が、妙に大きく聞こえた。
「……いたらいいけど」
先生に勧められた文芸書の在庫が、学校にあると聞いて足を運んだのだ。検索機では確認できなかったけれど、念のために直接探してみようと思った。
空気は澄んでいて、少し肌寒い。開け放たれた窓から入り込んだ風が、白いカーテンをふわりと舞わせる。
その向こう、陽の差す窓際の席に、誰かの姿があった。
美琴は思わず立ち止まる。
──夏目契だった。
黒く艶やかな髪に、赤いインナーカラーがちらりとのぞく。背もたれに寄りかかって本を読みながら、伏し目がちに静かにページをめくるその姿は、まるで物語の登場人物のようで。
(なんで、ここに……)
声をかけるべきか迷っていると、契がふとこちらを見た。
「……なんだ。ついてきたのか」
「ち、違うよ。先生に、本を探すように言われて……」
慌てて否定する美琴に、契は少しだけ視線を逸らし、読んでいた文庫本を片手で持ち上げた。
「……読み終わった。やる」
「えっ?‥あ!探してたやつだ‥」
ぶっきらぼうな口調。でも、その声にはどこか照れたような柔らかさが混ざっていた。
美琴はおそるおそるその本を受け取る。手が触れ合いそうになって、どちらからともなくわずかに身を引いた。
(……やっぱり、不思議な人)
「ねぇ、契くん……もし、よかったら一緒に帰らない?」
一瞬、契の瞳が揺れた。けれど、答えを返す前に、どこからか風が吹き込んできた。
――ヒュゥゥ……
「……っ?」
美琴の胸に、かすかなざわめきが走った。
その直後、風に揺れるカーテンの影が、窓の外に何か黒い影を映し出す。
美琴が気付いたときには、契の姿はもうなかった。
「えっ……?」
周囲を見渡しても、彼の姿はどこにも見えない。
(……今、目の前にいたのに)
戸惑いながらも、本だけはしっかりと手の中に残っていた。
──
そのころ。
校舎裏の人気のない非常階段。誰も来ないような場所で、長谷は周囲を確認しながら制服のポケットからタバコを取り出そうとしていた。
「ったく、マジでやってらんねぇ……」
誰にも聞こえない声で毒づきながら、煙草を口にくわえようとした、その瞬間だった。
「っ、ぐ……!」
頭を押さえてしゃがみ込む。視界の隅に、黒いモヤのようなものがまとわりつき、何かが囁くような気配が耳をかすめる。
(……またかよ。なんなんだよ、これ……っ!)
呼吸が浅くなる。手が震える。何かに飲み込まれそうな感覚に、長谷の意識が遠のきかけたその時──
「……近づくな」
低く、静かな声が響いた。
気配が風のように変わる。黒い気配が凍るように止まった。
風もないのに、黒いモヤだけがゆっくりとほどけていく。
その場に立っていたのは、契だった。
黒い上着の裾が風に揺れる。赤いインナーカラーが差す髪の先が、うっすらと月光をはね返していた。
彼はそっと片手を上げ、目を閉じて呟く。
「……静魂」
その言葉と共に、空気が静かに澄んでいく。まるで、波紋が広がって何もかもを浄化するように。
長谷はそのまま、静かにその場に倒れ込んだ。
契は一瞥だけして、そっと背を向ける。
「……しつこいな。あんたに構ってる暇は、ないんだ」
──
再び図書室。
美琴は本を持ったまま、校舎内をそっと見渡していた。
(いない……さっきのこと、やっぱり気のせいじゃ……)
その場にはもう、誰もいない。けれど、渡された本だけが、机の上に置かれていた。
指先でその表紙をなぞる。
あたたかさの残る気配を、確かにそこに感じながら──
彼女はそれを、静かに鞄へとしまった。
そして、誰にも言えない胸騒ぎだけを心に抱えて、図書室をあとにするのだった。